第5話「ドン・コルッチ(前編)」
温かい人々の言葉が、凍てつく寒空の下でもニコの身体をじんわりと温めた。別れを告げ、家路につく彼の心には、彼らの優しさが深く染み渡っていた。
(僕は、本当に幸せ者だなぁ……)
帰り道を歩きながら、先程までの光景を瞼の裏に蘇らせる。込み上げてくる感謝の念は、言葉にできず、ただ口元を緩ませるばかりだった。ふと、彼の視界に黒塗りの自動車が滑り込んできた。鈍い光を反射する車体に付いた紋章は、先日見かけた憲兵の車と同じものだった。ヴォルターニ社製のメリヴォラ。憲兵の所有していたブファロのような威圧感はないが、引き締まったボディは俊敏さを感じさせた。運転席から降りてきたのは、短く切り揃えられた金髪に、灰色のストライプスーツを身につけた男。サングラスの奥の表情は見えないが、その男から先日ニコを殴りつけた男たちと同じ、鼻につくような危険な匂いが漂ってきた。
(マ…マフィア……!?)
男がマフィアだと断定できる証拠はない。しかし全身の細胞が悲鳴を上げ、危険を告げていた。
ーー逃げろ。
だが、足は鉛のように重く一歩も動かせない。昨晩の暴力的な光景がフラッシュバックし、ニコの脳裏に焼き付いて離れないのだ。男はゆっくりと、しかし確実にニコとの距離を詰めてくる。
ーー頼む、動いてくれ。
ようやく痺れたように動き出した足は、後退しようとした瞬間、もつれてニコの身体を地面に打ち付けた。尻もちをついた彼の目の前には、もう男が立っている。低い声が降ってきた。
「君がニコ・テスタ…かな?」
「は…はい……!」
男はサングラスを額に押し上げ、涼しげな目元を露わにした。
「俺はディアリス。コルッチ一家の構成員でね。我々の首領が、君と話をしたいそうだ」
『ローザ・ソッテラネア コルッチ一家 ジュリオ・ディ・アリス』
心臓が凍り付いた。氷のような冷気が、ゆっくりと、しかし確実に全身を這い上がってくる。やはり、この青年はマフィアだった。下っ端の男たちにさえあれほどの恐怖を覚えたというのに、今度はその組織の頭が、自分に会いたいというのだ。驚愕と恐怖が、ニコの思考を掻き乱した。
(今度は首領……!もう、これ以上関わりたくないのに……どうして、こんな……!)
地面にへたり込んだまま動けないニコに、ディアリスは屈み込み、柔らかな笑みを浮かべた。
「そんなに怖がることはないよ。ドン・コルッチは温厚な男だから」
「え……温厚……?」
「ま……刃向かう者には、容赦しないけどね」
途端に、その表情は鋭く冷たいものへと変わった。しかし、この青年からは確かに裏社会の匂いがするものの、昨晩の二人組のような粗野な印象はなく、どこか洗練された雰囲気さえ感じさせる。やはり、準構成員とは違い、正式な構成員というのは組織の中でも選ばれた存在なのだろう。それなりの実績と素質を持つ者がなるのかもしれない。
「とにかく、来てくれないか?大丈夫、いざという時は助けがある」
「……?」
「大丈夫、ほら、乗って」
ディアリスは後部座席のドアを開け、促すように軽く顎で示した。ニコは警戒しながらも、震える足をなんとか動かし、車のシートに身を沈めた。乗り込む直前、右手の指輪が目に留まった。
(御守りがあるから……きっと、大丈夫)
そんなニコの様子を、ディアリスは何かを察したように見つめていた。ニコがシートに深く身体を預けたのを確認すると、ディアリスはゆっくりと車を発進させた。ハンドルに両手を置き、前方に意識を集中させながら、彼は話しかけた。
「いい御守りだね。不思議な力が込められている。誰に貰ったんだ?」
「憲兵の方です」
「……そりゃ、頼もしいね」
ディアリスは小さく嘲笑した。彼はおそらく、この指輪の秘密を知っている。この男はただ者ではない。ニコの警戒心は一層強まった。
(余計なことは、絶対に話さないようにしないと……!)
