4-3
三
「大皇陛下の御親覧である──」
蒸すような暑気のこもる講堂に、侍従長の声が厳かに響き渡る。
八月一日、陸軍省。「対羅睺蝕国家防衛計画第一号・海㝢縦貫作戦」開始にあたり、壮行式が催されている。
特務群中核部隊一同は整然と頭を深く垂れ、瞑目した。最敬礼だ。
講堂の空気が、水を打ったような静けさに満たされる。
五十槻も最前の列にいる。少女は目を閉じて、まぶたの裏の暗闇をじっと見つめていた。
壇上、上手側より人の気配。『彼』が登壇するなり、さっきまで暑かった講堂内の空気が、急にひんやりと冷え込んだようである。
控えめな、静かな靴音は講壇中央で止まる。
沈黙。
一声も発さず、『彼』はじっと佇むのみ。
けれどもその気配はまるで、神さびた眼差しで──こちらの心の臓の内側まで覗き込んでいるようだ。
気配はしばらく沈黙を保ったあと、悠然たる足取りで上手袖へ戻っていった。
直れの号令で五十槻は頭を上げた。
壇上にはもはや誰もいなかった。ただ、冷え冷えとした空気ばかりが残っている。
── ── ── ── ── ──
八洲大皇国における最も高貴な存在が、大皇である。
最高神・恒日大神の裔にして、すべての神籠を統べる長。神實、神依を問わず、神籠は古今例外なく彼の統率下にあった。
上代。八洲全土を統一した初代大皇により、すべての神籠を従属させ、管理する組織──神籠衆が結成される。大皇は自らの異能を──神域を展開する能力を通じ、配下の神籠たちを全国に派遣して、禍隠の害から民草を守り続けた。
中世に入ると、神籠衆は名称を神祇寮と改める。職務内容は以前と大して変わらない。
神籠衆、そして神祇寮。上代から近代に至るまで、神籠の集団は常に大皇直属の組織に所属していた。
大皇の直裁を受けることは、八洲の臣民にとって誉である。特に神實という、代々神籠を輩出する特異な血族に関しては、千年以上ものあいだ大皇に直隷してきた自負からか、尊皇の気風が色濃い家風を持つ傾向があった。
そして現代。神籠は兵科の一つとして、皇国陸軍麾下に組み込まれることになる。『神事兵科』だ。
『神事兵科』の沿革の前に少しだけ、近代から現代に至るまでの八洲の歴史を説明しておく。
八洲においては長らく、大皇の任命を受けた将軍家を中心とする、幕府政治が敷かれていた。この幕府政権は二百年ほど安定して権威を保っていたものの、晩期には西洋列強の外圧に屈し、衰退していく。
諸外国の圧力に何よりも反発したのは、八洲の知識人層であった。彼らを中心に、八洲の人々の間には攘夷の気風が養われ、その気勢は、諸外国へ弱腰な姿勢を取り続ける幕府への猛批判へとつながっていく。いつしか攘夷の声は倒幕の声に変わり、そして。
幕府最後の将軍が大政を大皇へ奉還し、新政権が樹立される。現在からおよそ五十年前のことだ。
新政権は国号を八洲大皇国と名乗り、大皇を君主として戴くことを国是とした。
また政権は西洋列強に対抗すべく、積極的に対外貿易を行い、かつ政治体制の西洋化を推し進めるなど、それまでの伝統的な武家統治を抜本的に作り替えていった。すべては列強に比肩、いや、彼らを圧倒するため──富国強兵を成すためである。当然、西洋を参考に、皇国政府は軍部を創設する。
陸軍、海軍。各種兵科の新設に徴兵の制度。また陸海軍の軍権は、国家の主宰である大皇が総覧することが取り決められる。
諸外国に倣い軍の整備を進めるなかで、皇国政府はひとつだけ、扱いの難しい戦力の存在に苦慮することとなる。神籠だ。
神籠はあくまで大皇直属の、禍隠討伐専用の戦力だ。そもそも新政府樹立後、旧神祇寮は後継組織として、大皇直下の行政機関「神祇庁」を新設し、そちらへ引き継がれる予定であった。警察や消防のような組織だ。
