先が見えない
白いチョークがテンポ良く黒板をはしり、その状況を一つも逃すまいとクラスの人間が真剣な表情でペンを使いノートに書き込む。誰もよそ見などせず、首を前へ下へと順番に動かしていた。カチコチと正確な時計が音を立てて動いており、皆その時間の流れにのるように前へ進んでいる。わたしはといえば、真ん中の一番後ろの席で左手で頬杖をつき、右手でシャープペンシルを指で弾きクルクルと回していた。
あの一件以来、わたしの時間は止まってしまい、皆と同じ方向へ進むことができなくなってしまっている。授業にもまったく身が入らず、ノートには適当に思いついたイラストがページ上の小さな余白欄に鎮座している。
何となく息が苦しくて何度もため息をつきながら、わたしは外の様子を見た。
今朝見た天気予報の言ったとおり、午後から雨がポツポツと降り始め二時を過ぎたあたりでどしゃ降りへと変わっていた。校庭は水はけが悪く大きな水たまりがいくつもできているだろう。帰りはそれらを避けながら何度も小さく飛び越えなければならないのでそれを考えただけで憂鬱になる。また一つ大きくため息をすると視線だけを右に移した。その先には髪を後ろで一本に束ね、懸命に授業を聞いている香月優花がいた。普段はコンタクトだったのか、このクラスに入ってからは色気のない眼鏡をしており、校内で二番目にかわいいと有名だった頃の面影はすっかり消えてしまっている。ちなみに一番はわたしだ。
彼が亡くなり二ヶ月経った今では、すっかり孤立してしまっている。校内の仲良かった人間でさえ誰一人、香月には近づいていなかった。
最初の頃は、腫れ物に触るような様子でこのクラスにやって来て顔色をうかがい、口をそろえて「大丈夫?」の一言で始まり、最後には「元気出してね」で終わる会話を繰り返していたが、香月の返事が素っ気なく目も合わそうとしないので知らない間に誰も来なくなっていた。
哀れんで声をかけてやったのに無反応では、誰だって同じ対応になるとは思う。それでも香月はそんな自分の様子を気にする素振りはまったく見せず、黙々と勉強に励んでいる。
わたしの考えとしては、むしろ自分の心に触れてくるほうが嫌なのではないかと思っている。強引に勉学というものにかじりつき、なんとか立ち上がっているのに、『優しさ』というもので自分の心に触れてこられれば、いつ崩れるか分からない。ならば、心を閉ざして他に目を向けよう。そう考えて必死に歯を食いしばっているのではないか、と。
もしそうならば、他人に頼らず一人で立ち上がった香月優花という女性は、わたしなんかよりずっと強い人なのだと思う。もし、わたしが彼女と同じ境遇であれば、ああはなれない。
…おそらく彼の後を追っただろう。
全ての授業が終わり、クラスの連中が三階にある教室からゾロゾロと出て行く。わたしも仲の良い女子達に手を振って別れ教室を出た。少し、憂鬱な気分で渡り廊下を通り過ぎ左手の階段で二階まで降りる頃には気分が少し上向く。何故ならこれから、この学校で唯一の楽しみと言えることがあるからだ。少し急ぎ足で廊下の一番左奥にある教室の戸を開けて中に入った。
「チャース」
中に入ると二人の部員がこちらを向いた。
「おお、おつかれ立花」
「泉先輩、おつかれさまでーす」
美術室の一番前に座っている三年の山崎先輩と、廊下側の一番後ろに座っている一年の玖代が挨拶をした。わたしは美術部に所属している。部といってもここにいる三人しかいないのだが、創立以来続く歴史がある。
「山崎先輩、また来たの? もうすぐ卒業式なのになにやってんのよ」
「仕方ねえだろう、絵が中途半端だったんだから」
わたしは先輩のそばまで近づいて、描いているキャンバスをのぞく。どうやら完全に仕上がったようだ。
「別に、学校でやらなくても家に持って帰って完成させればよかったのに」
卒業間近で気が緩みきっているのか、いつもより髪の色が明るくなっていて左耳にフープピアスを付けている。校内でも屈指のチャラ男が更にチャラくなっている。
「まあ、高校生活最後の作品だしな、けじめってやつ? せっかくだからあの辺に飾っておいてくれよ。来年入る一年の手本にでもしてくれ」
後ろの壁を親指で指してにやりと笑った。
「そんな下手くそな絵、いらないんですけど」
玖代が筆を置くとこちらにやって来て、私たちの会話に入ってきた。
「相変わらず、顔は可愛いのに性格はキツいね、くしろちゃん。そりゃ、天才の君に比べれば駄作かもしれないけど、一応尊敬すべき部長の作品なんだからさあ、少しは記念に残そうとは思わないの?」
「私としては、いなくなる人の話より、今度入る新入部員の方が大事なんです。そうですよね、現部長の泉先輩?」
