風斗
「いい加減にしろ!」
それは、華やかで賑やかなその場所には、およそ似つかわしくない怒号だった。
他のテーブルで盛り上がっていた同僚のホストも、彼らにべったりと体を寄せる若い女も、モエ・エ・シャンドンとグラスを運ぶ途中だった黒服も、目を丸くしてこちらを見ている。
まるで時が止まったかの様な店内では、耳障りな電子音のBGMと、俺の隣の女の瞳から溢れた涙だけが流れていた。
ここは東京都新宿、歌舞伎町。
つい1週間前に25歳になった俺は、この眠らない街のホストクラブで働いている。
といっても、働き始めたのは1年前で、ようやくこの独特な接客スタイルにも慣れてきたところだ。
学生時代は、内向的な性格で引き篭もり気味な学生生活を送っていたが、この仕事を始めてからは多少外向的になってきた様に思う。
その証拠に、元々外向的で馬鹿みたいに明るい性格の同僚とも上手くやれているし、支配人にもそこそこ気に入られている。順風満帆だ。
いや、順風満帆だった。
それなのに。
俺は「お客様に怒鳴る」というタブーを冒してしまった。
この女のせいで。
この女が、おかしなことを言ったせいで。
女は俺の隣で、さめざめと泣いている。
泣きたいのはこっちだ、ちくしょう。
ーーーーーーーーーー
時間は今日の夕方、俺が店に到着した時に遡る。
「はよーざいます」
気の抜けた挨拶をしてスタッフルームに入ると、ソファに金髪の男が座っていた。同じ時期に入店した力弥だ。
「おっす、風斗!今日も眠そうだな」
「昨日徹夜でシコってたんだよ」
「はぁっ?徹夜で!?あっははは!女とヤれよ!」
「冗談だよ、バーカ」
俺がニヤリと笑うと、力弥は「なんだよ冗談かよ!」と露骨につまらなそうな顔をして、ソファの背もたれにどっかりと体重を預けた。
騙され易い単純バカなところが力弥の魅力だが、この職業には向いてないんじゃないか、と思う。
この仕事はむしろ「騙す」スキルが必要だ。それに、客との駆け引きを成功させるためには、緻密な計算だってしなければならない。
ホストは、客に幸せな夢を見させるのが仕事だ。
満たされた時間を過ごしてもらうために、時には嘘をつかなければならないこともある。
それはまあ、悪く言うと「騙す」ということにもなる。
だが、俺はそれを悪いことだとは思っていない。
客は、お金という対価を支払って心を満たそうとしているだけ。そして俺たちは、お金を貰った分だけ、客の心を満たすのだ。
これは単なる等価交換で、そこらのコンビニで缶コーヒー1本を150円で買うのと同義だ。
「まあでも、そうだよな」
急に力弥がそんなことを言ったので、一瞬、考えていたことを声に出してしまっていたのかとヒヤリとした。
そんなはずない、と気持ちを落ち着けて「何がだよ?」と返事をした。
「お前、やっぱモテるんだな。さっき店の前で、女に声掛けられたんだよ。"この店に、風斗っていますよね"って」
力弥はソファから体を起こして、ニヤニヤしながら続ける。
「どうしても会いたくて、遠くからわざわざ来たみたいだったぜ。まだオープン前だから、店開いたらきてくださいって伝えといたから、後で来るんじゃねぇかな」
「遠くからわざわざ?じゃあこの辺りの人じゃないんだな」
「じゃねぇの?20代後半くらいで、小柄で、髪型はショートボブ。顔はマスクしてたから、よくわからなかったけど」
俺の客にそういうタイプはいないので、恐らく全然知らない人だ。
「店のホームページ見て一目惚れしたんじゃね?お前、背高いし顔もいいからなー、悔しいけど」
「はいはい、どうも」
力弥の言葉はお世辞ではないようだったが、何だか褒められて気恥ずかしかったので、適当な返事で流した。
素気ない態度とは裏腹に、内心、心は躍っていた。
ホストになって約1年、鳴かず飛ばずの売上しか上げられなかった俺に、遠くからわざわざ会いに来たいというファンがいるというのだから。
今日ほど、開店時間が待ち遠しく思えたことはない。
早く会いたい。
客に対してそんな風に思うのは、これが初めてのことだった。