第1話「暗黒街のネズミたち」
ロナンディア王国は現在、世界の覇権を握る超大国である。革命後、ブリガレスと並んで世界で最も栄える国となった。戦争では連戦連勝を誇り、まさに現世界最強の軍事大国である。
パーロマ・クラリオは王国の首都であり、カルターノ州の中心地、パーロマ県の県都である。通称、“パーロマ”。パーロマ県の街は古代より超大国の首都として栄え、その類稀なる美しい街並みから“永遠の都”と呼ばれ、エーリッシア随一の世界都市として知られている。しかしその反面、同県の最西端の都市グロチーノ・ジョエトラを中心に、マフィアなどの多くの犯罪組織が存在し、政治や経済、軍事の中心地でありながら、国民からは“暗黒街”と呼ばれ、近寄りがたい世界として恐れられていた。
◇◇◇◇◇
ーーアルポリオ暦 一八七五年 一二月十日 午後十一時〇〇分 ロナンディア王国カルターノ州パーロマ・クラリオ 北西の地区ベンノツィオーー
冬の夜の通りを、ひ弱な青年が歩いていた。青年の他にも、通行人を数人見かける。ベンノツィオはパーロマ市内の中で最も治安の悪い地区のため、この時間に外出する女子供はいない。もし仮に一人で出歩こうとするものなら、浮浪者や盗賊に金品を奪われ、女性ならば身体を穢されてしまうことも容易に想像出来るだろう。この青年の顔立ちは非常に中性的であり、見る者によっては誤解を招いてしまっていた。青年の左手には紙袋があり、中には服が入っていた。右手で持つ傘に積もる雪は、この都市では珍しい降雪を分かりやすく表していた。更に、青年の眼鏡のレンズには結露ができており、目の下は赤くなっていた。
【ニコ・テスタ 15歳】
「……へくしっ!」
あまりの寒さで小さくくしゃみをした。
「すっかり遅くなったなぁ、うぅ…寒……。やっぱり馬車で送ってもらえば良かったかなぁ」
ニコはたった今歩いてきた方角を振り返り、人の厚意に甘えなかったことを少し後悔していた。彼がこれから泊まる予定のホテルは、ここからまだ距離があった。彼が後悔の念を抱いているその時、冬の悪天候は激しさを増し、コートやパンツを一気に白く染めてしまうのであった。
「嘘っ…吹雪いてきた!?」
度重なる後悔の念を胸に、ホテルの方角へ足を進めるのだった。しかし、彼の背後にある建物の陰には、ニコの背中に向ける鋭い二つ視線があった。その目は陽の下を歩く者のそれではない。間違いなく、裏社会の者であった。
ニコの背後から突如鉄パイプで殴りかかった。彼は衝撃で脳震盪を起こし、視界に映る全てのものが二重に見えた。気絶する直前に見えたのは、暗い空と容赦なく吹きつける雪、そして悪魔の形相をした男たちの顔であった。
「くたばれ!!このゴキブリ野郎!!」
「ガッ!!」
夜の街に怒声が響き渡り、青年が路地裏で黒服の男達に痛たましく暴行されている姿が目撃された。ニコは殴られ、蹴られ、濃厚な血を味わった。更にこの悪天候の中コートを脱がされ、骨の髄まで凍りついていた。眼鏡を割られた上にこれほどまでに暴行され、体温は下がりいよいよ視界が霞んできた。
「俺達の仲間に手ェ出しやがって!!思い知れ!オラァ!!」
(仲間?……何のことだろう。僕は何もやっていない…人違いだ……!!)
