2 魔王様、ボロ雑巾を拾う
「ええええええ……?」
季節に関係なく紅葉する木々が集う森、それがホッドミミルの森だ。
唯一の例外がユグドラシルであり、ユグドラシルだけが緑葉をたたえ、それ以外の木々はひとしく赤く色づいている。
だからこそこの森は“燃える森”とも呼ばれ、魔族以外の存在は寄り付かない。
そのため、この森にいる限りは安全だとは解っているけれど、だ。
「いきなりすぎない?」
もう少し説明が欲しかった。
クロムレックのあの様子からすると、割と前からこの計画は進んでいたと見た。
そうか、子離れ……子離れか……。
あんなにもかわいい子供達も、いずれ私の手を離れてしまうのか。
うーん、嬉しくもあり、さびしくもあり、実に複雑な気持ちである。
まあ魔族の成長は、人間とは比べ物にならないくらいに遅いので、まだまだ先だろうけれども。
私も人間でいう二十歳の外見だけれど、実年齢は二百と……どれくらいだっけ? 二百五十には到達していないと思ったけれどどうだっただろうか。
それはさておき、唐突な休暇である。
何をしようか、と迷ったのはわずかな間だった。
何せホッドミミルの森にはなんにもない。木しかない。
足を伸ばしてミズガルズの魔都を目指そうにも、廃墟が広がるばかりと解っているし……普通にこの辺を散歩して、あとはここからでも見えるユグドラシルを目指して帰還しよう。
そう心に決めて、なんとなくのんびりと歩みを進めることしばらく。
「……ん?」
ある日、森の中、ボロ雑巾に出会った……なんて、妙に軽快な歌が頭を流れた。
くまさんではなくボロ雑巾である。
私の視線の先に、ボロ雑巾が落ちている。ちょうど両腕で抱えて少し余るくらいの、薄汚れたボロキレの塊だ。
なにあれ。
このホッドミミルの森に魔族以外が寄り付かないのは、ユグドラシルの守護のもと、魔族以外の種族は確実に遭難してしまう仕様になっているからだ。
だからこそ人間は私達魔族を殲滅できないし、先の戦争で中立を保ったエルフ族やドワーフ族とやりとりするときは、そのためだけの場を設ける必要がある。
ならばあのボロ雑巾は見た通りのボロ雑巾で、たまたま風に乗って飛ばされてきた、のだろうか。それにしてはだいぶ大きいけれど。
んんんん? と首を捻りつつ近寄ると、もぞ、と、そのボロ雑巾が動く。
うわ動いた。
ついでに「う……」というかすかなうめき声が聞こえてきて、それがようやく生き物であることを確信する。
見なかったことにしたほうがいい気はするが、そうするにはなけなしの良心がとがめて、ボロ雑巾のもとに歩み寄ってしゃがみこむ。
そっとそのボロキレ、もといずたぼろになった外套をはがすと、現れたのは一人の少年だった。
おそらく元は銀色であったであろう髪はばさばさぼさぼさの伸び放題、枯れ木のように細い手足、青を通り越して白、いいや土気色のようなかさかさの肌。
あちこち傷だらけで、いっそ目をそむけたくなるような無残な姿の、おそらくは五歳くらいだと思われる少年。
「……人間?」
そう、人間だ。
どうして人間がこの森に、と驚きつつ、とりあえずということで少年の身体をそっと抱き起こすと、彼の長い睫毛がふるりと震え、そうして紫電のような瞳があらわになる。
もうろうとした様子でそのまなこがさまよって、私の姿を捉えた。
無意識にぎくりとする私を、じいと見つめてきた少年は、そうしてまた目を閉じる。
「やっと、俺を、殺しに、きたのか」
「え」
「待ってた」
「ええ?」
何の話だ。
声変わりもしていない幼い声が紡ぐ不穏な台詞に、つい眉根を寄せる。
そんなことを言われましても、私とあなたは初対面なはずなんですが、それは私の気のせいだっただろうか。
年を取ると忘れっぽくなるからいけないなぁ……なんて思ってから、いやまだ私魔族の中ではうら若き乙女なはずなんですけど、と自分の考えを撤回する。