「そうだよな、あんたの後釜がいなくなったら、部が解散の危機に陥るわけだし、チャラ男先輩の話はそこら辺に置いておくか」
「お前ら、ほんとう一ミクロンも俺を尊敬してねえな」
苦い顔をしながらそれでも先輩は筆をうごかしつづけている。
「去年は私が泉先輩の魅力に負けて入部したのですけど、今年は私が先頭になって捕まえてきますね」
去年の六月まで誰一人として新入部員が入らず廃部の危機に瀕していたのだが、突如としてこの玖代が入ってきたのだ。プライドの高い玖代は先輩を全否定しているが、顧問の先生の話では、どうやら山崎先輩の作品に感動して入部したらしい。それもそのはず、この先輩、数々の学生コンクールで、賞を総なめしている天才なのだ。ただ、見た目も中身もチャラいことでその品格はかなり落とされてはいるが。
「どうやって、この寂しい美術室を賑やかにするんだよ」
先輩がこちらを見ずに言った。
「新学期は校内美少女ランキング、ナンバーワン、ナンバースリーの私たちが声をかければ断ってくる男子など一人もいないでしょう。ならば、イケメン一年生を我々が独占すれば、それに寄ってくるアホな女子どもがホイホイ入部すること間違い無しです!」
「わかった、わかった。お前に任せるよ、まったく」
いまだ演説を続ける玖代を無視するように答え、わたしは大きくため息をついて肩をすくめた。
「美少女ランキング、ナンバーツーはどうしているんだ、お前のクラスに移ったんだろう?」
「私に近づかないでオーラーがすごくて、誰も話しかけていませんね」
「ふーん。なあ玖代ちゃん、いまの彼女ならナンバーツーの地位を奪取できるんじゃね?」
「あ~、それは無理ですよ。いくら私が世間で言う美少女だとしても香月先輩にはかないません、あの人は別格です。とは言え、その美貌の要因とも言える人がいなくなってしまったのはあまりにも悲しいですけど」
「あ、先輩。バイトしたお金。目標額まで貯まりました? バイクを買うとか言っていたじゃないですか」
香月の会話をしたくなくて、強引に違う話にもっていった。
「おー、よくぞ聞いてくれた、先月末の給料でバッチリ超えたぜい」
一年生の頃からずっとオートバイに乗りたくてその頃から必死にバイトをしていたのだ。本体は自分で購入するとの約束で、親には教習所代だけ払ってもらったらしい。
「へ~、良かったですね。これで念願のオートバイライフが始まるじゃないですか」
「そうなんだよ。良かったら、近いうちに後ろに乗ってどこか行かないか?」
「それはお断りします。くしろが行けば良いじゃん」
即座に断りをして横にいる玖代に振った。
「わ、私が山崎先輩とデートですか! い、行くわけないじゃないですかぁー。なんで部長なんかと。…あ、そうだ! 今、『金額を超えた』って言っていたじゃないですか。可愛い後輩達との最後思い出に、先輩なんか甘い物奢って下さいよ」
顔を真っ赤にして恥ずかしがっている玖代は、それを悟られまいと話を本筋へと持って行った。
「やだよ、お前達遠慮なく喰うから。折角貯まった貯金がなくなっちまうわ」
「先輩が苦労して働いていたのは知っているんですから、そんなことしませんよ。とは言え、玖代の提案には賛成。わたしも、先輩との思い出をつくりたいな~」
上目遣いをして、思いっ切り甘えた声でわたしもねだってみた。部活動はどこへいったのか、わたしと玖代はまったく筆を動かしていない。
「え~、…ったくよぉ」
はじめて筆を止めた山崎先輩は右手で後頭部をかきむしると、ズボンにある後ろのポケットから財布を取り出して中身を確認している。それを見て私ら二人は横目で目を合わせニヤリと笑った。
部活動が終わり、私たち三人は一緒に学校を出て電車に乗り、先輩の地元の駅で降りてすぐの喫茶店へ入った。店内は白を基調とした内装で、照明によってかなり明るい雰囲気となっている。お客さんもかなり入っていて流行っている店舗だと分かった。
「へ~、明るくて落ち着いた店内ですね」
わたしは興味津々で店内を見回した。値段の張りそうなカップやお皿が並んでいる。二十歳くらいのウェイトレスがやって来て、山崎先輩に挨拶をすると「お好きな席へどうぞ」とにこりと笑って奥のカウンターへ入り、水やおしぼりなどの準備を始めた。
「ここさあ、珈琲や紅茶の種類が豊富でさ、結構おいしいんだよね」
ここに座ろうと先輩が手で促し、四人がけのテーブル席に座った。ちゃっかり玖代は先輩の隣りへとさりげなく座った。
「いらっしゃいませ、メニューをどうぞ」
ウェイトレスがやって来てテーブルに水とおしぼりを置きメニューを開いて一人一人に渡した。その瞬間、わたしと玖代がパラパラとめまぐるしくメニューを開き即座に注文を開始する。