「う…うう……」
ニコは必死に弁解しようと男のズボンの裾を掴んでいた。しかし、寒さで全身が凍りつき、満身創痍で立つ事はおろか、声を出すことすら出来なかった。それどころか更に男の拳が腹に深くめり込み、内臓の悲鳴を聞き、吐血する。
「ぐふっ……」
その後、頭上から蹴りが入り、ニコは地面と汚いキスを交わす。街灯の光が顔に当たっているにも拘わらず、その美しいエメラルドの瞳は光を失いかけていた。暴行を受けている中、通行人の顔や黒いシルエットが時々目に映ったが、皆彼から目を背け、足を速めて素通りしていくためだ。何度も神頼みをするが、心の中では今この場で差し伸べられる手はないことは既に分かっていた。
「おいコレッティ……そろそろ楽にしてやれ。憲兵が来たら厄介だぞ」
もう一人の男が彼に銃を渡した。しかし、怒りで興奮して冷静さを保てない彼はそれを否定し、更に殴ろうと拳を構える。
「黙れスポジーニ!こいつは半殺しにしねぇと気が済まねぇ!」
すると、男は銃を彼の頭に突きつけ、どす黒い声で脅しをかけた。
「おい……俺に一人で二人分の死体を片付けさせる気か?」
彼の目に映った男の目には強い殺気が籠っており、既に引き金に手をかけていた。これは脅しじゃないと彼は全身でそれを感じた。
「……っ!!くそっ!!」
彼はまだ痛めつけ足りない気持ちをかみしめ、男の手から銃を取り、ニコの額に突きつけた。
「…ぁ…ぁぁぁぁ……」
助けを呼ぶにも声が出ない。もう、間に合わない。絶望がニコの脳裏によぎる。
その時だった。彼ら二人とは別に、男の低い声が聞こえた。視界が霞んでいてよく見えないが、彼らの奥に細身の男が見えた。身長は一八〇センチ程度だろう。見覚えのある軍服の上から羽織っている漆黒のマントには、小洒落た赤い裏地の花模様が見える。男は彼らに銃を向け、鋭い眼光で睨みつける。
「おい、そこのゴロツキども。……動くな、手をあげろ」
「……誰だ?お前。憲兵か?」
「スクードエスパーダだ、おとなしくしろ」
男はそう言って胸の紋章を示した。美しく輝く金の紋章。そこに描かれているのは、その名の示す通り、交差する剣と、その後ろに重なる盾。正式名称は“王立ロナンディア国家憲兵隊”と言い、警察と軍の両方の機能を持つ、ロナンディア軍を構成する軍事組織の一つである。通称、“スクードエスパーダ”と呼ばれている。
「「!!」」
(スクードエスパーダ……?ああ……助かった……)
そう思うと同時に、ニコの意識は薄れていき、その場に倒れこんだ。
マフィアの男二人は、憲兵が来たと分かり突然焦りだした。その焦り様を見るに、準構成員だろう。平の構成員クラス以上ならば、もう少し肝が据わっているものだ。
「お前はまさか…...!!」
「何故こんなところにいやがる!!」
「お前達は“ローザ・ソッテラネア”だな?」
「「!!」」
“ローザ・ソッテラネア”とは、暗黒街グロチーノ・ジョエトラを拠点とする秘密結社的犯罪組織であり、四大ファミリーによって構成されている。殺人、売春、闇金融、違法賭博などを主なビジネスとして活動している。
“カーネ”は主に“ローザ・ソッテラネア”で使われる、憲兵を指す隠語である。
「くそっ……バレてやがる」
『ローザ・ソッテラネア コルッチ一家準構成員 スポジーニ』
「どうすんだ……?」
『ローザ・ソッテラネア コルッチ一家準構成員 コレッティ』
その中でも彼らはグロチーノ・ジョエトラの南の地区、アルコリオーネを支配しているコルッチ一家の準構成員だった。最近はこのファミリーも、急速に勢力を拡大させている。
「……憲兵は犯罪者…特に殺しをはたらく外道相手なら一切容赦しねえ。腕に自信があれば射撃だって躊躇わねえからな。だが、市民の安全を第一に考えているはずだ」
「どうするつもりだ?」
「コイツを殺されたくなけりゃ……俺たちを見逃せ!!」
スポジーニは気絶しているニコを人質にとった。彼の頭に銃を突きつける。
「……」
しかし、憲兵は無表情のままであり、全く動揺している様子を見せなかった。
「……!?全く動揺してねえぞ、あの野郎本当に憲兵か!?」
「ふん……そこから一歩も動くなよ」
「……」
マフィアの男二人は憲兵の男が無言で見つめる中、少しずつ後退していく。
「行くぞ、コレッティ…」
建物一軒分ほど離れたところでニコの身体を憲兵の男に投げつけ、その場から逃げ去った。
「オラァッ!!」
男はニコの身体を包み込むように優しく受け止めた。
「……」
憲兵の男は静かに右手の手袋を外した。憲兵は一度見つけた犯罪者は絶対に逃がさない。
ーーザシュッッ!!!!
