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革命のアルランドラ  作者: 姉川京
第1章「黄金の銃弾」
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第7話「魔の手」

 話を終えて重い足取りで部屋を出ようとするレオナルドに、コルッチは背後からねっとりとした視線を絡ませ、卑しい笑みを深く刻みつけながら甘い毒を含んだ一言を囁いた。


「閣下……美しい光の下にも、甘美な誘惑にも、抗えぬ闇はいつの時代も……誰の心の奥底にも必ず潜んでいるものですよ」


レオナルドは廊下の豪華な絨毯を踏みしめ、一度も振り返ることなく確信に満ちた声で答えた。その声は遠くの雷鳴のように静かに、だが確実に響いた。


「闇は光によってこそ消えるものだ。一時的に深く沈んだとしても、最後には必ず、陽の下に晒され消滅する」


◇◇◇


 一方ニコはレオナルドに言われた通り、護衛の憲兵と共にホテルのロビーで所在なく時間を過ごしていた。天井から幾重にも垂れ下がるシャンデリアの磨き上げられたクリスタルが放つ柔らかな光は、床の大理石を優しく照らし、置かれた本革のソファーはその美しい質感と深い色合いから、一目で高価な品だと分かった。ニコはその一角に小さく体を埋め、まるで嵐の後の小舟のように、心細げにレオナルドの帰りを待っていた。しかし、昨晩の暴力と今この優雅なホテルの上階で繰り広げられたであろう出来事を案じているのか、その小さな体は常に微かに震え、落ち着きなく視線を彷徨わせている。


国家憲兵隊(スクードエスパーダ)分隊長 ファブリツィオ・ダンテ』


 護衛の憲兵ファブリツィオは、そんなニコの神経質な態度に小さく舌打ちをした。肩まで伸びて後ろで縛った黒髪は、彼の野性的な魅力を際立たせているが、その奥に隠された赤いレンズのサングラスはどこか人を小馬鹿にしたような、醒めた印象を与える。今回の任務は一介の平民の護衛という、彼にとっては退屈極まりないものであり、その表情と声のトーンには隠しきれない不満の色が滲んでいた。煙草の紫煙をゆっくりと宙に吐き出しながら、彼は苛立ちを隠そうともせず、低い声でニコに言い放った。


「おい…小僧、そんなにウロウロするな。見苦しいったらありゃしねぇ」


ニコはその刺々しい言葉と漂う煙の匂いに、ますます身を縮こまらせた。相手がただのチンピラではないことを本能的に理解していた。申し訳なさそうに顔を歪め、掠れた声で謝罪した。


「あっ……すみません。今回は、その、相手が相手なので……」


心配そうに、今にも泣き出しそうな表情で狼狽えるニコに、ファブリツィオは深く重い溜息をついた。それは、諦めにも似た感情を含んでいた。


「……。お前さ、閣下が一体どれほど強いのか、本当に何も知らないのか?」


「具体的なことは、何も……」


「よく聞けよ。あの人はな、たった一人で一個師団に匹敵する強さを持つって噂されてんだ」


一般的に一個師団は約一万の兵士で構成される。つまり、ファブリツィオの言葉をそのまま受け取るならば、レオナルドの強さはあまりにも規格外なのだ。常識を大きく飛び越えるその話にニコは目を丸くした。


「い、一個師団!?そ、それは流石に、言い過ぎなんじゃ……」


「俺だって最初は、お前と全く同じ顔をしてたさ。顎が外れるかと思ったね。だがよ、あの人の戦いぶりを何度かこの目で見てるうちに、あながちただの誇張でもねぇって、思い知らされるんだ」


ファブリツィオはそう言いながら、吸い殻をホテルの真鍮製の灰皿に押し付け、立ち上る煙を見つめた。


「そんなに……」


「見りゃ分かるんだがな、あの人の強さは間違いなく人の領域を超えてる。……"怪物"だよ」


それを話すファブリツィオの顔には、熱い憧憬の光は宿っていなかった。彼の視線は所在なさげにニコを捉えることなく、ロビーの大きな窓の外、茜色に染まり始めた夕焼け空へと向けられていた。それはまるで決して手の届かない遥か遠い存在を、諦念にも似た感情で見つめているようだった。