けれどこれに異を唱えたのが軍部の人間である。彼らは古来よりの害獣である禍隠を「異界からの侵略者」と位置づけ、これに抗する力を持つ神籠の人々を、軍人として遇することがふさわしいと主張した。
しかしこの理屈はあくまで建前である。本音としては神兵たる神籠を擁することで、創設したばかりの軍に箔をつけたかったのだ。神の力を宿す異能の集団は、それだけ八洲社会に対し伝統的な威信を持っていた。神籠は陸軍の麾下となる方向で議論が進められる。
しかしこれに難色を示したのが、当時の大皇自身であった。いくら自身が統帥権を持つとはいえ、神籠を軍の麾下に置くということは、彼らが自らの直轄ではなくなるということだ。当時の軍部の構想では、神籠は専用の兵科をひとつ新設し、陸軍参謀本部の指揮下に置くことになっていた。大皇は内部統制上、神籠たちと自身との間に、他者──陸軍首脳の介在があることを嫌ったのである。
新政府の樹立に際しほとんど口出ししてこなかった大皇が、唯一頑なな姿勢を示したのが、こういった神籠の扱いについてであった。議論は揉めに揉め。
熟議に熟議を重ねた結果、平時は参謀本部が指揮を執ることとし、非常時に関しては大皇の直裁を受ける軍令が取り決められる。また神籠内で最も階級の高い将官には、参謀本部の命令を拒否する権限までもが与えられた。神籠以外の者が、この異能をみだりに禍隠掃討以外の目的で用いぬように、である。
こうして皇国陸軍『神事兵科』は設立された。
神事兵科における最上位の階級は、少将である。
現在この地位に就く神籠は、名門神實華族、鞍掛家の長男──鞍掛基少将ただひとり。
── ── ── ── ── ──
晴天に霹靂かまびすしく。
青田広がる皇都郊外の田園に、八朔の雷が閃いた。
田園風景の中に、異彩を放つ赤い発光体がひとつ。赤光でまるい輪郭を描く異界への穴──門だ。五十槻の稲妻は狙いを違わず、初撃で門の中心部を貫いたのだった。
かくて門の破壊は相成った。対ラ一号作戦における、初の羅睺門破壊である。
紫電の閃光が赤い凶光を打ち破る様を、彼方から将官階級の軍人たちが眺めている。
ここは事前の調査で休眠中の羅睺門が存在することが判明しており、なおかつ禍隠の発生も確認されていなかった。見学者の安全を確保しつつ、神籠の威を示すにはちょうど良い立地、条件の場所である。そういうわけで、他科の将校も含めた多数の制服姿が、神事兵初の大規模作戦の開始を見学に訪れていた。
そのうちのひとりが鞍掛少将である。皇都守護大隊指揮官の鞍掛至少佐の実兄だ。弟同様、神實の華族にしては冴えない容姿をしている。その辺をほっつき歩いていそうな、ありふれたおじさんだ。ただし気弱な弟と違って、面持ちには強気な顔色が浮かんでいる。そしてどこか怒っているようでもある。
鞍掛兄弟は両人とも神籠を宿していた。鞍掛家の産土は機織りを司る神で、その権能から糸を操る異能を持つらしい。ただ兄弟そろって指揮官階級のため、現在はその力を発揮する機会はあまりないそうだ。
そもそも、兄弟で神籠に目覚めるのはかなり珍しい事例だった。だが八洲には例がないわけではない。神實の中には稀に、鞍掛家のように二人同時に神籠を輩出する家系も存在する。
その鞍掛少将の隣には、もう一人壮年の男が立っていた。軍人らしく、頑健そうな体格をしている。彼の精悍な顔は門があった方へ──八朔の神籠の方へ向けられている。
あたりに轟く雷鳴の残響が、已んだところで。男は鞍掛少将の方を振り返った。
「いやはや本当に素晴らしい、鞍掛少将。神籠の力とはかく、荒々しくも神秘的なものですな。まさしく八洲が誇る至宝。とくに八朔の神籠はとりわけ、派手だし破壊力に秀でている」