驚くほど軽い少年の身体から、生命力が流れ出していくのが、意識せずとも見て取れた。
これは酷い。この少年の身体の生命力と魔力の流れ、どこをどうしたらこんなにもぐちゃぐちゃになるというのだろう。
どんな種族の生まれの者も、生命力と魔力をその身に宿し、その流れによって世界に生かされているけれど、この少年のそれらは、その世界の大いなる流れに逆らう、あまりにも無残な状態だった。
考えてみなくても、今、この少年は、耐えがたい苦痛の中にいるに違いない。私が何もしなくても、彼は放っておいたら、ものの数分でその命を落とすだろう。
…………うーん、それは、ちょっとばかり、寝覚めが悪い。
「ねえ」
「な、んだ。はや、く、殺してくれ」
「死にたいの?」
「……疲れた、から。だから、もう、いいんだ」
「私が聞いているのはそういうことじゃないわ。あなたはこのまま死にたいのかって聞いているのよ」
「…………殺して、くれないのか?」
「別に私が何もしなくてもあなたはこのままなら死ねるけれど。ねえ、あなたは死にたいの?」
「お、れ、は」
「それとも」
ねえ、と、そのぼさぼさばさばさ伸び放題の、べたついた髪を掻きわけて、紫電の瞳を覗き込む。
「生きたい?」
「っ! あ……っ!」
私の短い問いかけに、紫電の瞳が一気に潤む。
もうほとんど余分な水分なんて身体に残っていないだろうに、それでもなお少年はぼろぼろと涙を流しながら、自身を抱き上げている私の手を掴んだ。
「い、き、たいっ! こんな、死に方、いや、だ……!」
それは、血を吐くような、あまりにも悲しく切なく、そして当たり前の願いだった。
人間の子供の願いなんて、別に私が気に留める必要なんてないのだろう。
けれど、こんなにもただひたすらに「生きたい」と願う幼い子供の訴えをむげにできるほど、私は残酷にはなれなかった。ただそれだけだ。
「そう。あなたは、生きたいと望むのね」
ならば、その願いを叶えてあげる。
幸いなことに私にはまだそのすべが残されているから、だから私は覚悟を決めることにした。
呆けたようにこちらを見上げてくる少年に笑いかけ、そっとその身体を抱え直す。
「――――我は魔王、魔を統べる者、命の流れをさだめる者。我が名、我が命、これをさだめ、この者をさだめとす。我が名はリティラティカ、そして」
そして、と噛み締めて、呆然としている少年の唇に、自らの唇を寄せる。
少年が驚いたように目を見開くのを、誰よりも近い位置で私は見た。
ああ、綺麗な目だな。
紫電の瞳に宿る輝きのまばゆさに目を細め、そのまま私は私の中から流れ出していく魔力と生命力を見送る。
……いたいけな少年の唇を奪ってしまった件については、後でいくらでも謝罪しよう。
そうして、長く短い口付けを終えたときには、少年はすっかり寝入ってしまっていた。
頬には薔薇色の血色が差し、その寝息は極めて健やか、先ほどまでの苦痛からは解放されたと見ていいだろう。
「クロムレックになんて説明しようかしら?」
間違いなく雷が落ちるだろうけれど、やっちまったもんは仕方がないので諦めてもらおう。
子供達へのおみやげはもうこの少年ということでいいだろう、そうしよう。
ああ、そうだ。
「あなたの名前は、今日からリーヴよ。よろしくね、リーヴ……って、聞こえてないわよねぇ……」
すやすやと眠る少年の頭を撫でて、ふむ、と頷く。
はたして私はこの少年をどうやってユグドラシルの根元に連れ帰ったものか。うーん、やっぱり自分で背負って帰るしかないか……。
それに名前も、勝手にリーヴと呼んだとはいえ、そういう風に勝手に決めるのはやはりよくないだろう。
彼にもちゃんと了解を取って、あるいはもともとの本名を教えてもらうべきか。
そう結論付けて、私は想定外の収穫を得ることになった休暇に溜息を吐きつつ、遠くに見えるユグドラシルの緑葉を見上げるのだった。