「……っ!」


二人がそんなやり取りを交わしていると、聞き慣れた深く落ち着いた声が静かにロビーに響いた。声の方向を辿ると、廊下の奥から今まさに話題の中心となっていたレオナルドが、ゆっくりと歩いてくる姿があった。彼の軍服からは、微かに上質な葉巻の甘い香りと洗練された大人の香水の、ほのかな残り香が混じり合い周囲に漂っていた。


「待たせたな、二人とも」


レオナルドはその精悍な顔に、どこか拭いきれない疲労の色を滲ませながらも、二人を安心させるようにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。しかし、ニコはその笑顔の奥に言葉では言い表せない何かを感じ取ったのか、素直に安堵することができなかった。


「いえ、あの……一体、どんな話をされていたんですか?」


「ああ……君に二度と、あの者たちが手出しできないようにとしっかりと話をつけてきたよ。心配はいらない」


レオナルドはそう言って軽く笑いかけたが、ニコの心にはまるで底なし沼のように深く重い不安の波が静かに、しかし確実に押し寄せていた。


「彼の護衛感謝するよ、ファブリツィオ」


「仕事ですんで、お気になさらず」


レオナルドは労いの言葉をかけたが、ファブリツィオはどこか投げやりな短い返事を返した。


「さぁ、テスタ。家に帰ろう」


「はい……」


(この、喉元に何かが引っかかっているような、重い胸騒ぎは一体何なのだろう……)


ニコはまるで、得体の知れない冷たい化け物が、自分の身体にじっとりと纏わりついているような、そんな嫌な感覚に囚われていた。しかし、その気持ちを上手く言葉にすることができず、不安を抱えたまま、誰にも打ち明けられずにいた。


 そんな時だった。背後から少し息を切らしたような、聞き覚えのある声が響いた。


「おい、ちょっと待ってくれ!」


振り返るとそこに声の主はいた。少し前に自分をこのホテルまで、ぶっきらぼうながらも親切に車で送ってくれた、ジュリオ・ディ・アリスその人だった。彼は片手に、何か畳まれた布のようなものを無造作に引っ掛けていた。


「あなたは……ディアリスさん?」


彼を見ると腕に畳まれた、見慣れた自分のコートが掛けられている。


「覚えててくれて嬉しいよ。これ、忘れ物だ」


「あっ……僕のコート!わざわざ、ありがとうございます」


素直に頭を下げてお礼を言うニコに、ディアリスは一瞬だけ口元を緩め、まるで陽だまりのような、優しい笑みを浮かべた。しかし、その笑顔はまるで貼り付けられた仮面のようにすぐに消え去り、どこか陰のある真剣な表情へと変わった。


「それと……帰りは本当に気をつけた方がいい」


「え?」


「ディーノが君のコートを預かったと思うんだけど、あれに妙な蟲を仕込んでたんだ。君の居場所を知らせるための……ね」


「えええっ!?」


ニコは、信じられないといった表情で、目を大きく見開いた。


「ああ、大丈夫。俺がもう取り除いたから」


ディアリスはそう言うと、 ニコの目をじっと見つめ、念を押すように低い声で言った。


「とにかく、本当に気をつけてな」


「あの……ディアリスさんは、コルッチ一家の人間じゃないんですか?じゃなきゃ、こんなこと……」


ディアリスは一瞬言葉に詰まり、遠い目をしながらまるで独り言のように呟いた。


「……少なくとも、今は、こっち側だよ」


そしてどこか寂しげな、諦めにも似た笑みを浮かべて、軽く手を上げた。


「じゃあ、またな」


レオナルドは、ディアリスの去っていく背中を無言で見つめていた。その顔には、理由や目的を窺い知ることは出来ないが、確かに内に秘めた強さを感じ取っているような、そんな深い眼差しがあった。