「お褒めに預かるほどのことではありますまい。我ら神籠にとっては当然の権能、当然の責務。八朔もおのが使命を果たしたまでのこと。過度な称揚は逆に士気の低下を招きますのでお控えを、津々井陸軍大臣」
少将は早口で陸相を制した。
隣に立つ男──津々井孝之進は、陸軍大臣を務めている人物だ。つまり陸軍における軍政の長である。数年前に現役の歩兵大将から選出され、現在まで陸軍のドンを張り続けている。
津々井は鞍掛の物言いに、ちょっとカチンときたようだ。
そもそも神事兵少将と陸相とは折り合いが悪い。先述の「神事兵少将拒否権」などという権限のせいである。そしてこの鞍掛基という人物は、歴代神事兵で最も拒否権を発動する人物であった。
「ははは、鞍掛さんは相も変わらず大真面目な方ですな。しかし、神籠の方々はもっと大々的に功績を誇ってもよいのではなかろうかね。ほら、そうすれば大皇陛下の権威付けにもなる」
「陛下の御稜威はすでに八洲を遍く照らしておられる。我らがわざわざ喧伝するまでもない!」
「いやしかし……たとえばだね。神籠を外征に用いれば、我が八洲大皇国の威光は……」
「しゃらくさい! 拒否拒否! 断固きょーひ! 外征なんぞもってのほかじゃ大ばかもんが!」
やりとりの末に、鞍掛少将は怒号を発した。怒髪天を衝く勢いである。
この少将、気弱な弟とは正反対に、ものすごく怒りっぽい。なおかつかなり強気な性格である。津々井は鼻息荒い鞍掛に、「相変わらずすぐキレる中年だ」と目元を引きつらせながら漏らした。本来、歩兵大将かつ陸軍大臣の津々井の方が立場が上だろうに、拒否権を盾に鞍掛少将は言いたい放題だ。
短気中年相手に、陸相は苛立った面持ちを露わにしている。
鞍掛との会話でも言及していたように──津々井陸相は神籠外征転用派である。もともと転用の思想を持っていたらしいが、この頃は以前にも増して大っぴらにその意図を露わにしているらしい。旧神祇研所長、香賀瀬修司の不祥事、および急病が軍政にも影響しているのだろうか。
「まったく、鞍掛さんも頭の固い。軍人なら考えるまでもない。神籠というのは、敵地に大規模破壊を起こすことのできる恰好の人間兵器だ。しかもさほど兵站を圧迫しない。国内の害獣退治にだけ用いるなど、もったいなくてかなわん!」
「なーにがもったいないじゃワレ、恒日大神も『神々の力を貸し与えるのは、禍隠の害を除くため』と仰せだろうが。神籠の力はあくまで、禍隠どもを絶滅せしむるためにある! それを夷狄を殺すために使うなどと、貴様は大神に対しても陛下に対しても、不敬にもほどがあるわ!」
「不敬とは失敬な! いいか、神籠の力を用いて諸外国へ畏怖、畏敬の念を抱かせつつ、効果的に我が国の版図を広げることことそ、ひいては大皇陛下のためとなる! 八紘一㝢を成し遂げることこそ、陛下の御意思!」
「陛下の御意思? ふーん、陛下がそう言ったの? いつ? 何時何分? 地球が何回まわったとき?」
「うっさいばーかばーか! 鞍掛なんかでえっきらいだ!」
大人の論争は最終的に、小学生の喧嘩に収束していく。
その様を──綜士郎は少し離れた場所で、呆れながら見ていた。右肩から胸元にかかる飾緒が、呆気にとられたように風に揺れている。
陸相と神事兵少将のやりとりに、参謀となった綜士郎は今後の不安を禁じ得ない。やっていけるのか、こいつらと。
「ははは、相変わらずだねえ。鞍掛兄と津々井は」
綜士郎の傍らで、紫煙をくゆらせながら荒瀬中佐──あらため大佐が鼻で笑った。
「ま、藤堂くんも知っての通り、津々井は転用派の親玉のようなやつだ。実際目の当たりにすると納得でしょ?」
「ええ、まあ……」
「神事兵以外の軍人はみな考えることさ。神籠のような奇跡の力、領土の拡張に使うのが手っ取り早いってね」
