喧嘩はお手のもの
彼女を見かけたのは、高一の春だったな。たしかその日は、やたらと天気が良く、車内は少し蒸し暑かったのを覚えている。俺は扉の端に立って腕を組み、眩しい日の光を浴びて目を細めていた。おそらく周りにいた乗客達は俺を見て、狙撃銃を構えている大門さんと見間違えるほど渋く見えていただろうな。そんな気分良く過ごしていると事件は起こった。
「てめえ、誰にメンチ切ってんだよ?」
高校生活が始まって二日後だというのに、電車の中でいきなり喧嘩を売られた。目立たないようにしていたんだが、どうやら目を付けられてしまった。
「中学じゃ、喧嘩ばっかしだから、高校生活は喧嘩無しで行きたかったんだがな。売られたからにゃ、買うしかねえ」
一歩踏み出して睨みつけている相手と相対した。
「けっ、汚え頭しやがって」
中坊の頃から伸ばしていた髪を、昨日近所にある行きつけの床屋で作ってもらったのだが、どうやら、これが目立ってしまったようだ。今時のヘアスタイルで良かったのだが、「せっかく高校生になったのだから格好良くしてやるよ」とニコニコ顔で床屋の店員が俺の髪を切ってくれた。床屋というところは座って髪を切り出すと、どうも眠くなる。いつの間にか眠ってしまった俺は、終わったことを告げられ目を覚ました。ねむけまなこで目の前の鏡を見た時、卒倒しそうになった。よりにもよって、ドレットヘア。バッチリと編まれた髪の俺は、最早日本人では無かった。
ぶち切れて文句を言いたかったのだが、その床屋の店員は、俺が通っていた中学の六代前の先輩で『鬼のタケル』と都内では有名なヤンキーだったのだ。今は更正して実家の床屋を継いでいるのだが、たまに近所で悪さをしている連中を見かけると、折檻と称して笑いながら暴れているのを見かける。さらに、それ系の後輩は先輩たちとのパイプが強いため、強制的にその床屋に髪を切りに行く伝統があり、気分次第で髪型を変えられてしまう。そんな人に文句は言えないよね。
「この野郎、よりによって頭のことを言いやがって。人にはなあ、止むに止まれぬ事情ってのがあんだよ!」
気にしている頭のことを言われ、一瞬で沸かせる電気ケトルの如く、即ぶち切きれて相手の胸ぐらを掴んだ。
「なに訳のわかんねえことを言ってやがる、殺すぞコラッ!」
相手の男も俺の胸ぐらを掴んでキスをするかの如く顔を近づけた。ここで、どこかの芸人のように、キスをして終われば良かったのだが、そうは問屋が卸さない。
周りでは、いつ暴れるのか分からないので緊張した空気が張り詰めていた。
「ちょ、ちょっと君たち、ここは電車の中だよ」
遠慮がちにスーツ姿のサラリーマンのおっちゃんが声を掛けてきた。
「ああん? んなことは分かってんだよ余計なこと言ってんじゃねえ!」
相手の男が唾を飛ばしながら怒鳴った、それを見ておっちゃんが背を見せてそそくさと逃げる。
「おいコラ、相手はこっちだろうがよ、よそ見してんじゃねえよタコ」
「誰がタコだコラッ!」
「おめえだよ、おめえに言ったんだよ。この世界どこを探しても、てめえほどのタコなんざいやしねえんだ」
「上等じゃねえか、この野郎。次の駅で降りて勝負しろや」
まさに茹でたタコのように、相手の男は顔を真っ赤にした。
「あたりめえだ馬鹿野郎。ドア空いた瞬間、逃げんじゃねえぞ」
二人はまさに戦闘モード全開。俺と相手の男はにらみ合いを続け罵倒しあった。
やがて、電車は減速を始め、俺は振り向いて扉の前に立った。扉のガラス窓からは、プラットホームで電車を待つ人達が見える。そして、減速が終わり、電車が次の駅に到着。「プシュ~」と音を立てて扉が開き、俺と相手の男は勢いよく電車から一歩を踏み出した。
…が、そこで俺は天使を見つけて動きが止まり、一歩戻した。
「おいコラ、なに止まってやがる。…ん?」
相手の男も、前にいる天使を見つけて動きが止まった。
