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香月優香という人



 目を覚ました。ゆっくりと体を回しうつ伏せになり、まだ眠気が残る目をこすりながら窓をを見た。

 ピンクの遮光カーテンが明るくなり、隙間から光が漏れている。外からは数羽の雀がチュンチュンと鳴く声が聞こえ遠くの方でカラスの声も聞こえていた。

 未だ半分閉じたままの目でわたしは仰向けにもどると、手足をピーンと伸ばしながら、盛大なあくびをしてボーっと天井を見た。


「…昨日はびっくりしたな~、まさか早乙女君が現れるとはね」


 少しニコリとしつつ、しばらく天井見上げていたが、昨日の出来事は夢なのではないかと急に不安になり体を起こしてあたりを見回す。当然ながら誰もいない。確か、夕べ雅人と早乙女君とその他一名は深夜になってあそこの扉から出て行ったはずだ。そうだ、夢なんかではないと思う。


 少し真剣な表情でベッドの頭側にある物を置くスペースに手を伸ばし、スマホを掴んで通話スイッチを押して耳にかざした。


「はぁーい、どうしたいずみぃ?」


 雅人は熟睡全開中だったようで、完全に寝ぼけた声を出している。


「あ、あのさあ。昨夜の話だけど何時に待ち合わせだっけ?」


「…あ、ん? 学校が終わってからだから5時だったよなぁ。なんか問題でもあるのか?」


 わたしの問いに、かなり間をあけて雅人が答える。


「そ、そっかぁ! 遅刻したら悪いからさ、ちょっと確認しておきたかったのよ。朝早くごめんね」


 わたしは誰もいない部屋で、すまんという風に片手の指を伸ばし雅人に詫びた。


「あ、あさ? ホントだ4時か~、あと4時間はねむれ…」


 雅人が言い終わる前に通話を切ると天井を見上げ、ほっと胸をなで下ろした。


「よかったー」


 彼と再会できたことが夢でなく現実だったと分かると、ほんの少しだけ体をすぼめ小さくガッツポーズをした。

 いつもなら目を覚ますと、やりきれない気分が溢れ出しため息を一つするのだけれど、今日は、いや、今日からは違う。彼のために何かできる。それだけで私の心は晴れやかなのだ。起きて出かける準備をするにはまだ時間がある。わたしはニコニコしながら枕に顔をうずめて二度寝を始めた。


 いつも通り学校へ行き、二時限目の授業が終わって少し時間が経った頃、わたしは香月のところへどうやっていくか考えていた。朝のウキウキ気分のまま香月へ近づけばよいのだが、そうはいかない。なんせ、一度も話したことがないし、どうやって声を掛ければよいのか悩んでしまったのだ。

 とはいえ、香月に聞きたいことは山ほどある。趣味は何かとか、聴く音楽のジャンルはどんなのが好みとか。好きな食べ物はなにかとか、嫌いな女子はどんな娘とか。言っておくがこれらは香月に対してではない、もちろん早乙女君のことである。しかし、悲しみのどん底に落ちている香月に傷口に毒を塗るようなことはさすがにできないし、彼が実はこの世にとどまっていて、何を行うのか、これも絶対の秘密。なので、いま現在話しかけるネタがないわたしにとってこれは、結構な難題だったりする。

 それに、正直、私は香月優花が苦手だ、理由は分かるでしょう? とはいえ、早乙女君のためになんとか近づかなければならない。


 三時限目の授業が終わり、わたしは数学の問題集を手に取り立ち上がった。ベタではあるが、かなり難解な問題を香月に見せて、二人で思案しながら距離を近づける作戦でいくことにした。

 必要のないドキドキを胸にわたしは香月に近づいた。彼女はいつも通り黙々と何かの問題集を解いているようだ。


「ねえ、香月さん。この問題なんだけどさあ、ちょっと難しくて。よかったら見てくれない?」


 緊張した声でわたしが声を掛けると、体をピクリとさせてこちらを見上げた。香月は少し驚いた表情で私を見た。


 とても澄んでいて大きな瞳、高くはないが綺麗な鼻梁のライン。小さくて柔らそうな唇。その表情は愁いを帯びていて、もの悲しい。

 このクラスにやってきてメイクなど一切しなくなった香月だが、こうやってまともに正面から見ると同性の私でもドキリとするくらいかわいい女だと思った。周りの男どもがドキドキするわけだ。


