第2話「翠眼の持ち主」
ーーベンノツィオ私立病院 一二月十一日 午前五時二〇分ーー
暗い東天がロゼワインに染まり始める頃、いくつかの心地よい楽器の音で、ニコは目を覚ました。演奏家や上流階級の嗜みである、朝稽古のヴァイオリンによる美しい音色と、小鳥の群れの囀りである。この二つは、ベンノツィオの朝の定番であった。しかし、これが初めての経験である彼にとっては慣れたものではなく、思わず二度寝してしまいそうなほどの心地よさで、目覚めの妨げになりえるものだった。
(何て心地いいんだろう……だけど、起きなきゃ)
しかし、ニコの頭には今日は朝早く出発するという予定がしっかりと入っていたため、未だ若干痛む身体を起こし、ベッドから出て朝日を浴びようとカーテンを開けた。
「……っ!……やっぱりまだ痛い」
腕を伸ばして気持ちよさそうに背伸びをしようとした。しかし、腕を真っ直ぐ伸ばした瞬間、全身に少し痛みを感じた。ニコは昔から怪我の治りが異常に早く、痛みもすぐ引く体質だったが、流石に昨晩の暴行により負った怪我は、すぐに治るようなものではなかったようだ。それでも昨晩よりは大分痛みは引いており、歩けるぐらいには回復しているようだ。
ふと、窓を開けて顔を出すと、丁度病院の前に一台の車が停まった。それも、馬車ではなく箱型のガソリン式自動車だった。
「す、凄い……ガソリン車だ!」
世界で最も科学技術が発展しているロナンディア王国では、ガソリン式自動車は高価なものであり、庶民の財産では決して手が届かないものであった。そんな憧れの車が目の前にある興奮で、思わず窓から飛び出しそうになるニコだったが、グッと堪えた。
上から車をまじまじと見ていると、車の中から運転手の男性と、昨晩ニコを助けた見目麗しい憲兵レオナルド・アルランドラが降りてきた。どうやら迎えの車だったようだ。これからこの車に乗ると思うと、興奮を抑えられない。急いで支度をしようと顔を洗いに、下の階の洗面所へと向かう。病室を出て階段を降りたところで、レオナルドと鉢合わせた。
「あ、憲兵さん。おはようございます」
レオナルドはニコを見てギョッと目を丸くした。それもそのはず。目の前にいる青年は昨晩、激しい暴行を受け、全身に大怪我を負ったのだ。普通ならば歩くこともままならないはずが、何事もなかったかのように普通に歩いている。レオナルドは驚きながらも挨拶を交わす。
「お…はよう、早いな。というか、大丈夫なのか?」
「はい、まだちょっと痛みますけど大丈夫です!昔から怪我の治りが早くて……」
早いとかいうレベルではない。これは尋常ではないと、レオナルドは二度驚くと同時に、彼に強い関心を持った。
ニコが顔を洗い、歯を磨き終えて病室に戻ると、レオナルドがいた。すぐに葬儀に出られるようここで喪服に着替える事にした。少し血で汚れた紙袋に手を伸ばし、中に入っている喪服を手に取ると、
「そんな身体で無理をするな。手伝うよ」
と、レオナルドは気遣ってくれた。
「いえ、大丈夫です。それに、流石に恥ずかしいので……」
「そうか……なら、先に外で待ってるよ」
レオナルドが退室した後、喪服に袖を通すと、肩や背中に軽い痛みが走った。先程はレオナルドの提案を断ってしまったが、着替えるときは流石に痛むようで、少し時間がかかってしまった。
急いで受付に行くと、代わりにレオナルドが退院手続きを既に済ませていたようで、ニコが外に出ると彼は運転手の男と煙草を吸って待っていた。レオナルドはこちらに気付くと、内ポケットから取り出した携帯灰皿に吸い殻を入れた。
ニコは少し遅れてしまったことを二人に謝罪した。
「す、すみません、お待たせしました!」
レオナルドは全く怒ることなく、笑顔で返した。
