6 泣く子供には勝てません
――――そして、その夜。
日中におけるてんやわんやの騒がしさはすっかりなりを潜め、ホッドミミルの森が夜のしじまに満たされるころ。
今夜はとても月が綺麗で、窓の外のそれをついついじっと見上げてしまう。
子供達はもう誰も彼もが夢の世界に旅立って、私もそんな子供達の手前、寝支度を整えて、自室で一人、リーヴの訪れを待っていた。
いよいよだなぁ、という思いが胸を満たしている。
覚悟はもう決めた。あとは伝えるだけ、と、テーブルの上の書類を手に取る。
そこにつづられた文字のつづりを、何度読み返したことか。
「この期に及んで尻込みを?」と肩を竦めるクロムレックのあきれ顔が目に浮かび、思わず笑ったちょうどその時、扉が軽くノックされた。
「どうぞ」
「…………失礼、します」
「あら、ご丁寧にありがとう」
何やら緊張した様子で、リーヴが部屋に入ってくる。
一応魔王の部屋であるので、それなり以上に広い部屋だ。色々と前時代の面倒なものや厄介なものも置いてあるため、子供達にはこの部屋への出入りを口を酸っぱくして禁じてある。
リーヴも、この部屋に入るのは初めてだから、緊張するのも当然かもしれない。
「こんな時間にごめんなさいね。さ、座って。お茶とお菓子を用意しておいたから」
「……俺だけ?」
「そう。だから『お兄ちゃんとお姉ちゃん』達には内緒ね」
「…………俺と、ティカだけの、秘密?」
「ふふ、そういうこと」
さあどうぞ、と、ソファーにリーヴを座らせて、そのとなりに私も腰を下ろした。
テーブルの上にあるのは、リラックス効果があるというカモミールのお茶と、ささやかな焼き菓子だ。
視線で促すと、リーヴは恐る恐るといった様子でカップを口に運ぶ。それを見届けて、さて、と私は手に持ったままになっていた書類を彼の前に差し出した。
きょとん、とリーヴの紫電の瞳が瞬いた。
それでもほとんど反射のように書類を受け取ってくれた彼は、そのまま紙面に視線をすべらせはじめる。
彼の無表情が、どんどん固く強張っていくのを、私は無言で見つめることしかできない。
そして。
「な、に、これ」
そうして、彼の淡く色づく唇からこぼれた、呆然とした声に、私はなんとか笑い返した。
ちゃんと笑ってこの話をしなくてはと、ずっと決めていたからだ。
「あなたの今後の身の振り方の選択肢よ。人間族の国、アースガルズ。エルフ族の国、アールヴヘイム。ドワーフ族の国、ニザヴェッリル。好きなところを選……」
「違う! そういうことを、言ってるんじゃない!!」
書類がテーブルに叩きつけられ、そのあまりの勢いにそのままそれらは宙へと舞った。
……正直なところ、驚いた。
いつだって大人しくて、びっくりするほど静かで、感情を素直に表に出すことなんてほとんどなかったこの子が、ここまで声を荒げるなんて。
唯一の光源であるランプの光に浮かび上がる、気付けば立ち上がっていた彼の表情には、明らかな怒りがあった。そして同時に、どうしようもないほどの悲しみがあった。
そう、そうやって怒り、悲しんでくれることが解っていたからこそ、私は、この書類を用意したのだ。
私が微笑んだまま、立ち上がることもせずに穏やかに彼を見上げるばかりでいると、リーヴはぐっと唇を噛んでから、絞り出すようにさらに続けた。
「ティカ、は、もう、俺が、いらなくなった? 俺が人間だから、だから、出ていけって言っているのか?」
「半分不正解で、半分正解ね」
「……っなん、だ、よ、それ」
努めてゆっくりと、それこそ赤子にでも言い聞かせるように私が答えれば、リーヴはわけがわからないと言いたげに何度もかぶりを振る。
本当は理解しているくせに。
それでもなお私に問いかけてくるのは、ただリーヴ自身が納得したくないからだ。
解っている。私だって、解っているのよ、リーヴ。
「あなたのことが大切よ。他の子供達だって同じだわ。でも、あなたは人間なの。私達魔族とは、生きる速度が違う。解っているでしょう、この五年で、あなたは本当に大きくなってくれたわ。でも、他の子供達はほとんど変わらない」
「そんなこと! そんな、そんなの、最初から解っていただろう!」
「ええ、解っていたわ。解っていた、つもりだったの」