「ていうかその恰好、もしかして今日、誰かの葬儀だったの?」
「父のです」
「……そりゃ、失礼」
ディアリスは、ほんの少しだけ気まずそうな表情を浮かべた。そして、何かを思いついたように言った。
「と、これから首領に会う君に、一つアドバイスだ」
「?」
先程まで軽い笑みを浮かべていた彼の顔から、温度が失われた。
「絶対に、あの男に敵対心を見せるな」
◇◇◇◇◇
ーー ピサナ州リヴァニ ホテル『ドン・フェラーリ』 午後七時一五分 ーー
ここは、ピサナ州の州都であり、リヴァニ県の県都。国内屈指の自動車産業都市として知られ、ロナンディア第四の規模を誇る大都市、リヴァニ。ニコたちが連れてこられたのは、その賑やかな市街中心地区モルヴィオーレにそびえ立つ高級ホテル、『ドン・フェラーリ』だった。けばけばしい装飾こそないものの、磨き上げられた外壁や控えめな照明が、名のある建築家の手による洗練された佇まいを物語っていた。普段ならば、足を踏み入れることさえ躊躇うようなこの場所は、ニコにとって一生の記憶に残るだろう宮殿のように映ったはずだ。しかし、今はただ"犯罪組織の首領が自分を待っている"という事実が重くのしかかり、その壮麗な建物はまるで魔王の棲む城のように、不気味な威圧感を放っていた。
ホテルの正面玄関前で、メリヴォラは静かに停車した。
「さて、着いたよ」
ディアリスは運転席から降り、後部座席のドアを開けた。促されるままニコが重い足取りで車を降りると、ホテルの入り口からディアリスとは対照的な、野性的で荒々しい雰囲気を纏った長身の男が現れた。その男は、親しげな様子でディアリスに近づき、肩に手を回して大きな声で話しかけた。
「よぉ、ジュリオ!連れてきたか!親父の言う通り、ちゃんと丁寧にお連れしたのか!?」
周囲にはまだ多くの人々が行き交い、喧騒に包まれているというのに、男は遠慮のない大声でまくし立てる。
「俺が荒い手ェ使うと思います?」
「あぁ分かった分かった!もう先に部屋戻ってろ!あいつらも待ってんだよ、この坊ちゃんは俺が連れてくからよ」
そう言うと、男はディアリスにホテルの部屋の鍵らしきものを放り投げた。それを受け取ると、彼は足早にホテルの中へと消えていった。
「さてと坊ちゃん、首領がお待ちかねだ。さぁ、入った入った!」
彼に両手で背中を押され、ニコは一歩、ホテルの中に足を踏み入れた。そこは想像を遥かに超える豪華絢爛な空間だった。磨き込まれた大理石の床、きらびやかなシャンデリア、精緻な装飾が施された壁。まるで宮殿の一室に迷い込んだようだ。ここに呼ばれた理由を一瞬忘れ、初めて目にする光景に、思わず感嘆の息が漏れた。
「うわあぁ……」
「なんだ、こういうホテルは初めてか?」
「はい。家はそれほど裕福ではありませんし、両親も忙しかったので……」
「そうか。なら、親父との話が終わったら俺達の部屋に来いよ。ビリヤードやってんだ」
大柄な体格から威圧感はあるものの、こうして話してみると意外にも気さくな男だった。親しみやすささえ感じ、ニコはほんの少しだけ警戒心を解いた。
「え……遠慮しておきます」
二人は、フロントの突き当たりにあるエレベーターへと向かった。当たり前のように設置されたエレベーターの存在にも、ニコは内心で驚いていた。そして首領との、運命を決めるかもしれない話し合いの時間は、刻一刻と近づいている。
「それにしても……一体、何故僕が呼ばれたんですか?」
「会えば分かるよ、ほら」
ーーチーン……
エレベーターは最上階で静かに停止した。扉がゆっくりと開き、隣の男は左奥の部屋へと歩き出した。一歩、また一歩と、距離が縮まるにつれて、ニコの心臓は激しく脈打ち始めた。
ーーードクン……ドクンドクン……
ーーードクンドクンドクンドクン……!!
