17 それでもかわいい末っ子です
リーヴがおそらくはブリュンヒルデ嬢とともにホッドミミルの森を去ってから、一か月が経過したころ。
災いは、いよいよ私達魔族のもとへとやってきた。
「――宣戦布告もなしに進軍してくるなんて、どれだけ舐められているのかしらね」
つまりはそういうことである。
残された数少ない魔族が隠れ住むホッドミミルの森に向けて、人間達が徒党を組んだアースガルズ軍が、刻一刻と迫りつつある。
彼らはかつての魔族が繁栄を築いたミズガルズを駐屯地として、今か今かとホッドミミルの森に攻め込まんとしていた。
「クロムレック。何度も聞くけれど、改めて、ウチの戦力は?」
「私めを代表として、戦地に赴ける者は若干名。いくら年老いても我々は魔族。徒党を組んだ人間など敵ではありませんが……いかんせんあちらは数が多いので、持久戦に持ち込まれると少々都合が悪いかと」
「でしょうね。エルフ族やドワーフ族からの援軍は期待できそうにないし……子供達だけでも亡命させられるよう、改めて二国に親書を送りましょう。あとは魔王である私が矢面に立てば、人間側も私を狙ってくるだろうから、そこをうまいこと利用できるといいのだけれど」
「我々としては魔王様を囮に使うのは反対なのですが」
「そうも言ってられないでしょう? 私も、あなたも、他のみんなも、誰もが自分にできることをしなくちゃ」
リーヴの不在をさびしく思う余裕もなく、戦争が始まろうとしている。
子供達も、リーヴがいなくなってからというもの、ずっとさびしがってばかりで、中には癇癪を起こす子もいたというのに、この局面になって、神妙な顔になって大人しく私達の言うことを聞いてくれている。
本当に健気なよいこ達だ。
この子達の未来を守るために、私達大人は、なんとしてでもこの戦争を乗り越えなくてはならない。
そう、それこそが私達の義務であり、誰に頼まれなくたってそうする気満々なのだけれども。
この直後、クロムレックが斥候として放った使い魔がもたらした情報に、私は大きく衝撃を受けることになる。
「……リーヴが、アースガルズ軍の総大将?」
「らしいですね。アースガルズ軍の中心はフェンリル騎士団です。その騎士団長、“勇者ロキ”として、つい先日リーヴが就任し、その勢いでこの森に攻め込もうとしているようです」
クロムレックが淡々と告げた内容に、自分でも驚くほどショックを受けてしまった。
リーヴがホッドミミルの森を後にしたのは、まさかそのためだったのか。
こう言っては何だけれど、私に、そのフラれたことで自棄になって、自分のことをなおも慕うブリュンヒルデ嬢とともに彼女と駆け落ちしたのではないか、なんて思っていたのだけれど、その考えがいかに甘いものであったのかを思い知らされる。
あの子が。
リーヴが。
大切な家族として九年もの間一緒に過ごしてきた存在が、私達を殲滅するために戦場に立つというその事実。
……どうしよう、どうしてなのだろう。
どうしようもないくらいに、こんなにもショックを受けている自分が、いっそ不思議だった。
「リーヴが……私を殺しに来るのね」
“勇者”は“魔王”を討伐するものだ。
それは古くから語られる当たり前の定説であり、だからこそ“勇者ロキ”は、“魔王リティラティカ”を斃しに来るのだろう。
まさか私が彼の告白を受け入れなかったから、だなんて安直な理由であるとは到底思えない。
私の知るリーヴは、そんなにも短絡的な思考の持ち主ではなくて、もっと賢く敏く理性的で、必要にかられて感情を押し殺してしまうことができる子で。
だから、なのか。だからあの子は、ホッドミミルの森を出て、アースガルズに赴き、再び“勇者”として立つことを選んだのか。
“魔王”という存在が、人間にとって許されざる存在であると、判断したのかもしれない。
「好きだ」と言ってくれたあの子の言葉を今もなおまざまざと思い出せる。