「アイツ……強いな」


ファブリツィオは腕を組み、サングラスの奥で鋭く目を細めた。


「ですね。間違いありません」


「今回は私が運転しよう。ファブリツィオは引き続き、テスタを頼む」


「了解」


ニコは、ディアリスの言葉が頭の中で何度も反芻され、まるで冷たい霧に包まれたようにますます不安な気持ちに駆られていた。


「何だか、とても嫌な胸騒ぎがします……」


レオナルドは、茜色から深い藍色へと変わり始めた空を見上げ、小さく重々しく頷いた。


「そうだな。急ごう」


◇◇◇


~ホテル『ドン・フェラーリ』最上階、コルッチの部屋~


「ラウロは、そろそろ到着する頃合いか?」


アレッサンドロ・コルッチは、琥珀色のウイスキーをゆっくりと喉に流し込み、高級そうなグラスを傾けながら眼下の砂金をこぼしたような夜景を見下ろして言った。それに対し、傍らに控えるディーノは静かに答えた。


「……ああ、アイツなら車よりも早く任務を終わらせるだろうよ」


コルッチは喉の奥から絞り出すような、暗く低い声で呟いた。その声には、静かな怒りが宿っていた。


「閣下……我々は一度でも舐められれば、全てが終わるのだよ」


◇◇◇◇◇◇


ーー ピサナ州ジェネトーヴァ 午後九時五十八分 ーー


 レオナルドの運転する黒塗りの自動車は、夜の帳が下りたジェネトーヴァの街を静かに滑るように、しかしいつもよりスピードを上げて走っていた。助手席のファブリツィオは、まるで獲物を探す猛獣のように、警戒しながら周囲の暗闇を睨みつけ、後部座席のニコは、街灯の光が点滅する窓の外を、不安げな表情で見つめていた。


「!?」


 見慣れたはずのニコの家が、近づくにつれて異様な光を放っていることに、ファブリツィオが最初に気づいた。それは、不吉な赤黒い炎だった。夜空を焦がす炎は激しく燃え盛り、乾いた木材が爆ぜるパチパチという嫌な音だけが、静寂を切り裂いていた。家はレンガ造りであったため全焼することはないが、内部はそうはいかない。


「そ……そんな……」


家の近くの塔の上からは先程ホテルで見かけたあのマフィアの幹部、ラウロ・ポラーノが腕を組みながらまるで獲物を前にした捕食者のように、その光景を冷たい目で見下ろしていた。ラウロの口元には、獲物の苦痛を愉悦するような、歪んだ残酷な笑みが浮かんでいる。


「閣下……これは……」


ファブリツィオは信じられないといった表情で、燃え盛る家を指さした。レオナルドは怒りで固く拳を握り締め、喉の奥から絞り出すような低い声で答えた。


「間違いない……アイツらだ」


ニコは目の前の信じがたい光景に足が竦み、その場に立ち尽くした。掠れた声が震える唇から漏れ出す。


「僕の……店が……僕の店が……!」


まるで魂が抜け落ちたかのように放心状態のまま、ニコは燃え盛る家に向かって無意識に一歩、また一歩と歩を進めた。


「テ、テスタ!!……ッ!馬鹿野郎!何やってんだ、死ぬ気か!?」


我に返ったファブリツィオは慌てて車から飛び降り、燃え盛る炎に向かって駆け出そうとしたニコの腕を掴み、必死の形相で叫んだ。


「だって……だって、何とかしないと……!」


涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、ニコはファブリツィオの腕を振りほどこうと必死にもがいた。レオナルドはそんなニコの様子を静かに見つめ、ゆっくりと首を横に振った。


「もう……手遅れだ」


ニコの喉の奥から堪えきれない、悲痛な叫びが漏れ出した。


「くぅ……う……うわああああああああ!!!!」


ファブリツィオは全身で震えるニコを強く抱きしめ、必死に抑えつけた。


「閣下、一体どこへ行くんです!?」


ファブリツィオは燃え盛る家から決して目を離さないレオナルドに、焦りの色を滲ませた声で問いかけた。レオナルドは炎の赤に染まりかけた夜空を睨みつけ、氷のように冷たい声で答えた。


「決まっているだろう……アイツらのいるところだ」


「ホテルですか!?」


レオナルドは首を横に振った。その目には静かに、しかし激しい憎悪の炎が宿っていた。


「いや……あんな場所には、もういないはずだ。行くのは、連中の本拠地だ」


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