16 魔王様、後悔する
口付けをされているのだとようやく気付いた時には、もう彼の唇は、私から離れていた。
やっとその腕から解放されてほっと一息つく間もなく、リーヴは畳みかけてくる。
「こういう意味で、俺は、ティカが好きなんだ」
「……それはつまり、恋愛対象として、ってことで合っていて?」
「…………ああ」
にわかには信じがたくて改めて問いかけると、リーヴはこくりと深く頷きを返してくる。
そしてそのまま期待と不安に揺れる瞳でじっと見つめてくる彼のその瞳に、本気と書いてマジと読む光を読み取って、私は天井を仰いで、思わず片手で両目をふさいだ。
うそでしょマジか。
とは口には出さなかったけれど、彼の人生の大部分を一緒に過ごしてきたリーヴにはしっかり伝わったらしい。
「ティカ」と名前を呼ばれて逃げ道をふさがれて、私はやっとの思いでリーヴへと再び視線を戻す。
その頭の先から足のつま先までを、しげしげと眺めてみた。
改めて思い返すに、この子は本当に大きくなった。初めて森で拾ったときの姿から考えられないほどに。
リーヴは今年十六歳。あっという間の九年間だった。
私にとってはまばたきのような時間であり、リーヴにとっては、人生の半分以上を占める時間だ。
「ごめんなさい、リーヴ。私はその想いを、受け入れることはできないわ」
そうして私がようやく口を開いて紡いだその台詞に、リーヴのかんばせが凍り付く。
明らかに傷付いていることが解るその表情に胸が痛んだけれど、構うことなく続ける。
それは、私が彼の養い親であるからこその義務だ。
「あなたが恋であると呼びながら私に向けるその感情は、『恋』ではないわ。ただの刷り込みよ」
そう、それはまるで、小鳥のひなが、初めて見たものを親鳥であると思い込むように。
「あなたに手を差し伸べたのが私だったから、あなたは私に恋をしたと思い込んでいるだけよ。あなたが恋する相手は、私でなくてもいいの。いいえ、私であってはいけないのよ」
「っそれでも、俺を救ってくれたのは、ティカだ! だから、だから俺は……っ!」
「『だから』、というならばなおさらだわ。恋はするものではなく落ちるものよ。あなたは確かに私に恋をしてくれているのかもしれない。けれど、いつか必ず、あなたは本当の恋に落ちることができるの。そのとき、きっとあなたは、私への想いが恋ではないことに気付くわ」
心も身体も改造され、利用され、消費され尽くして、最後には処分されそうになった子供に初めて手を差し伸べたのが私だっただなんて、本当にこの子はどこまで運がないのだろう。
養い親への愛を、恋であると勘違いするだなんて、賢く敏いこの子にしては随分と間が抜けた失敗談だ。
そう、そうやっていつか、笑い話になればいい。
笑い話として、この子がいつか誰かと結ばれて並び立つ姿を見られたら、それが私は一番嬉しいのだ。
だから、と私はリーヴを見上げて微笑みを深めてみせた。
「いつか誰かに恋に落ちるあなたが、今度こそ本当の恋を知ることを、心から祈っているわ。だからごめんなさい、リーヴ。私はあなたの想いに、応えることはできません」
私のかわいいリーヴに、祈りと願いを込めてカーテシーを贈る。
ひゅ、と、小さく喉が鳴る音がした。そして次の瞬間には、リーヴは踵を返して走り出していて、私はその後ろ姿を、追いかけることなんて到底できずに見送ることしかできなかった。
あの子のやわい心を傷付けてしまったことに、私もまた傷付いている。
けれどこれこそが最良の選択なのだと、私は信じて疑っていなかった――――――――――の、だけれども。
「…………リーヴとブリュンヒルデ嬢が消えた?」
次の日の朝、朝食の席にいつまで経っても現れない二人に首を傾げていたところに、クロムレックが持ち込んだのが、この報告だった。
まだカトラリーを使い慣れない子供達の食事のお手伝いをしながら首を傾げると、クロムレックが珍しく難しい顔をして頷きを返してくる。
「どうやら昨夜、私が作ったブリュンヒルデ嬢用の転移魔術陣を利用して、二人でこの森を後にしたようですね。一応それぞれの部屋を確認してまいりましたが、これがまあ見事にもぬけのから。それぞれめぼしい身の回りの品を持ち出しているようなので、どちらかが一方的に、というよりも、そろって自分の意志で勝手に出ていったと見ていいでしょう」
「あらぁ……」
それはそれは、なんというか……と言葉を濁すと、食事に一生懸命になっていたはずの子供達が、ばっと一斉に顔を上げて、それぞれのカトラリーを天高く掲げた。
「家出?」
「家出だ!」
「うちのかわいいすえっこが!」
「ゆーかいかも!!」
「かけおちかも!!」