「いや、問題ない。でも、やっぱりまだ着替えは厳しいか?」
「ははは……でも二、三日後くらいには完治してると思うので」
「そ、そうか……」
ニコはさも当然かのように話すが、にわかには信じがたい。しかし、その異常な回復力を先程目にしたばかりのため、その可能性ももうゼロではない。
だが今はそんなことより、ジェネトーヴァへ急がなければならない。
「ひとまず出発しよう、いろいろ話もあるからな」
レオナルドは親指で車を指差し、ニコに乗車を促した。それを聞いた彼は嬉々として返事を返した。その声で、彼が余程楽しみにしていたことが分かった。
「はい、分かりました!」
以前からの憧れであったガソリン式自動車が今目の前にある。そしてまさに今、その空間に足を踏み入れようとしているのだ。
それはそうと、憲兵の隣にいる初老の男性は誰なのだろうか。彼の専属運転手なのか、それとも同じ憲兵なのか。気になって男性に視線を向けると、それに気づいたレオナルドが彼を紹介した。
「おっとすまない、紹介が遅れたな。彼は運転手のセルモンティ。私と同じ憲兵だ」
どうやら憲兵だったようだ。言われてみればレオナルド同様、良く鍛え抜かれた体格をしている。セルモンティと名乗る男性は、制帽を取って胸に当てながら軽く会釈をした。髪や髭もよく整えていて、その立ち振る舞いからは、レオナルドと同様に自然と気品を感じる。
「チェルソ・セルモンティと申します。よろしくお願いします」
「すみません、こちらも自己紹介が遅れました。ニコ・テスタです。道中よろしくお願いします」
二人は握手を交わし、お互いに自己紹介をした。その後ニコは車に乗り込み、これまで乗ってきた馬車との座り心地の違いを堪能しようとした。しかし、座席の素材は馬車と同じ革製であり、座り心地にそれほど違いはないようだった。憧れの乗り物に乗れた感動はあるものの、期待していたほどではなかったという思いが一瞬、脳裏を過るのであった。
「よし、出してくれ」
セルモンティは車にエンジンをかけ、ゆっくりとアクセルをふかし、病院を後にした。
その直後だった。ニコはこれまで感じたことのない心地よさに包まれた。それは、止まっているときは感じなかったものだった。これにより、これまで自分が乗ってきた馬車の乗り心地の悪さを、これでもかというほど痛感した。
「これがガソリン車なんですね……こんなに乗り心地が違うなんて」
「そうだな、確かに馬車は乗っているだけでも疲れるものもある」
「そうなんです…衝撃とか直に伝わっておしりも痛くなりますし」
馬車の場合、舗装されていない道を通れば車輪の衝撃が乗員に苦痛を与える。それに比べて自動車は、板バネがあるおかげか路面による衝撃を吸収してくれるため、乗員が苦痛を感じることはほとんどない。
「だが、自動車だって完璧じゃないさ。少なくとも今はね」
「きっと、これからもっと進化していくんですよね」
「勿論だ」
自動車の話で二人が盛り上がっていると、セルモンティが軽く咳き込んだ。
「ンンッ…ところで閣下、お話があったのでは?」
これまで自然な笑顔を浮かべていたその顔に、一変して真剣な表情が見えた。
「……ああ、すまない」
そんな彼の隣に座る青年は、目を皿のようにして驚いていた。
「え?……閣下!?」
「おや?閣下……お伝えしていなかったのですか?」
「……すまない」
レオナルドはバツが悪そうに目を逸らしながらそう言った。しかしすぐにニコの方へ向き直り、握手を交わそうと手を差し出しながら名乗った。
「……改めて名乗らせてもらう。国家憲兵隊司令官のレオナルド・アルランドラだ」
なんと、この男はロナンディア軍の最高幹部だった。ニコは車内であることを忘れ、驚きを隠せず大声を出した。
「ええええええええええええ!!」