 「ああ、おどろかしてゴメン。これなんだけどさ~、解き方がいまいちわからなくて」


 問題集をひろげ素早く机の上に置き、香月の右隣りに体を寄せて少しかがんだ。


「あ、う、うん」


 私の動作につられるように香月は下を向き問題を見た。


「わたしとしてはさあ、ここを…」


 当然、わたしなら解ける問題である。しかし、そこは演出でヒントを小出しにして香月と問題を解こうとした。ところが、彼女はえんぴつを取ると、先ほどまで英文が書かれていた文章の下にサラサラと書き始め、あっという間に解いてしまった。


「はや! あんた、今まで文系でしょ? 何でそんなに早く解けちゃうのよ」


 かがんでいた体を起こすと眉をつり上げて香月を見た。


「もともと数学は好きな科目なの」


 難解な問題など、何でもないようにサラッと言うと。問題集を手に取ってわたしの胸の前に差し出した。今度は、わたしがその動作につられ、眉を上げたまま右手で受け取った。

 香月はこれで用は終わったとでも言うように私から目線を外すと再び問題集にとりかかった。

  その様子を見て、これで終われない気持ちはあったがすぐに言葉がでない。そのまま数秒経ち、香月の右隣りの席が空いていたのでわたしは一つため息をつくと、そこに座り、半身になり右手で頬杖をついて彼女を見た。

 香月は真剣な表情で問題にかじりついている。それは鬼気迫るといった感じで、以前の時にあったような雰囲気はチリさえ残っていない。

 何がここまで変えてしまったのか。それはもちろん早乙女君の死によって引き起こされたもであるのは間違いないのだが、とはいえ、ここまで変わるものなのか。


「ねえ、あそこの店でバイトしているんだ」


 わたしはもう一つ小さくため息をすると頬杖をついたまま香月に言った。


「うん」


 目線は下を向いたまま香月は応える。


「厨房から出てきたからそっち専門なの?」


「昨日みたいに、一斉に運ばないといけない時は手伝うけど基本なかにいる」


「へー、私たちが少し注文したのも香月が作ったの?」


「マスターと二人で。小さい頃からケーキとか、お菓子なんか作るのが好きだったから。いろいろと覚えたくてバイトを始めたの」


「ちょっと凄いじゃん! わたしなんか、作れてもせいぜいカップ麺よ? ああいうの作れる人尊敬するわ」


 目をまん丸くして香月を見た。


「カップ麺はお湯を入れるだけでしょ?」


 走らせていた鉛筆を止め、クスッと笑うと目を細めて香月はわたしを見た。


「好きで始めれば誰でもできるよ。難しいのはマスターにやってもらってるし。昨日はたくさん注文してくれてありがとう」


「ああ、先輩の送別会でね。後輩と二人で奢ってもらいにお店に入ったのよ。落ち着いていて感じの良いお店よね。茶葉やコーヒー豆の種類がたくさんあって、聞いたことのない種類も結構あったわよね」


「マスターのこだわりで色々仕入れているの。豆の焙煎だったり、挽き方だったり、長年の研究で今のやり方になったらしいのだけれど、美味しいって評判で業界でも有名人らしいの」


「へー、殺し屋みたいな目をした怖い感じの人だけど。すごいのね」


 また香月がクスッとした。早乙女君と一緒の時の香月はコロコロとよく笑う印象があったの覚えている、だからそれに比べると力のない印象だ。


「それ、本人がすごく気にしているの。若い頃それで損したってブツブツ言ってるわ」


「何となく分かるかも。学生時代とか苦労してたんじゃないの?」


「そうなの。好きな子に告白しても顔が怖いからムリってフラれたことあるんだって」


「それはかわいそうね、本人は好きで顔を怖くしているのじゃないし。とは言え、あの顔でマジ顔されて告られたら、わたしもひくかなあ」


「バイトの面接でお店に行った時ね、初めてマスターの顔を見たら少し危険を感じちゃった」


 香月は、いたずらっ子のような表情をしてわたしを見たものだから、釣られて声を出して笑ってしまった。いつの間にか普通に会話をしている。何も難しく考える必要はなかったわね。