津々井孝之進は元々、二十年前に勃発した北海戦役で活躍した将校である。綜士郎が子どもの頃に起きたこの戦争は相当に苛烈で、異国の戦地では大勢の士卒が死んだそうだ。最終的には辛勝をおさめたものの、津々井がこの戦争を通じてどういう考えに至ったかは、現在の転用論への入れ込みぶりをみれば大体分かる。
「楢井を収容所から出したのは津々井だ」
荒瀬大佐は少しだけ声を低めて、綜士郎へ告げた。津々井を見つめる青年の面持ちに緊張が宿る。
先日八朔家に現れた楢井信吾──彼の身元引受人はやはり、津々井陸相であった。以前から荒瀬が目星をつけていた通りである。神籠の収容施設に干渉できる者となると、やはり陸軍上層の人物に限られる。「収容所勤務の刑務官に鼻薬をかがせたら吐いたよ」と、荒瀬はこともなげに続けた。
しかし、なんのために楢井を解放したのかは不明だ。彼は顎を狙撃され、一切の発話を封じられたはずだ。したがって、発話を必要とする言霊の神籠はもう使えない。それなのに彼は、歩兵将校の制服を着て八朔家に現れた。
いや、と綜士郎は胸の内で考えを改める。陸相が直々に収容所から解放するほど、楢井に利用価値を認めているのだとしたら。
もしかすると、楢井は本当は──。
「……まさか楢井は」
「きみが思っている通りだと思うよ、ぼくも」
綜士郎が考えを言い切らないうちに、荒瀬大佐はそう言葉をかぶせた。大佐の眼差しはつい、と前方へ向けられる。さっきまで鞍掛少将と喧嘩に興じていた津々井陸相が、こちらへ向かって歩いてくるところだ。
荒瀬大佐は悠然と、綜士郎は端然と。陸相へ向けて挙手礼を示して見せる。
「やあ、荒瀬大佐、藤堂大尉。なにかお話し中だったかね?」
「いいえ、お気になさらず。何か御用でしたでしょうか」
鞍掛とのやりとりから一転、陸相は老獪な笑みを唇の端に浮かべて見せた。軍人らしい険しい目つきが、荒瀬と綜士郎の顔を順番になぞった。
「用というほどでもない。ただ、今回大任を引き受けて頂く二人に激励をと思ってね。特に、藤堂君は陸大も出ていないのに、異例の人事による参謀抜擢だ。鞍掛少将のな」
皮肉っぽい言い方で津々井は綜士郎をじっと見る。新人参謀の青年は「もったいない御采配です」と謙虚に応じる。が、綜士郎、心の中では「うっせえ鞍掛に文句言え」と舌を出している。青年の眉間に不服の色が兆したが、陸相は構わず続けた。
「噂によると、八朔の神籠は藤堂君に心酔しているそうじゃないか。抜擢の理由はそこだろう、荒瀬君」
「ま、おっしゃる通り八朔くんが藤堂くんを慕っているのは事実です。けれどそれだけではなく、藤堂くん自身の将校としての資質、そして神籠の特性が考慮された結果ですよ」
「ふむ。そういえば藤堂君自身も強力な神籠を持つと聞く。いや、頼もしい限りじゃないか」
津々井はそこで目を細めた。陸相の眼光は野心に燃えている。
「神域一帯の大気を自在に圧縮、拡張する異能──。なんでも禍隠に限らず、生き物を内側から破裂させることができるそうだね。すなわち、広範な領域に対し、大規模な破壊、殺傷を行うことができる。さらには詳細な索敵もできるときた。つくづく戦地で活躍させたい異能だよ」
つらつらと紡がれる物騒な言葉に、綜士郎の整った顔は正直に嫌悪を浮かべている。青年の表情筋は、目上が相手でも素直である。それが自身へ不利に働こうとも。
「お言葉ですが閣下」
綜士郎は顔色は率直に、けれど落ち着いた声色で口を開いた。
「僭越ながら御忠告申し上げます。神籠の取り扱いについては、大皇より禍隠討伐に限定する旨、勅命が下されております。陛下の宸衷にそぐわぬお考えは、控えていただくべきかと」
綜士郎は諫言にかこつけて、自分の立ち位置を表明している。お前の側には与しないぞと。