未だかつて、あんなにかわいい女を見たことが無かった。中坊の頃の俺は自分で言うのもあれだが、結構モテた。校内でカワイイと言われている女とは何人も付き合っていたが、あの子は別格だ。その証拠にさっきまで怒りまくっていた相手の男も怒りが収まり、口をあんぐりと開けて彼女を見ている。そして、他の学生やサラリーマンの男達も彼女が入って来たことで動きが止まり彼女を凝視。こうしてしばらくの間、電車の中は異様な空気に包まれていたのだが、数駅を過ぎたところで彼女は降りていった。その瞬間車内の緊張した空間が一気に緩む。
「すげえ、カワイイ子だったな。なあ、オイ!」
相手の男がビックリした顔をしている。
「今のはヤベェ! 俺も見た瞬間心臓が2.5秒止まっちまったぜ」
「さっきは悪かったな、喧嘩ふっかけてよ」
相手の男がニヤリと笑った。
「いや、もういいよ。なんか、いいもん見ちまって喧嘩する気無くなっちまったわ。あれ? そのボタン」
自分が着ている学ランのボタンと相手の男のボタンと学年を記す襟章を指さした。
「なんだよ、タメで同じ学校じゃねえか。名前なんて言うんだ?」
「日向雅人ってんだ。お前は?」
「矢野省吾だ、よろしくな。あれ? もしかして、一中の雅人ってお前か?」
「ああ、確かに一中だったな。あれ? もしかして、六中の省吾ってお前のことか?」
「何だよ、お互い有名人じゃねえか。中学の番を張っていた男が二人もいるとはなあ、さすが帝校だな~」
彼女のおかげで、喧嘩モードが仲良しモードに変わり、二人の仲は一気に縮まってしまった。省吾とはそれ以来からの親友の一人だ。
それからというもの、毎日同じ時間の電車に乗っては彼女の姿を探していた。そのことを近所に住む幼友達に話をすると、「気持ち悪い!」と軽蔑の眼で見られたが、どうやら偶然なことにその子と幼友達の制服が一緒だった。彼女の名前を調べさせようと、そいつを引っ張ってきて見せたのだが、そこでアッサリと名前が分かってしまった。『香月優香』さんというのだった。
何でも、すげえカワイイ子だから、すぐに学校内で知れ渡り、幼なじみと一緒で激カワ少女として有名人になったとか。自慢げに彼女は言ったが、そこは聞き流した。
それから数ヶ月後経ち、いつものように時間を合わせて電車に乗っていた時、その日の彼女は違っていた。隣に同じ学校の男がいたのだ。残念なことに、そこでの二人の雰囲気は良く、彼氏なのだと確信してしまった。一瞬嫉妬で怒り上がったのだが、それはすぐに収まった。何故ならば、彼女が楽しそうに笑っている顔を見れたからだ。一人でいるときは当たり前だが、表情は無いものだ。同じ電車に乗るたびに姿を見ていたが、表情が変わった彼女を見れたのはそれが最初だったのだ。しかも、最高にカワイイ笑顔だ。更に、あんな楽しそうに笑みを浮かべているのだから、よほど相手の男が好きなのだなと思い、握っていた拳はいつの間にか緩んでいた。
元々、彼女は俺を知っているわけでもないし、怒るのは筋違いってえもんだ。
彼氏ができた後でも、時々だが、二人と同じ時間の電車に乗る時がある。勿論、彼女が目的だがな。やっぱり、あのかわいい笑顔は最高だ。それを見られるだけでも癒やしになるんだ。
ところが、去年の夏休みが終わった頃から、その笑顔を見せてくれなくなった。いつも一緒にいるあの彼氏の姿を見なくなったのだ。俺は、ただ単純に二人は別れたのだと考えた。誰だってそんなこともあるだろうと思い、その時はそのまま流していたのだが、昨日同じ時間の電車に乗ったとき、俺は少し驚いた。いつもなら、ふんわりとした表情の彼女なのだが、その日は違っていたのだ。何かこう、思い詰めた表情だった。見た様子、参考書を片手に必死に問題を解いている(視力は三・〇だ余裕で見える)ようだ。彼女を初めて見たやつなら、カワイイ女の子が勉強してると言う感じで思うだろう。だが、一年の頃から見ていた俺には分かる、普通ではない。何かがあって彼女は変化したのだ。
