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六
「御庄先生」
五十槻と美千流が、はからずも声を合わせて彼の名を呼んだ。八月の暑気の中を、ひいひい息を切らして走ってきたのは、五十槻の主治医でもある軍医、御庄康照軍医少佐である。
「いや、困るよ清澄くん。勝手に列を離れちゃあ……予定では、これから看護隊全体で説明をするところだったんだよ? 急にいなくなるから、どこへ行っちゃったのかと……」
くたびれた風貌の軍医はさらにくたびれた様子で、ぜえぜえと忙しない息遣いで美千流へそう告げる。令嬢は「えっ、まあ。私ったらやだ!」と慌てた様子だ。美千流が「いますぐ戻りますわ」といくぶんか沈んだ声で続けるが、軍医は「いやいいよ」と首を横に振った。日差しが強いので、全体説明は後回しにして休憩を優先したらしい。遠目に見えるもんぺの少女たちは、三々五々草地に散らばって、思い思いに休んでいる様子だ。
軍医の呼吸が落ち着いたあたりで、綜士郎と五十槻、一応万都里が軍医少佐へ敬礼を示している。御庄軍医はそれへやんわりとした仕草で答礼すると、にこやかに口を開いた。
「いやぁ、みなさんに八朔くんも久しぶり。驚いただろう、清澄くんが看護隊にいて。彼女優秀なんだよ、あらかじめ医術の勉強をしてくれていたみたいで、入隊試験では一番いい成績を……」
相変わらずの人好きのする笑みで、御庄医師はつらつらと語りだした。五十槻はそれを神妙な表情で聞いているし、褒められているはずの美千流は異様に沈んだ表情をしている。
「ははは、以前街で八朔くんたちに会ったとき、うっかり口走らなくてよかったよ。清澄くん、八朔くんの力になりたいって、きみには内緒でずーっと研修頑張ってたから……さ……?」
明るい口調を続けていた軍医は、やっと場の雰囲気に気付いたようだ。言葉尻を途切れさせながら、御庄医師ははて、と口端を引きつらせる。
「えーと……なにかあった?」
軍医の放つ鈍感な一声。背後から、綜士郎が大きめのため息をつく気配が伝わってくる。「ハッ」と万都里が失笑する声も続いた。
なるほどと、この空気の中で、五十槻は先日の出来事を思い返している。
以前、精一に連れられて街へ出て、偶然美千流や雫、昴と出会った日のことだ。喫茶店で彼女らと歓談したのち、街を歩いている最中──御庄軍医とたまたま遭遇したときのこと。
その際、御庄と美千流とは、互いに顔見知りのような会話を交わしていたけれど。つまりそれは、美千流が看護隊へ応募したことによるつながりだったようだ。五十槻の胸の内で、先月の出来事がやっと腑に落ちる。
……などと真顔の少尉が考え事をしている最中に、美千流が軍医へ、少しふてくされた顔でこの沈鬱な雰囲気の理由を説明している。
「……五十槻さん、私がご一緒するのは迷惑なんですって」
「え、そうなの? 八朔くん?」
美千流の話しぶりに、軍医はぎょっとした顔をこちらへ向けた。五十槻は無精ひげの医師の顔をまっすぐに見据えながら、堂々と応答する。
「はい。率直に申し上げて、足手まといに他なりません。清澄さんが、ということではなく、看護隊の存在そのものが」
五十槻はきっぱりはっきりとそう言って、さらに言葉を続けた。
「御庄先生。お言葉ですが……今回の任務、か弱い女性のみなさんを同行させることはいかがかなものかと愚見します。神域の近くには危険も多く、万が一禍隠に襲われれば、神事兵がそばにいるとはいえ、即座に対応できない状況も生じ得るかもしれません」
「か弱い女性のみなさん」のあたりで、綜士郎はいかにも「どの口が言ってんだばかたれ」と言いたげな顔をしている。
五十槻からの異議申し立てを受けた御庄軍医は、苦笑気味に口を開いた。
「八朔くん……。やれやれ、参謀本部や特務司令部にはすでに承認してもらって、正式に帯同命令が出てるんだ。きみの言い分もわかるけど、もういまさら覆せないよ」