そんな小生意気な参謀を、陸相は興醒めした顔で見た。確実に覚えはめでたくない。荒瀬は我関せずと言った趣きで、紙巻き煙草を吸い続けている。特務群の指揮官と参謀に、津々井の面持ちは不快を露わにした。
「空気が読めんことだ。……ま、とにかく今回の作戦はしっかりやりたまえ。期待している」
あまり期待していない声で陸相は言った。津々井は踵を返し、他科の将校の輪の中へ去っていく。
津々井がいなくなった後で、荒瀬大佐は「やれやれ」と肩を竦めてみせた。
「わざわざ言わなきゃよかったのに。きみも頑固だねぇ、こと神籠を人間に使うことに関しては」
大佐だって綜士郎の発言を黙認したくせに、しれっとしたものだ。
しかし綜士郎は陸相に楯突いたことを後悔していない。もともと、陸軍での出世には興味がないし、彼が軍中において最も望むことは──五十槻の身を保護してやること。
「藤堂くん。八朔くんもだけど……きみたち身辺には気を付けなよ。マジで。特に作戦後半、八洲東部の門攻略が始まれば連中も仕掛けてくるだろう」
荒瀬は飄々と忠告を投げかけた。この大佐もよく分からない。おそらくは綜士郎と同じく、神籠の外征転用に反対する立場なのだろうけれど。いまいち心象の読めないおっさんである。
「楢井に気を付けろ」
飄逸の雰囲気を一気に潜めて、大佐は真剣な口調で念押しする。荒瀬大佐はそれ以上に忠告を続けなかったが、綜士郎には十分だった。
津々井と楢井はつながっている。楢井は八朔家へわざわざ現れて、唖のふりをしていたけれど。
──あいつは発話の機能を失っていない。きっとまだ神籠が使えるはずだ。
ぷわっ、と大佐の紫煙が蒼天へ昇っていく。煙は青空の中に紛れて消えていった。
── ── ── ── ── ──
待機している車列の中の、ひときわ豪勢な装飾の車に乗り込んで。
陸軍大臣、津々井孝之進は革張りのシートに身を沈めつつ、苛立ったため息を吐いた。神事兵と関わるのは、彼の好むところではない。特に鞍掛基は、転用派へ対する敵愾心の塊だ。
「どうでした。会いましたか、藤堂には」
隣席から低い声が投げかけられる。かなり滑舌の悪い声だ。そちらへちらりと視線を傾けて、津々井は「ああ」と返事をする。
津々井の隣の席に座っているのは──大柄な歩兵将校だ。顔中に包帯を巻きつけている。わずかに垣間見える素肌に這う、蔦のような赤い痣。すなわち落雷の痕。楢井信吾だ。
楢井は不器用な発音で続けた。
「俺の言った通り、でしょう。あいつは絶対、転用派につかない。甘っちょろいやつなんだ。絶好の機会で、香賀瀬に何の危害も加えなかった」
非常に不明瞭な発声である。
包帯男が喋っているのは、神祇研騒動のことである。綜士郎が香賀瀬修司に神籠を使わなかった顛末について、言及している。当時、綜士郎は香賀瀬に対する激昂のさなかであったが、元恩人の挑発に乗らず、神籠を殺人に使用しないという信念を全うしている。
津々井は正直、楢井の滑舌が悪すぎて、彼の発言をまったく聞き取れていない。だから陸相は自分勝手に話し始めた。
「はぁ。奴には八朔の小娘がずいぶん懐いているそうじゃないか。藤堂ごと懐柔できれば後々が楽だったんだが……。厄介なものだ、八朔の神籠が保守派の将校に心酔しているというのは」
やはり陸相の中で、綜士郎の覚えは芳しくない。楢井は毒づく津々井を、にやけ面で眺めている。
津々井はふと、運転手へ向けて唐突に尋ねた。
「おい、五瀬県の……明見の件はどうなっている?」
「はっ、それらしき人物が見つかったとのことで、現在現地の者が確認にあたっているところです」
「ふむ……」
運転手の回答を聞き、陸相はしばし考えこむ仕草。
そして津々井陸軍大臣は、発車する車のなかでぽつりとつぶやいた。
「……邪魔だな、藤堂綜士郎」