「雅人~。おい、まさと~聞いてるか~?」
窓際の一番後ろの席で、両足を机の上に置き、腕を組んで考え込んでいたところに、省吾が目の前に顔を出して手を振っている。
「おお、省吾か。どうした?」
「どうした? じゃ、ねえよ。さっきから呼んでたんだぞ。なに怖い面して席に座ってやがる」
「ちょっと、考え事をな」
「あ? お前が考え事? ちょっとやめてくれよ~、槍でも降ってくるんじゃねえか?」
省吾は気味悪がって窓の外を見た。
「アホか。それより、何の用なんだよ?」
「ああ、ほら三組の小島の話だよ、昨日、商業の連中にカツアゲされたうえに、学生証を持って行かれた」
「おう、あれか。で、どうよ?」
「バッチリ、芝居打ったぜ。お金は払うから学生証を返してくださいって泣き声出して電話してやったぜ」
「お前が言ったのか? ばれなかったのかよ」
「ばれるわけねえだろう、昨日一回話しただけで声なんか覚えられねえよ」
「それにしても、最近の商業連中は派手にやりやがるな。ウチにちょっかいを出すなんざ今まで無かったろう?」
「一人腕っ節のあるやつが頭になったらしくてな、ウチだけじゃなくて、他の学校にも手を出しているらしい」
都立帝国高校。俺が通うこの学校は都内でもランクは下の下。授業なんざ真面目に聞いているやつは殆どいねえ。授業中にもかかわらず、麻雀やカード持ち出して平気で金賭けるわ、屋上で遊んでるわで、教師なんて、諦めて教室にも来ねえ。周りじゃうちを「世捨て人製造場」って言っているくらい悪名が轟いている。
「じゃあ、何時に話が決まっているんだ?」
「午後二時で、駅前にあるゲーセン裏だ」
「二時ってなんだよ、まだ授業があるじゃねえか。関係ねえけど」
「相手の男も同じことを言っていたぜ。だからよ、『さすがは曳舟商業さんですね。きちんと授業を受けていて偉いですね』って言ったらさ、向こうの奴ぶち切れちゃってさあ。笑いを堪えるのがキツかったぜ」
俺と省吾は大声を上げて笑った。
「よし分かった。じゃあ、時間になったらここを出るか」
時間になり。学校をでると、俺と省吾、そして小島の三人で待ち合わせのゲーセン裏の路地まで行った。そこでは、七人の商業の男達の姿があった。
「なんだあ、お前らは?」近づく俺達の姿を見つけ一人が言った。
「帝校の日向ってもんだ。こいつは矢野だ。昨日はここにいる小島が世話になったらしいな。なんでも生徒手帳を預かってくれいるって話を聞いてな。一緒にもらいに来たんだよ」
俺たちの名前を聞いて商業の連中がざわめいた。
「ほぉ~、帝校の日向と矢野とは。こりゃまた有名人が来てくれたもんだ。それにそのドレットヘア、話に聞いたとおりだな」
連中の奥、後ろの壁にもたれかかっていた男が声を出して、近くまで歩いてきた。
「誰だお前?」
俺は首をかしげてその男を見た。
「曳舟商業の吉田ってもんだ」
「省吾。知っているか?」
「おお、有名人じゃねえか! もちろん知っているよ」
「ほお、俺のことを知っているとは、さすがは帝校の矢野だ」
吉田と言う男が、まんざらでもないって顔で笑った。
「そりゃあ知ってるさあ、よくテレビで見るもんな。『そこに入れちゃ、イヤ』と言う番組ははおもしれえから毎週見てるよ」
「テレビ?」
省吾のその言葉に吉田は首を傾げ、しばらく考えていたが答えが分かったのだろう。耳まで真っ赤になり怒り出した。
「てめえ、そりゃあ吉田は吉田でも『吉田ホモ子』じゃねえか! しかも、千葉のローカル番組じゃねえか!」
「ぷわぁ~! 似ているわ、省吾うめえ~」
俺と省吾は腹を抱えて大笑いをした。それを見ていた周りの商業の連中は青い顔になり吉田の顔をうかがっていて、カツアゲされた当の本人小島はビビった顔で俺たちの顔を見比べている。吉田は怒りのあまり、ワナワナと小刻みに体を震わせていた。
「上等だコラッ! おい、こいつらタコにすんぞ」