「しかし……」
「お友達が危険な場所に身を置くことが、心配なんだね」
御庄医師は五十槻の心配も、美千流の気落ちした様子にも気を配りつつ、続ける。
「一応看護隊のみなさんは、後方の安全な場所で職務に従事してもらう予定だよ。危険地域へ赴くのはあくまで、軍医科の士官だ。そこは安心してもらいたい」
五十槻の主治医は、少女の懸念をよく分かっているようである。五十槻が子どもの頃からよく知っている笑顔で、軍医はにっこり笑いかけてくれた。それでも心配そうにじっと見つめる紫の瞳に、御庄は少し真剣になって続きを述べる。
「それに……なるべく安全が確保できる機会を利用して、医療や看護の経験を積んだ人材を育成しておかなければならない。来たる羅睺蝕に備えて」
特務群随伴女子看護隊。その真の目的は──未曾有の大災害が想定される『羅睺蝕』発生に向けて、少しでも怪我人の手当てができる人材を増やすことにある。
美千流の他、看護隊はおよそ三十名ほどで構成されている。特務司令部は皇都選抜の者だけでなく、各地方で同様の女子集団を選抜し、今回の一号作戦への参加を見込んでいる。禍隠から負う傷のほとんどは咬傷や爪牙による裂傷であり、こういった創傷に対応できる人材の確保は急務だった。なにせ羅睺蝕では、門を通じていまの倍は禍隠が現世に解き放たれるという推測もある。
そういうわけで、看護隊の活躍如何によっては、彼女らの存在も「二号作戦」に組み込まれるかもしれなかった。
「ともかく、看護隊の者たちが前線へ出ることは決してない。そこのところは、藤堂群参謀が特別の配慮をしてくださるはずだ。そうですよね、藤堂大尉?」
軍医の呼びかけに、綜士郎は諦めたような顔色で「ええ」と頷いている。元々綜士郎は看護隊の存在に否定的である。とはいえ、決定事項は決定事項。参謀は粛々と手筈を整えなければならない。
「それはもちろんです。看護隊警護のために、各地の歩兵科にも協力を依頼しています」
「心強いことです。ね、八朔くん。藤堂大尉の采配なら安心でしょ?」
「……藤堂大尉の御采配であれば、まあ……」
「もうっ、相変わらず藤堂さんを引き合いに出されたらちょろいわね、あなたって人は!」
美千流の指摘通り、やはり八朔五十槻は藤堂綜士郎の犬である。藤堂大尉の判断こそこの世の中で最も信頼のおけるものであり、大尉が看護隊の警護に心を砕かれているならば、自分なんぞが口を挟むのは野暮というものである。
そんなわけで。五十槻が看護隊の存在を認める姿勢を示し、美千流も元気を取り戻したような気配を見せている。
「というか清澄の。キサマの親父は有名な神籠嫌いだったろう。よく許しが出たものだな」
不意に万都里が口を挟んだ。美千流は五十槻に向けていた繊細な乙女の面持ちから一転、「あ?」と喧嘩腰の顔で万都里へ凄んだ。
「ま、当然めーっちゃくちゃ反対されましたわよ!」
「そのまま親の言うことを聞いてりゃいいものを……」
「獺越少尉の言う通りです。お父君の御心配ももっともかと」
「まー! 五十槻さんまで!」
五十槻の横槍を聞きながら、綜士郎はいかにも「だからどの口が言ってんだばかたれ」と言いたげな顔。
さて、美千流は意中の少尉とムカつく少尉からの白い目にもめげず、強気の言葉を続けた。
「もうっ、清澄の家のことならご心配なく! お姉さまに協力してもらって、お父さまなんか黙らせてきましたから!」
「ハッ、清澄京華も一枚噛んでるとはな。あ、分かったぞキサマ。さては軍属の姉のコネに頼って、やはり不正入隊を……」
万都里はどうしても美千流を不正入隊ということにしたいらしい。またしても不名誉な憶測を声高に言い放とうとするけれど、彼の発言は途中でピタリと止められる。後ろから彼の右肩をガッシリ掴む、細い女性の手によって。
「あら。うちの妹がなにか?」
「げっ、清澄京華!」
噂をすれば、というやつである。白魚のような指に万力の如き力をこめ、万都里の右の肩をギリギリと押さえつけているのは──美千流の姉、清澄京華である。
