桜
俺は目を丸くして、"彼女"を見た。
"鳩が豆鉄砲を食ったよう"とは、この様な表情のことを言うのだろう。
少しの間静止していたがハッと我にかえり、「ちょ、ちょっと待って!」と叫んで"彼女"のテーブルへと駆け寄る。
"彼女"もこちらの事情を察したのか、あっ!と声を上げ、マスクで覆った口元を両手で抑えると、勢いよくソファに着席した。
俺が隣に座ると、"彼女"は申し訳なさそうに口を開いた。
「ご、ごめん…その。嬉しくなっちゃって、つい」
「いや、良いですよ」
"彼女"が余りにもしゅんとするものだから、それ以上何も言えなくなってしまった。
それに、だ。
そんなことよりも俺は「何故本名を知っているのか」ということが気になっていたのだ。
「あの…でも今日、初めてお会いしますよね。なぜ俺の本名を知ってるんですか?」
単刀直入に質問を投げかけると、"彼女"は、ふふふっと笑って天井でくるくると回るミラーボールを指差して、こう言った。
「すごく、遠くから来たから」
そして"彼女"は、ミラーボールを見上げたまま呆気に取られている俺を無視して、「何か飲もっか」と言って微笑んだ。
"彼女"がドリンクを決めあぐねている間、俺はさっきの言葉の意味を考えていた。
「すごく遠くから来たから」…もしかして、同じ土地の出身なのだろうか。俺の故郷は九州のど田舎だ。もし故郷が同じならば、俺の本名を知っていたとしても何の不思議もない。
「ね。風斗…くんも、何か飲んだら?」急に話しかけられて、身体が小さく跳ねてしまった。
…くそ、あれからずっと"彼女"のペースだ。他の客の時は、俺が会話をリードしているのに。
ただ、それでも然程嫌な気持ちにはならないのが不思議だ。
"彼女"には、自分の全てを見透かされているような、けれども、ありのままの自分を受け入れてくれているような…まるで、静かな海のような大らかさがあった。
「ビールとか?ほら、あれ好きでしょ。何だっけ、アイルランドの……そうだ!ギネスっていう、ビール」
「えっ?何でそれ知って……もしかして職業、占い師か何か、ですか?」
「ふふふ。飲み物が来たら、教えてあげる」
好きなビールの銘柄を言い当てられて、俺はついに、思考停止状態に陥った。
仮に彼女が同郷の出身であったとしても、俺が最近好きになったビールの名前なんて、知っているはずがない。
あと考えられることは…彼女は俺のストーカーで、俺のことをとことん調べ上げていたりする…とか。いやいや、そんな馬鹿な。
「あ、自己紹介がまだだったね。私の名前は、サクラ。漢字は、あの春に咲く桜と同じ」
彼女はそう言った後、「そっか。マスクは要らないんだね」と言ってマスクを外した。
丸顔で、色白の肌。
二重の目に、細く筋の通った鼻と、小さな薄い唇。
マスクを取って、恥ずかしそうに俯く彼女を、俺は素直に可愛いと思った。
「ああ、恥ずかしい。私、自分の顔、あんまり好きじゃなくて。その…あんまり見ないで。人見知りだから暫く目が見れないと思うけど、早く慣れるように頑張るから」
「っははは、何だそれ!」
さっきまで一方的にぐいぐいリードしていたのに、マスクを外した途端に極端に消極的になる彼女を見て、つい笑ってしまった。
「面白いな」
俺がそう呟いた途端、桜の表情が曇り、瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「えっ!?」と言ったのは俺と、そしてボロボロと涙を流している桜自身だった。
「待って待って、止まらない!どうしよ、風斗くん!」
「えぇ!?あ、ティッシュあるよ、使う!?」
「づがう〜〜〜〜!!うぅっ…どまんないよ〜〜」
ティッシュで目と鼻を押さえ、暫くズルズルと音をさせた後、桜は目と鼻を赤くしたまま「あぁ、止まった。もう、びっくりした!」と笑った。
出会ってまだ1時間も経っていないけれども、この"桜"という女性は、型にはまらない、独特な感性の持ち主だということがわかった。
もしかしたら俺は、とんでもないファンを作ってしまったのかもしれない。