「うちのりーぶがあんな性悪の小娘にだまされるわけねーだろ!」
「りーぶはだまされてかけおちなのよ!」
「りーぶがいっとうだいしゅきなのはティカしゃまだもん!!」
「あー! だからだ!!」
「だからりーぶ、いなくなっちゃったんだ!」
「ティカちゃまがりーぶのこといじめるからぁ!」
「ティカしゃまがいけないんだよ!!」
口々に私のことを責め立てる子供達にひえええええとたじたじとなったのはわずかな間のことで、すぐに私は「ちょっと待って!?」と悲鳴のように声を上げた。
「どうして私がリーヴのことをいじめ……ては、いないけど、その、あの子の……ええと、なんていうかその……」
「告白を断ったことを知っているか、ですか?」
「そう! それ! ……ってクロムレック! あなたまでどうして知っているのよ!?」
リーヴにまつわるアレソレの話は、文字通り昨日の今日の話で、まだ誰にも相談も何もしていなかったというのに、どうして子供達にもクロムレックにも筒抜けになっているのだろう。
まさかリーヴが『お兄ちゃん、お姉ちゃん』達に自分から相談するとも思えないし……と私が今度こそ悲鳴として叫ぶと、子供達とクロムレックはいったん顔を見合わせてから、うんうん、と何度も私の顔を見て頷いた。
「カマをかけただけなんですが、やはりですか」
「りーぶ、さいきん、あの小娘のせいでずーっとイライラしてたもんねぇ」
「おれたちはずーっと『もうこくはくしちゃえよ』っていってたのに、ずーっとりーぶはがまんしててさぁ。そろそろいっぱいいっぱいだったもんな」
「『ティカは俺のことそーゆーふーにみてない』っていっつもおちこんでたよぉ」
「ほんとにりーぶはティカちゃまのことがだいちゅきだから、ティカちゃまに嫌がられたらきっとにげちゃうだろぉなっておもってたの」
「ねー! ほんとにそーなっちゃったね!」
「だからティカちゃまがいけないのよぅ」
めっ!!!! と子供達に一斉に人差し指を突き付けられ、私はがっくりとテーブルに沈んだ。
な、なんてことだ。
クロムレックはともかく、子供達まで、リーヴの想いに気付いていたのか。私だけが理解していなかったのだという事実に、正直に凹む。
いやでも、だから何度でも言うけれど、リーヴのあの想いは恋ではなく刷り込み、養い親への若干重すぎる愛情でしかないはずであって……と内心でいいわけを言い連ねる。
それでもしくしくと痛む胸。
これは罪悪感なのか。それとも、とテーブルに突っ伏したままでいると、そんな私を子供達がつんつんとつついてきて、極めつけにクロムレックの馬鹿でかい溜息が鼓膜に突き刺さった。
「後悔するくらいなら、受け入れてやればよかったでしょう」
「簡単に言わないでちょうだい。そういうわけにはいかないってこと、あなただって解っているでしょうに」
「名前までくれてやったくせに、この上何を言っているんですか?」
「それはそうだけど、でもね、私だってリーヴのためを思って……」
「なるほど、それでいざとなったら覚悟が決められず放り出したと。ちゃんと世話をすると言ったのはどこのどなた様でしたかね」
「……やだ、あなた、そういうことばかり覚えているのね」
九年前、森で拾ってきたリーヴを前に、「捨ててこい」と問答無用で言い放った男の台詞とは思えない台詞である。
ああそうだとも、最後まで世話をする、最後まで見届ける、そのつもりで私はリーヴを拾ったのだ。
でも、そうやって繋いでいたはずの手を先にほどいたのは、リーヴのほうであるはずなのに、どうして私が責められなくてはならないのだろう。
子供達は相変わらず「ティカちゃまがわるい!」「りーぶかわいそう!」と口々に繰り返している。
……くそう、泣きたいのは私のほうなんだぞ!
「魔王様がリーヴを拾ってきたのはつい先日のことですから。いくら年老いた私でも覚えておりますとも。あの小僧がようやく覚悟を決めたのに、我が主君のほうがおじけづくとは、私は情けのうございます」
「…………クロムレック。あなたまでリーヴの味方をするの?」
「いいえ、まさか。私めは魔王様の忠実なるしもべにございますゆえ」
「それはどうもありがとう」
「光栄の至り」
お互いに口先だけではなんとでも言えるものである。おじけづくだなんて随分と失礼なことを言ってくれるものだ。あ
あほら、子供達が今度は「ティカしゃまのよわむしー!」とはやし立て始めた。
ぐっさぐっさと胸に突き刺さる無邪気な暴言に、私は再びテーブルに沈む。
「まさかここにきて、子育てに失敗するとは思わなかったわ」
――リーヴ、あなたはどこへ行ってしまったの?
そう問いかけることすら、きっと今の私には許されてはいないのだ。