「うふふ。さっきから美千流のあらぬ風評が聞こえると思えば……獺越さんとこの御曹司は本当にどうしようもないわね」
うふふ、などと発しつつも、京華の目元は笑っていない。万都里の肩を掴む手の力はかなり強く、いまにも鎖骨を粉砕骨折させんばかりである。姉の登場に、美千流は俄然瞳を輝かせた。
「お姉さま!」
「美千流。安心して、あなたを悪しざまにこきおろす輩は、姉がしかと成敗してさしあげます」
「さすがお姉さま! そこに痺れる憧れますわ!」
「おいふざけんな! 部外者が軍人へ、勝手に懲罰を加えられるわけがないだろう!」
痛めつけられながら万都里、必死の抗弁である。しかし京華は微笑みを浮かべたまま、綜士郎の方へ射干玉の瞳を向けながら問う。
「そこのところ、どうなのかしら。藤堂さん」
成り行きに、綜士郎はしばし目元を引きつらせていたけれど。気を取り直したように咳ばらいをひとつすると、もったいぶった口調でこう応じた。
「看護隊員としてご協力くださっているご令嬢に対し、根も葉もない悪評を流布しようとする獺越が全面的に悪い。清澄博士、すまんがこいつを躾け直してやってくれ」
「藤堂キサマ──ッ!」
というわけで、事態は万都里にとって最悪の展開である。彼を細腕で締め付けたまま京華は、いつの間にか傍らに立っていた精一と「俺、荒縄持ってるよ京華さん」「あらありがとう甲さん」などとやりとりを交わしている。甲精一はなぜ荒縄を持参しているのか。
そんな阿鼻叫喚の顛末を、御庄軍医少佐は唖然と眺めていた。軍医はこのしっちゃかめっちゃかの空気に慣れていない。
ぎゃあぎゃあ喚く万都里を引っ立てながら、ふと、京華は御庄の方へにっこりと笑いかけた。
「お騒がせしていますわ、御庄先生」
「や、やあ京華ちゃん。お久しぶりだね」
外野からこの喧噪を見ていた五十槻は、意外だと思った。御庄医師は美千流とだけでなく、京華とも知り合いなのかと。御庄がちゃん付けで京華を呼ぶあたり、比較的親密な関係なのかもしれない。
とはいえ、別に男女の仲を勘ぐったわけではない。思うに、美千流の姉が幼い頃からの知り合いのような……そんな空気感を、五十槻はふたりの間に感じ取ったのだ。
そして京華と御庄軍医が知り合い同士ということに注目したのは、五十槻だけではない。
「おい清澄京華! キサマ軍医と知り合いか? やっぱりコネを使って妹を不正入隊させたな! おい軍医答えろ、袖の下でいくら掴まされた!」
万都里はこの状況でも元気である。相も変わらず人聞きの悪いことを喧々とのたまうので、京華は間髪入れず青年のみぞおちにズドンと肘鉄を入れ、容赦なく黙らせている。
そんなこんなで獺越少尉は連行されていった。軍服の襟首を掴まれて、みぞおちの痛みに悶絶したまま、引きずられて。京華はこともなげに青年を引きずりつつ、精一から借りた荒縄片手に、どこぞの茂みへと消えていく。
五十槻は綜士郎、御庄軍医とともに、呆然とその後姿を見送った。美千流だけが溌剌と「お姉さま! 息の根を止めてくださって結構よ!」なんて物騒な声援を送っているのだった。
そんな一幕へ、不意に割って入るしわがれ声。
「はっはっは。いいのうあんの若造も。京華ちゃんみたいな美女に折檻してもらえるなんてのう!」
いつの間にか、五十槻のそばには背の低い、杖をついた白衣の老人が一人立っている。老人の右目には眼帯。五十槻は呆れ気味の真顔のまま、その老爺の名を呼んだ。
「南桑博士……」
南桑陣吉神祇研所長。京華の上司である。どうやら部下である京華の尻を追いかけて、ふらっとこの場に現れたようだ。南桑老人は、隻眼でじろりと、五十槻、それから美千流を舐めるように見た。
「ふむふむ。こっちのお嬢ちゃんは京華ちゃんの妹さんかい。お姉ちゃんに似て、かわいくておしりぷりっぷりだのお」
「げっ……なんですのこのジジイ」