「山崎先輩と知り合いなのね? どういう繋がりなの?」


「部活が一緒でね。美術部なのよ、わたしら。一年の時、先輩にスカウトされて入部したの。そういえば、先輩とマスターは顔見知りなのね」


「山崎先輩はあの店の常連様なの。コーヒーが好きで毎日来てるわ。そういえば立花さん、さっき変なこと言ってたよね、先輩の送別会なのに、なんで送る方が奢られるの?」


「あの先輩、バイトをしていて結構リッチなの。玖代っていって、もう一人いた後輩の子なんだけど、度々なんか奢れって二人でせびっててさ、それも最後だからってことで来たのよね」


「すごい量を注文したけど、まさかあの量二人で食べちゃったの?」


「そうよ、いつもあんな感じかしら」


「え~! それは山崎先輩かわいそう~」


 口を押さえて香月が笑った。その声でクラスの連中が意外な顔をして彼女を見ている。それはそうだろう、いつも必死な顔をしていた香月が、このクラスに来て初めて笑うのだ。

 わたしはすこし安心した、絶望的な状態でも笑うことはできるのだ。そして、早乙女君がなぜこの子を好きになったのか分かった気がする。香月は笑った顔がたまらなくかわいい。


 放課後になり、クラスの連中がパラ、パラと教室から出ていく。わたしもその中に混じって教室の後ろ側から出たところで、、何気に左側に目をやると香月も教室から出てきていて、下を向いたままこちらに歩いてくる。このまま流して先に行ってもよかったのだけれど、午前中に話していた表情とは変わり、いつもの辛そうで必死な表情に戻っていたし、後ろ髪引かれる感じになりそうなので足を止め来るのを待った。


 彼女の行く手を阻むように立っていたので、私のそばに来た時、香月は弾かれたように首を上げて私を見た。


「立花さん」


「たしか、電車で通学してるよね。どっち方面なの?」


 このクラスに編入してから、誰一人とも会話をしてこなかった、いや、こちらに来ないでオーラ全開にしていた彼女。わたしから本日二度目の声掛けに少し驚いた様子だ。


「一緒に帰らない?」


 少し微笑んで香月を見ると、わたしの誘いに首を横に振りかけたが、途中で止めると少し間を開け、コクリと小さく頷いた。


 わたしは、反対方向に向きを変え彼女の右横に並び歩き始めた。


「この時間に帰るなんて珍しいじゃん。いつもだったら残って、参考書開いて勉強しているのに」


「それは、バイトに行くために時間調整をしているだけなの。今日は、私の前に入っている人がいつもよりはやくあがるから」


「ふーん、じゃあ、バイトは結構な頻度で入っているんだ。勉強にバイトもあって忙しそうね」


「本当は勉強に専念するべきなんだけど、買いたいものがあって」


 あまり詮索してほしくないのか、香月は下を向いて黙ってしまったので、わたしはそれ以上会話を進めず、うん、うんと頷くと前を向いた。

 教室がある三階から、他の生徒達の流れにあわせ、ゆっくりと階段をおりる。昇降口につくと、私は首を少し上げ、下駄箱から黒色のローファーを取り出すと、無造作に放り投げ人差し指で引っかけながら靴を履き外に出た。


 この時期に入ってだいぶ暖かくなってきたとはいえ、いまだ冷たい風が吹き、私の前髪を揺らした。右手で揺れた髪を直しながら後ろを向くと、香月も靴を履いてこちらへやってきたので、私は少し前を歩き校門へと進んだ。


 歩きながら右手の校庭へ目を向けると、陸上や野球、テニスなどの運動部が練習の準備を始めているのが見える。うちの学校は進学校なのだが、部活動にも力を入れており、それなりの成績を残していて、野球部、サッカー部などは区大会でも上位にいるらしい。

 運動部だけでなく、吹奏楽や演劇の文化部も高い成績をおさめており、我が美術部も先輩のおかげで全国区なのだ、今年はわかんないけど。


 校門を抜けて左に向きを変えすすむも、いまだ無言。さきほどのバイトの件から会話が止まってしまった。わたしはおしゃべりな方ではないので無言になるのは苦でないのだが、この空間は辛いかも。落ち込んでいる状況は分かっているだけに、次に何を話そうか言葉が出ない。


