屋上
この世界に不必要な人間なんていない、みたいな言葉に救われる人がわりといるっぽいんだけど、どう考えても私の世界には不必要な人がたくさんいるし、世界の人口を思うと、そのほとんどの人のことを知りもしないから、そんな見ず知らずの人が私の世界に必要なはずがないし、てことは、裏を返せば私のことを必要としない人も腐るほどいるってことで、そうなってくると、この世界に必要不可欠な人間なんてどこにもいるはずがないってことなんだけど、そのへんを踏まえると、この世界に、なんてあり得ないことくらいわかるし、みんながみんなパズルのピースなわけもないことに気がつくし、っていうかそんなことはみんなとっくに理解して身の程を知った上で慎ましく生きてるのに、この世界に、とかって言い切っちゃうあたりほんと強引っていうか思い上がりが過ぎるっていうか、それなのに鵜呑みにしちゃって超速でそそのかされて勝手に打たれちゃうとかほんとすごいし、実のところそういう素直さがけっこう羨ましくもあるにはあるんだけど、いっそ徹底的に騙されろとも思うし複雑な感じ。
でもわたしはわりかし優しい方だから、そういう人のことを全力で騙したりすることはしないし、なんならちょっと心配もしてるからちゃんと伝えておきたいんだけど、世界のことをまとも知りもしない人が言うところの、どこのことだからわからないこの世界っていうのに必要とされることを願うんじゃなくて、自分のなかにある世界には誰となにが必要なのかを考えられるようにならないと、そうしないと性根に染みついた奴隷根性は拭えないから。それができないと死ぬまで素直なカモだし素直な奴隷のままなんだよ。だから自分にとってなにが必要なのかを第一に考えることはすごく大切だし、必要とされることに喜びを感じるのはいいかげん卒業して、愛する側の人間へ進化する必要があると確信してるんだけど、わたしはこう言うしかなかった。
「この世界にいらない人間なんて誰もいないんですよ」
ほんとに頭をフル回転させたけど、他の言葉が見当たらなかった。根拠のない言葉って、言われる人間よりも言う側の方が切迫してるんだとこのとき痛感した。苦し紛れだった。
なんていうか、恥ずかしすぎて顔が熱い。
でもそれはすぐに夜風で冷まされていった。ここはすごく風通しがいい。
「誰かに必要とされたいとか思わないけど」
「まぁそうなんですけど」
風の音が邪魔してそれ以上なにかを口にする気にもならない。
わたしたちはいま屋上にいる。眼下に見える街頭はまばらで、ぽっかりと黒い穴が空いてるように見えるところには森がある。昼間なら眺めもよくて誰でも入ることのできる商業施設の屋上なんだけど、この時間になると忍び込んで入って来るのは私みたいな徘徊癖のあるやつか、のっぴきならない事情を抱えた人くらいなもんだ。
その夜間立ち入り禁止の屋上の同じ場所にいるはずなのに、この人と私の間には絶望的な距離があった。この人はいま、手すりのついた壁を超えた位置から斜め懸垂するみたいに身を乗り出してる。パッと手を離せば真から真っ逆さまに黒い穴へ落ちちゃう感じ。つーか初めからそのつもりだったみたいで、でもその瞬間を、一度きりしかない輝きを誰かに見せたかったとか頭のおかしいことを言い出して、なんていうかそれは、今までわたしに向けられたどれよりも純度の高い好意だと思ったから、私は上手く否定することができないでいて、咄嗟にしょうもないことを言ってしまって、いまもなお現在進行形でどうしたものかと困っていた。
「ちゃんと見ててよね。これ何回もできないんだかんらほんとに」
そう言ってから片手だけを離して、私に触れようとした。そう思えた。私は反射的に目を閉じた。まばたきみたいな感じだった。そのほんの一秒くらいの間に目の前には誰もいなくなっていた。わざわざ確認したいわけじゃないけど冷たい手すりを握って真下を覗き込んだ。なにも見えない。いや、なにもってことはないんだけど、落ちても大丈夫なように防護ネットが敷いてあるのが見えた。でもそこには誰もいない。もしかしたらあれの網目でところてんみたいになっちゃったのかもしれない。ちょっとそれあんまり笑えないんだけど。
髪が乱れて邪魔だなと思いながら身を乗り出して捜索してるうちに、なんとなく風向きが変わったような気がして、空を見上げた。そこには落ちたはずのあの人がパンツを丸出しにして空に浮かんでいた。夜空が白熱球みたく光ってて目がチカチカするくらいに眩しいけど、翻ったスカートが花びらみたいにその光をうまく遮って、明るい夜空にパンツだけがやたらよく映えていた。スカートで来るなんて、この人は屋上初心者だなと思った。
「あの、大丈夫で――」
どう考えても大丈夫ではない光景を目の当たりにしてるのに、浮遊するパンツに向かって話しかけてるみたいで吹き出してしまいそうなって慌てて口を塞いだ。
「大丈夫なわけないでしょ!」
それはまぁそうなんだろうけど、他になんて言えばよかったの、なんて訊けるわけもないし、そうこうしてるうちにも光は増してきてパンツすらも飲み込もうとしてる。唯一あの人があの人である証明であり、ここに存在する証でもあるパンツを見失ってしまうわけにはいかない。けどあのパンツ、ほんとに眩しすぎるんだけど。
光が点滅しだした。白っぽいパンツと暗闇とがチカチカチカチカって交互に瞬間的に切り替わる。サブリミナル的なやつで脳裏にパンツが焼きつく。こういうのって直視しちゃいけなかったんじゃなかったっけ。そう思いながらも無視できなくてしばらく見ているとまぶたが痙攣しだして気持ち悪くなってきた。だから強く目を閉じた。目のなかにはまだギザギザした光の残像と透けたまぶたの血管とパンツがぼんやりと残ってる。それでもしばらくすると光が遠ざかっていくのがわかった。目の中が暗くなってきたからだ。
「いや、びっくりした」
さっきまで浮かんで人が隣にいた。私もびっくりした。
「なんだったんですか」
「あれだよ、お前が神になれ、みたいなやつ」
「なんですかそれ」
「勧誘みたいな、そんな感じ。わたしそういうの無理なんでって断りたかったんだけどさ、これすごくない、ほら」
「すごい」
パンツの人の手の平から水が溢れ出てた。細いけどけっこうな高さの水柱だ。どういう原理なのか、夜なのにちょっとしたレインボウまで発生してる。
「水芸ですか」
「違うでしょ、どう考えてもこれ神のみわざだから」
「え、そういうのって海とか割っちゃうやつじゃないんですか」
「いやいや、他にも色々できそうなんだけど、神様って唐突に本気は出さないでしょ」
「まぁそうかもです」
「でしょ。それで、どうする。わたしのこれで金儲けできないかなとかって思ってるみたいだけど、そういう薄汚いところも含めてあなたと色々やってみたいんだよね」
なんか、神通力でお見通し、みたいな感じなんだった。でもだいたいの人はわたしと同じことを考えてると思う。だってこの水芸すごいし。
「とりあえず駅前のマクドナルドでいいよね。ちょっと話そ」
「それわたしの徘徊コースなんですけど、把握してるの気持ち悪いですね」
「無礼である」
口を慎め、と言われた。
まぁこの人が神様だって言うならそれでもいい気がしてきた。私も案外ちょろいんだなって思えてけっこう嬉しい夜だった。
(了)