美千流がとっさに五十槻の背中へすがりつく。五十槻は恬淡とした口調で「御令姉の上司の方です。神祇研の、南桑陣吉博士」と南桑を紹介した。
老人は子ども二人から視線を離すと、今度は御庄軍医へ話しかける。馴れ馴れしい口ぶりだ。
「……で、あんたが御庄さんかい。看護隊を提案したとかいう」
「ええ、お初にお目にかかります、南桑博士。お噂はかねがね……」
「はっは、どうせろくでもない噂だろう。それよか御庄先生。わし知っとるよ。看護隊って顔採用なんじゃよ。みーんなぷりちーでぷりぷりのかわいこちゃんばっかりじゃ」
などと陣吉じいちゃんは、好色な視線を遠くのもんぺ娘たちへ投げかけた。「ほれ見い、みんなぷりっぷりじゃあ~」と、とろけた声と顔で老爺がつぶやくので、美千流は五十槻の後ろで身震いした。
顔採用、などと揶揄されて。御庄軍医は「別にそういうわけでは」と答えに窮している。この軍医は、人は好いが優柔不断で、こういう会話を無難にやり過ごすことが苦手だった。
「…………」
あちこちでわいのわいのと騒ぐ人々へ、綜士郎はぼんやりとした視線を投げかけている。なんとなく、顔色が悪いようである。
いつの間にか彼の隣に立っていた精一が、にこやかなキツネ顔で綜士郎を見上げて言った。
「だいじょぶ綜ちゃん? やってけそ?」
「……正直不安しかない……」
まだ作戦初日である。群参謀はがっくりと肩を落としながら、すでに疲労の溜まったような声と顔で答えるのだった。
特務群には──五十槻、万都里、精一の三名が専任小隊「飛電」として第一中隊より異動。ちなみに、崩ヶ谷黄平中尉は第一中隊でお留守番である。
また、陸軍神祇研究所から、南桑陣吉所長、清澄京華博士をはじめとした研究者数名が同行する。
そして、随伴女子看護隊。清澄美千流が参加するからには、五十槻を巡って万都里とで諍いが生じるのは必至である。というか、いましがた二人はいがみ合ったばかり。
参謀の仕事は、任務遂行にあたり必要な情報を収集し、それらに基づき作戦を立案し、指揮官へ提案することである。また作戦の行使にあたり、関係各所や他兵科との連絡、調整役もこなさねばならない。つまりやることがめちゃくちゃ多い。
それなのに。第一中隊から配属された将士が問題を起こせば、まず間違いなく仲裁役に駆り出されるのは綜士郎である。先刻の様子を見るにつけ、きっとトラブルは日常茶飯事になりそうな予感だ。
「ははっ、綜ちゃん顔めっちゃ死にそーで草。ま、がんばってね」
「他人事のように言うな甲! やらかしの実績で言えば、お前がダントツだからな!」
うははー、と笑っている精一に、肩を竦めて見せる綜士郎。その様子を傍らで聞きながら、五十槻は密かに思った。
──藤堂大尉は作戦中、ご多用でいらっしゃる。なるべく負担をおかけしないようにしなくては。
足元の草を見下ろしながら、五十槻は拳をぎゅっと握りしめる。父のこと、母のこと。弟のこと。綜士郎に頼りたいことは、山ほどあるけれど。
「藤堂大尉、八朔くん。えーと、少しいいかな?」
不意に御庄軍医が、南桑博士のウザ絡みを振り切ってこちらへ歩み寄ってきた。
呼ばれた五十槻と綜士郎は、きょとんと医師の方へ視線を向ける。御庄は精一に「すまないけど外してもらえるかな」と遠慮がちに声をかけ、彼が「うぃーす」とどこかへ去っていくのを確認してから、改めてふたりへ向き直って続けた。
「ご存じの通り、今回私は特務群には同行しません。司令部での勤務を命じられています」
軍医の言う通り、御庄康照軍医少佐は此度の特務群の行軍にはついてこない。特務司令部にて諸々の事務に従事する役目を負っているからだ。つまり、五十槻の抱える事情を知る医師が、現状いないということになる。
「とはいえ、八朔くんの事情に詳しい医師が同行しないのは心許ない。そういうわけで、おふたりには紹介したい者がいます」
御庄軍医は、いつものちょっと気弱な笑みで続けた。
「こちらへ」