怒り狂ったホモ子ちゃんが他の連中に声を掛けると、一気に臨戦態勢に入った。
「ひゅ、日向君。まずいよこれは!」
さっきから小さくなっていた小島が俺の袖を掴んだ。
「大丈夫だよ、小島。お前、ビビらずに、よくここまで来たな、偉いぞ。おい、みんな出てこいよ!」
俺が大声を出すとゲーセンと路地から、二十人程の仲間がゾロゾロと出てきて商業の連中をぐるりと囲んだ。それを見て、連中の顔色が変わった。
「て、てめえ、汚えぞ! 大人数で来やがって」
「うん? 汚えだと? お前らだって、昨日こいつをその人数で囲んだんだろう? 同じじゃねえか」
「そ、それは…」
吉田は痛い所を突かれ目が泳いだ。
「俺はなあ、自分より力の無い奴を、みんなで囲んでいたぶるってやり方が一番嫌いなんだ。簡単には帰さねえから覚悟しろよ」
その一言に連中の表情がかたくなった。だが、吉田だけは俺を睨みつけている。さすがに番を張っているだけはある。
「だがな、吉田君よ。お前と俺二人で勝負をするのなら、みんなでボコるのをやめてやるよ」
「なに?」
「どうする? 俺を倒せば、商業の吉田の名前は、明日から、うなぎのぼり上がっていき、都内でもその名声が轟くぞ?」
その言葉に目を伏せて考えた吉田だったが、やがて目を上げて俺を再び睨みつけた。
「よし、やってやろうじゃねえか」
覚悟を決めたのかニヤリと笑い、吉田が上着のブレザーを脱いで仲間に投げた。確かにタッパはある。俺が一八三センチだから、見たところ一九〇近いだろう。体も鍛えているらしく、シャツの袖をまくった腕も結構な太さだ。
ゆっくりと吉田の近くへ歩いて、二メートルほどの距離で止まり、腕をダランと下げる。吉田は両手を顔の前に出して、ボクサーのように構えた。
辺りは緊張でシーンと静まりかえっている。後ろで、小島がゴクリと唾を飲んだ音が聞こえた。緊張のためか、吉田の額から汗が一雫流れ、顎の下あたりで止まった。そして、しばらくして、その汗が顎から地面に落ちた瞬間、意を決するかのように吉田が突進してきた。
右のストレートが俺の鼻に向かって飛んで来る。無表情で僅かに首を右に曲げて俺はよけると、そのまま頭をカウンター気味に吉田の頭へ叩きつける。「ガン!」鈍い音が響き、吉田の膝が崩れた。
「吉田を、…ウソだろう?」
商業の連中が驚きのあまり目をひん剥むいている。下に目を向けると吉田は目をつむって気絶しグッタリとしていた。
「アッサリだな。お前早すぎだぞ、もう少し観客を楽しませろよなあ? おう、商業! 小島の学生証早く渡せよ!」
省吾がドスをきかせた声を出すと、ビックリした連中は急いで小島の学生証を省吾に渡した。なんてことは無い、吉田以外はへたれだ。
「ほい、小島。良かったな、また困ったことがいつでも言えよ?」
「ありがとう、日向君、矢野君」
見た目、痩せっぽちで背の低い、どう見たって中学生に見える小島は怖ず怖ずと手を伸ばし学生証を受け取った。省吾がニッカリ笑って小島の肩を叩いている。
「おう、おめえら! 今度他の学校の連中にも同じことをしたら、ウチが全力で潰しにいくから覚えておけよ!」
俺が怒鳴りつけると、商業の連中はペコペコと頭を下げた。
「よし。終わったことだし、中入ってしばらく遊ぶか、雅人」
省吾が指でゲーセンを指している。
「ああ、わりい。これから行くところあんだよ」
「あん? どこよ」
一つ事件が終わり、緩んだ表情に戻った省吾がそれを聞いてガクッと肩を落とした。
「地元のファミレスで、泉と会う約束があってな」
「なにぃ~、泉ちゃん? だったら僕も行く!」
泉の名を聞いて、省吾のテンションが上がった。
「あ~、ダメだ省吾。あいつ、お前のこと嫌ってるもん」
「マジかよ~。嫌われててもいいから会いてえよ」
「わりいな、ちょっとマジな話があってよ。そのうち会わせてやるから勘弁な」
省吾の駄々をサラリと躱すと、俺はその場を後にした。