暗黒街のネズミたちは息を切らして走る中、突然血しぶきを上げ、その場に倒れこんだ。
「「!?」」
「ガッ……!!」
「安心しろ、急所は外してある。死にはしない」
激しい痛みで意識が飛びそうになる中、先程の憲兵が目に映った。そしてその他、彼の後ろに何人もの憲兵がおり、自分のほうへ向かっていた。
「外道共を連行しろ、私はあの青年を病院に連れていく」
他の憲兵は彼の指示に無言で頷き、マフィアの男二人を連れて行った。
憲兵が先程の場所に戻ると、ニコを軽々と持ち上げた。改めて血まみれの彼を見た憲兵は、
「!!……この顔…まさか」
と、そっと言葉をこぼした。
◇◇◇
ーーベンノツィオ私立病院 午前一時五分ーー
ここはベンノツィオ地区にある市内では比較的小さな病院である。午前一時を過ぎる頃、ニコは目を覚ました。
「あれ……?ここは……?」
「目が覚めたようだな。ここは市内の病院だよ」
ベッドのすぐ横の椅子に座っている先程の憲兵が、安心した様にニコに優しく微笑みかけた。彼はずっと起きていたのだろうか。何やら本とも、何かの資料とも捉えられる分厚い冊子を手に持っている。
ニコは一先ず身体を起こそうとベッドから背中を浮かせた。
「……っ!痛っ…」
動かした瞬間に全身に電気が走った。すると咄嗟に男がニコの体を優しく支え、ベッドに押し戻した。
「おっと…無理に身体を起こそうとしなくていい。頭部、右肩外出血、肋骨六本ヒビ、二本骨折、腹部内出血……全治五、六週間ってとこらしい」
「六週間……」
ニコは六週間と聞いてもあまりピンと来ていないようだった。
(しかし、この青年……子供というか、女性のような顔をしてるな)
ニコは鮮やかな赤のボブヘアに、一五〇センチほどの低身長、加えて女性のように可愛らしい綺麗な顔立ちと、透き通るような高い声を持っていた。喉仏が見えなければ女性と見間違えてしまうだろう。
しかし、この憲兵も年齢を捉えにくい。流水のように美しく滑らかなプラチナブロンドの髪に、宝石のように透き通る黄金色の瞳、透き通るような真っ白な肌、切れ長の目に鼻筋が通っており、首が長い。凍りつくほど美しく整った顔立ちをしている。身体は細身だがしっかりと鍛えられている。容姿だけを見れば年齢は一八〜二四と言ったところだが、妙に渋く低い声が、聞く者の脳を混乱させる。
ニコもそれを考えるが、ひとまず礼儀として名乗ることにした。
「……僕はニコって言います。ニコ・テスタ。助けていただき、本当にありがとうございました」
「私はレオナルド・アルランドラ。あれは我々の仕事だ、礼には及ばない」
(レオナルド・アルランドラ……!?確かその名前って……)
男の名に聞き覚えがあった。しかし、微妙に思い出せない。ニコは無言状態になっていた。
「どうした?」
「あ……えっと、あの二人は?」
目の前にいる憲兵より気になっていたのは、理不尽なまでに自分を暴行し、包帯まみれにしたあのマフィアたちだ。
「心配ない、二人とも逮捕した」
安心した。もし逃していたならば、生きた心地がしない。もう一度自分を探しにきて見つかりでもすれば、今度こそ殺されるだろう。
「そうですか…良かった。……あなたは憲兵隊の方だったんですね」
「ああ」
「とりあえず、今はゆっくり休むんだ。家にご両親はいるだろう?」
「いや…それは……」
「どうした?」
レオナルドの言葉で目と肩を落とすニコ。何か後ろめたい事でもあるのかと彼は疑うが、帰ってきた言葉が刃となり、心に刺さった。
「実は先日父が病気で亡くなって……明日葬儀があるんです。母は物心つく前に出ていきました」
「……申し訳ない」
レオナルドは謝罪し、頭を深く下げた。
「いえ……だからできれば葬儀には出たいんです……」
「そうか、ではあの紙袋の中は喪服が入っているのか」
レオナルドはベッドの脇にある、血で少し汚れた紙袋に視線を移した。幸い、中身は無事のようだ。
「はい。帰るのが大分遅くなってしまって、近道しようとベンノツィオに入ったんです」
「ふむ…斎場はどこだ?」
「ジェネトーヴァのサン・マリオ・モンティノ教会です」
「時間は?」
「夕方の五時頃です」
ジェネトーヴァとは、カルターノ州と隣接しているピサナ州の南西にあるジェネトーヴァ県の県都である都市。州を跨ぐ遠い場所だ。今から出発しなければ馬車では間に合わない。
「……。分かった、明日朝迎えに来る。そこまで送ろう」
「ええ!?そこまでお世話になるわけには……」
「市民の助けになることが我々の仕事だ。気にするな」
彼はそう言ってニコの頭を優しく撫でた。
「ありがとうございます……」
(明日の朝出発して大丈夫かな……)
ニコは彼に礼を言ったものの、間に合うかどうかが不安だった。
「じゃあ、ゆっくりおやすみ」
彼の浮かべる笑顔にニコの心に少しだけ安心感が生まれた。
「おやすみなさい」
「……そうだ、一つ聞きたいことがある。君は、兄弟はいるか?」
部屋を出て行こうとドアを半分開けると、その手を止めてそのまま彼に訊ねた。
「?いえ……いません」
「……そうか、分かった」
何のことだか分からないが、ひとまず答えるニコに対し、彼は一人、納得した顔で部屋を出ていくのだった。