「イチゴのフレーバーティー、ティラミス、パンナコッタ、ミルクレープ、チョコバナナナ、イチゴのジェラート、アイス昆布パフェ」わたしがマシンガンのごとく注文する。
「あれ?、おい、おい」山崎先輩が慌て始める。
「紅茶でアッサム、ナタデココ、杏仁豆腐、チーズケーキ、クリームあんみつ、プリンアラモード、マカロン、フルーツパフェ、フルーツサンド」負けじと玖代も私に会わせて注文。
「おーい、注文し過ぎだって。あら? ウェイトレスの清水さん、なんでこんな状態でスラスラと伝票書けるのさ、どんだけ速記得意なの! ちょっと、ああ!」
私らのマシンガン注文を、当たり前のようにウェイトレスさんが伝票に書き込むと、もの凄い早さで奥に引っ込んでいった。
「マジかよー、だから嫌だったんだぁぁぁぁ!」
両手をダラリと下げ、顔をテーブルに突っ伏した山崎先輩はそのまま動かなくなった。そんな様子を見てもわたし達は動じずに、親指をたてて『やったね!』とお互いをたたえ合う。
しばらくすると次々とスイーツが運ばれてきた。さすがに量が多いのでウェイトレス一人ではさばくことができない。だからか、厨房からマスターらしき初老の男性と前掛けを付けた女の子が一緒に運んできたのだが、その前掛けの女の子は知っている人物であった。
「あ、香月先輩だ!」
持っているスプーンを指して、玖代が目を丸くしている。
「へ? あ、本当だ」
山崎先輩がその名前を聞いて反応し頭を上げた。そして、自分の名前を聞いた香月は、少しびっくりした様子であったが、私の顔を見て少し動きが止まった。
「…あ、立花さん」
「香月じゃん、ここでバイトしているんだ」
「う、うん」
「なんだ、香月の知り合いか? あれ、山崎君が来てたのか、凄い数頼んだな~」
「マスタ~、酷いんだよこいつらぁ!」
自分が受けた被害を涙ながらに山崎先輩がマスターに話している。香月は運び込んできた皿を置くと、こちらにお辞儀をして厨房の方へ行ってしまった。
「以外ですね、香月先輩だったらウェイトレスの方がお似合いなのに」
お辞儀を返した玖代はスプーンを持って食べ始めた。
「そうでもないでしょ? 性格によって前に出る人もいれば、中で働くのが好きな人もいるんだから、それに、見た感じ香月は後者っぽいしね。それより先輩、香月がここでバイトしているなんて知っていたんですか?」
「いや、知らなかったよ。大学受験で忙しくて、一月から来てなかったから。だから、その間に始めたんじゃないの?」
厨房の方へ見ながら、わたしもスプーンを持ってアイス昆布パフェの攻略に取りかかる。これら全部を完食するのに数時間かかり、その間わたし達は色々な話をした。先輩が絵を描き始めたきっかけやら、私らの好きな画家や、デジタルな絵描きさんの話、最近流行っているネットの話題等々。
先輩が玖代のスプーンを取り上げて、そのまま食べている途中のものを口に運んだとき、玖代が顔を真っ赤にしてキャーキャー言いながら先輩の頭を叩いていたのには大笑いした。以外とこの二人、お似合いかもしれない。
最後に会計で、これが山崎先輩のお別れパーティーだということが分かり、マスターが気を利かせてかなり値段をサービスしてくれた。先輩は泣きながらお礼を言っていたのだが、どうやら財布の中身はギリギリだったらしい。まあ、後輩最後の意地悪なのだからヨシとする。
わたしとしても、最後の思い出を作れて良かったと思う。普段はチャラくても絵のこととなると別格。この二年間とても勉強になった。すこし寂しいが、明日から新しく部を活動していこうと考えた。
別れ際、わたしと玖代で前々から計画していたことを実行に移した。各々で作ったクッキーの入った箱を鞄から取り出し、今までのお礼の言葉ともにそれを渡した。「まったくチャラになってないけどな」と憎まれ口を叩いていたが、とても嬉しそうな顔をして、赤や黄色など、多彩な店舗の街灯が輝いている商店街の奥へと片手を上げて歩いて帰って行った。
「なんだよ、玖代泣いているのか?」
小さくグスグスと玖代が涙を流している。
「だって、今日が先輩との最後の部活動だから」
「連絡先、渡したんだろう? だったらその先だってあるじゃん」
「泉先輩、連絡来なかったらどうしよう!」
声を上げて玖代が泣くので、わたしは玖代を包むように抱きしめてやり背中をさすった。
「それで、駄目なら先輩の教室へ殴り込んで、もっとアピールしてやれよ。わたしも一緒に行ってやるからさあ」
「うん、おねがいしますぅぅぅ~」
ヒクヒクしながら、背の小さい玖代がわたしの胸へ顔をうずめた。