でも。
「ねえリーヴ。人間の寿命は短いわ。あなたのその限られた大切な時間を、私はこの森の中だけで終わらせてはいけないと思うの。五年前にはなかった選択肢があることを、あなたは理解しなくてはいけない。あなたはもう、どこへだって行けるのよ」
この少年は、私には過ぎた拾い物だった。
五年前、彼は生命の危機に瀕していて、他に選択肢がなかったからこそこのホッドミミルの森にやってきた。
けれど今は違う。
「アースガルズには……あなたがこの森で暮らしていたことがばれるとまずいだろうから、難しいとは思うけれど。でも、エルフの元やドワーフの元なら、彼らは問題なく受け入れてくれるはずよ。だからこそそうね、アールヴヘイムやニザヴェッリルのほうがおすすめね。あそこには永住権を取得した人間もいるもの。もちろんどんな国でも後見人の手配はするから、リーヴ、好きなところを……」
「俺は!」
リーヴは、私に皆まで言わせてはくれなかった。
彼の腕が私の身体へと伸びて、そのまますがりつくようにぎゅうぎゅうと抱き締めてきたからだ。
「俺は、ここが、いい。ホッドミミルの森がいいんだ」
「……そう言ってくれるのは嬉しいわ。でも」
「でも、じゃない! 俺はここがいい!」
頑是ない子供のように、ここがいい、と、リーヴは私を抱き締めたまま何度も繰り返す。
引き剥がすこともできない力強さに息を呑む私の顔を覗き込んでくる彼の顔には、今にも泣き出しそうな表情が浮かんでいた。
「俺は、ティカの、そばがいいんだ」
いいや、泣き出しそう、ではない。もう彼の紫電の瞳にはなみなみと涙がたたえられていて、今にも零れ落ちてしまいそうだった。
『ここにいたい』と言ってくれる彼のその望みこそが、きっと、この子の初めての本当のわがままなのだろう。
いいや、わがままなんかじゃない。どうしてわがままだなんて呼べるだろう。
この子にこんなことを言わせてしまい、こんな風にすがりつかせてしまった私は、本当に何一つ解っていなかったのだ。
人間にとっての五年間がどれだけ長いものなのかを、今さらになって思い知る。
「……リーヴは、それでいいの?」
「それ『で』じゃない。それ『が』いい。ティカのそばじゃなくちゃ、何も意味がない」
だから、と言葉を詰まらせるリーヴのまなじりから、いよいよ涙が伝い落ちた。
ああ、もう、そういうことならば、ああああ、もう、もう、もうもうもう、仕方がないじゃない!
「――――解ったわ」
「っ!」
「あなたの好きになさい。あなたがここにいたいと思ってくれるのならば、好きなだけいてちょうだい」
この地がこの子にとっての最良の選択肢になれるのかは自信がない。リーヴは他の土地を知らないから、他を選べないだけなのかもしれない。
けれどそれでも、ここにいたい、と言ってくれるその言葉に、どんな嘘も偽りもないと解ってしまうから、だから私は、その願いを受け入れたいと思った。
……困った、これではリーヴではなく私のわがままではないか。
よき見本となるべき大人としては大変よろしくないなぁなんて遠い目になっていると、ぱちぱちと何度も目を瞬かせたリーヴが、恐る恐る口を開く。
「……いい、の、か?」
「あら、無理矢理追い出されたい?」
「い、いやだ」
「じゃあこれからもよろしくね……と、その前に」
「?」
「そろそろ離してもらってもいいかしら?」
「!!」
ぎゅうぎゅうに私を抱き締めていた腕が、バッ!! と勢いよく離れていった。
見る見るうちにリーヴの顔が真っ赤に染まり、あぐあぐと声なく口を開閉させ、そうして彼はやっと「違うから!」と叫んだ。
「ちが、違う、違うから! や、やましい、気持ち、じゃ、なくて、その……!」
「ええ、解っているわ。甘えたいのならもっと甘えていいのよ。私はリーヴの親代わりだもの」
「…………それも、違うんだけど……」
「ええ?」
だったら何が違うのだろう、と首を傾げつつ、私は、実のところ、リーヴという末っ子がまだ親離れをしていないことに、ほんの少しだけ安堵してしまっていて、そんな自分の身勝手さを猛省することになる。
かくして、リーヴという人間の少年は、今後もホッドミミルの森で暮らすことが確定したのあった。