その想いを踏みにじったのは私で、そんなあの子が私を討伐しに来るのであれば、私はあの子の養い親としてではなく“魔王”として、あの子を向かい打たなくてはならない。
……それはあまりにも、ぞっとするような考えだった。
「きっと、私に愛想をつかしたのね」
冗談交じりにそう口にした私は、うまく笑えていただろうか。
ぐっと喉が詰まって言葉がそれ以上出てこなくなる私のスカートのすそを、いくつもの幼い手が引っ張ってくる。
え、とそちらを見下ろすと、子供部屋にかくまっていたはずの子供達がいつのまにかそこにいて、まっすぐに私のことを見上げていた。
「ちがうよ、ティカちゃま!」
「りーぶはね、りーぶは、ティカしゃまのことがだいすきなんだよ!」
「りーぶがすることはね、ぜーんぶティカしゃまのためなの! ぜったいそうなの!」
「そうだよ! だってりーぶは、ティカちゃまが一番なんだからな!」
「りーぶ、いってたんでしょ? ティカしゃまのことがすきって! りーぶはうそつきじゃないもん! だからりーぶはティカしゃまがだーいすきなの!」
「だからティカちゃまは、りーぶのことをしんじてあげなくちゃいけないんだよぉ」
「そぉだよ! りーぶのだいすきを、ティカちゃまはちゃーんとぎゅっとしてあげなくちゃ!」
「ティカしゃまがかなしいのは、りーぶのことがすきだからでしょ?」
「ぼくら、みーんな知ってたよ! てぃかしゃまも、りーぶのことが大好きなんだってこと」
「ティカちゃまはおにぶさんねぇ、だからりーぶは苦労してたのね!」
「だいじょぶよ、ティカちゃま。りーぶは、ぜったいに、ティカちゃまのことがだいすきよ!」
口々に、懸命に、『かわいい末っ子の弟』について声を張り上げる子供達に、不覚にも、ほんっとうに不覚にも、つい涙がにじんでしまった。
ああもう、こんなにも幼い子供達に指摘されて、やっと気付くなんて、自分の鈍さに情けなくなる。
後悔と恥ずかしさが一気に押し寄せてきて、思わずその場にうずくまってしまう。
そんな私を取り囲んで、子供達は口を揃える。
「りーぶのおむかえに行かなくちゃ!」
「ぼくもいく!」
「あたくしも!」
「おれも!」
「わたしもぉ!」
はいはいはいはい! と元気よく挙手する子供達の、戦争を目前に控えているとは到底思えない、愛らしく平和な様子に、今度こそ本当に涙がこぼれた。
ああ、そうね、そうだったわね。
リーヴは、ずっと、私のことを好きでいてくれた。
その想いが親愛ではなく、いわゆる恋愛感情と呼ばれるそれであることに、本当は、気付いていた。
私の存在ばかりで自らの世界を占めるリーヴのこと思うと、その想いを受け入れることはできなかった。あの子がもっと広い世界を知ったとき、きっと私への想いは勘違いだったと気付くだろうと思っていたから。
だから私はあの子の想いを拒絶したけれど、でも。まだ、間に合うだろうか。
私からあの子に手を伸ばすことは、ゆるされるだろうか。
そう顔を覆って情けなくぼたぼた泣き出した私の耳に、重々しい溜息が届く。
顔を上げてそちらを見遣ればクロムレックが、その手に一通の手紙をもって、なんとも難しい顔をしている。
「魔王様」
「……何かしら」
「魔王様が自覚もせず覚悟も決められないのならば、この手紙は捨ててしまおうと思っていましたが。どうやらその憂いは断たれたようなので、こちらをお渡しいたします」
「…………こんなときに、わざわざあなたから手紙なんて、一体どういうつもり?」
「私からではなく、リーヴからです」
「!」
「この森を去るときに、あの小僧が私室に残していた手紙です。もちろん、魔王様。あなたに宛ててですよ」
どうぞ、と渡されて、反射的に受け取る。
じわりと汗を掻き震える手がまどろっこしく感じられてならないながらも、なんとか封を切って中身の便箋を取り出す。
そうして、そこにつづられている文字を、私は一文字たりとも見逃さないように、極めて真剣に読み始める。
ティカへ、と。
そっけない言葉から、その手紙は始まっていた。