隣の男は、とある部屋の前で足を止めた。おそらく、この部屋が首領の待つ場所なのだろう。男はゆっくりと扉に顔を近づけ、控えめに三回ノックした。
「父さん、俺だ。例の坊ちゃんを連れてきた」
すると、重厚な中年男性の低い声が返ってきた。
「入れ」
まだ心の準備が整わないまま、男は躊躇なく扉を開いた。部屋は簡素な宿泊部屋ではなく、豪華な会食室だった。壁には見事な装飾が施された額縁に入った絵画が飾られ、天井には一階のロビーと同じ、眩い光を放つシャンデリアが吊り下げられている。部屋の中央には長いテーブルが置かれ、その奥に彼らの首領が座っていた。年齢は五十歳前後だろうか。上質なベージュのスーツを身につけ、堂々とした体躯をしている。指には照明の光を受けて鈍く光る、いくつかの高価そうな指輪が嵌められていた。
「わざわざ呼び出して、すまなかったね。さあ、かけてくれ」
物腰は穏やかで、その話し方には人を安心させるような落ち着きがあった。ニコは言われるがまま、おずおずと椅子に腰掛けた。
「ほれ、ディーノ。彼のコートを預かっておけ」
ここで初めて、隣にいた男の名前を知った。そして、この男が首領を"父さん"と呼んだことから、二人が親子であることはほぼ間違いないだろうと悟った。しかし、彼もまた組織の中で何らかの役職を持っているのだろうか?と、一瞬疑問が頭をよぎった。
ディーノと呼ばれた男は、手慣れた様子でニコの背後からコートを受け取った。その後、ディーノが一度部屋を出て行ったのを見計らい、首領は穏やかな口調で自己紹介を始めた。
「私が、このコルッチ一家の首領……アレッサンドロ・コルッチだ。よろしく頼む」
『ローザ・ソッテラネア最高幹部 コルッチ一家首領 アレッサンドロ・コルッチ』
「あ……えと……ニコ・テスタです」
緊張のあまり、言葉が少しどもってしまう。
「良い名だ。ほれ、お前も名乗れ」
コルッチがそう促すと、彼の背後から、ヌッと影のように若い男が現れた。鋭いナイフのような眼光でニコを睨みつけ、まるで獲物を定めるように、低い声で名を告げた。
「……ラウロ・ポラーノ」
『ローザ・ソッテラネア コルッチ一家幹部 ラウロ・ポラーノ』
それだけ言うと、ポラーノはコルッチの左側に無言で立ち、腕を組んで沈黙した。
「いや悪いね、コイツは腕が立って信頼できるんだが、見ての通り無口でな」
「い、いえ……」
「まずは腹が減っただろう、食事にしよう。ラウロ、お前も座れ」
ポラーノは無言で頷き、音もなく席に着いた。
「さて、テスタ君、お腹は空いていないかね?」
唐突な質問だった。ニコは特に深く考えることもなく、正直に答えた。
「……空いてます」
「それは良かった。このホテルの料理は最高でね」
会話の最中、丁度部屋の扉から控えめなノック音が聞こえてきた。おそらく、事前に料理を頼んでいたのだろう。
「料理をお持ちしました」
「入ってくれ」
入室許可を得た給仕の男は、手際よく部屋に入ってきた。その左手と肘の内側には、計三つの皿が安定して乗せられている。そのプロフェッショナルな運び方に、ニコは思わず見入ってしまった。
「お待たせいたしました。前菜の、イグレシア黒牛ヒレ肉のカルパッチョでございます」
美しく芸術的に盛り付けられた薄切りの生牛肉が、ニコの目の前に置かれた。繊細なチーズの雪がふわりと舞い、鮮やかな緑のハーブが添えられ、食欲をそそる香りの良いソースが、上品にかけられている。全員に料理が運ばれたところで、待ってましたと言わんばかりに、首領が穏やかな声で言った。
「さあ、頂こう」