 少し下ると左手に自動販売機が見えた。小走りで販売機に近づき、レモンティー入りの小さいペットボトルを選んでボタンを押した。ヒンヤリとしたボトルを手に取って後ろを向き、「香月」と一言いってフワッと投げた。少し慌てた香月が「あっ!」と声を上げて投げたボトルを胸の位置でわたわたしながら取った。


「…あの、これ」


「飲んで! 私のおごり」


 そう言われても、どうしていいかわからない香月。


「わたしのおごりなんて滅多にないのよ? 今までの人生で一回くらいしかないんだから」


 笑いながら人差し指を作って香月を指さした後、二本目のレモンティーを買ってキャップを開け、ゴクゴクと一気に飲んだ。それに釣られて香月もペットボトルに口をつける。


「毎年、体育祭の時にさあ、校舎の二階部分に大きな横断幕のイラストがあるの知ってる?」


「あ、うん。たしか、去年は教科書に載っていた絵のやつ」


「そう、そう。『ウジェーヌ・ドラクロワの民衆を導く自由の女神』ってやつ。高さ5メートル、横幅8メートルくらいあってさあ、あれ作るの大変だったのよ。なんと言っても当時部員二名なんだから」


「…あれを二人で作ったの?」


「うん。最初は大きな紙を、たて、よこ、に繋いでからプロジェクターを使って紙に投影するの。それになぞって下書きをおこしてから色を付けていくのだけれど、これらの作業って結構苦行だったりするのよ。勿論、絵を描くことは好きではあるのだけれど、授業がある日は放課後から夜八時までやって、土日は朝八時から夜八時まで。春休みなんか休みなしでその時間だもん。当時の三年生は卒業まで手伝ったけど卒業したら一切来なくなって。いい加減頭おかしくなってブチ切れたのよ、もうやってられない! って」


「じゃあ、どうやって完成させたの?」わたしの話を聞いて香月が目を丸くして聞いてきた。


「山崎先輩が困った顔をして、わかった、わかった、部活が終わるたびに好きなものご馳走するから我慢してくれって言ったの。その瞬間わたしの目がキラリよ、わかる?」


「え? …あ、度々なんかおごってもらっているって。あー、もしかしてその頃から?」


「そうなのよ。私、線が細い方だからあまり量は食べれないように見えるでしょ? ところがどっこい、かなりの量いけるのよね。初めて食べに行ったら山崎先輩目を丸くしててさあ、笑っちゃたわ! それからと言うもの何かある度にゴネてご馳走になったのよね」


 その言葉を聞いて香月が吹いて笑顔を見せた。やったわ、作戦成功ね。


「もしかして、この間一緒に来た後輩さんもその度に?」


 少しうれしそうな顔をして香月がわたしを見る。『そういうこと!』と返事を込めて、わたしは目を大きくして笑顔で頷くとそれを見た香月がクスクスと笑った。実際、個人で制作するもの以外で、学校行事で動くときはその度に玖代と二人でゴネてみせ、先輩の財布を寂しくさせてきた。

 香月の表情を見て安堵したわたしは、残っているレモンティーを飲み干すと自販機の隣に備え付けてある空き缶箱へ入れ、香月へ『行こうか』と一言いって歩き出した。そこから、今年の体育祭で制作している横断幕イラストの話、そして、今年も二人になってしまっているので、新入生を大量に仕入れる作戦などを話して歩いた。


 公園のわき道にさしかかり、何気に上を向くと桜の木々からはポツポツと花が顔を出しており、他の芽も花を咲かせる準備が整っている感じだった、天気予報だと後二日三日で満開となるらしい。


「もうすぐ満開になりそうね。桜って学生には中途半端な時期に咲くよね、ちょうど卒業式と入学式のあいだでさ。まあ、在校生だけの特権かしらね」」


 ポツリとわたしが言うと、香月は私を見ると首を上げた。


「本当だ、もうそんな時期なのね」


 何の気なしに出した言葉だったのだが、ピタリと立ち止まり、彼女はしばらく遠い目をして桜のほうを見ている。そして、何かを思い出したのか、下を向いて肩を震わせはじめた。



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