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1 賢者の引退

 その日の朝、とある冒険者ギルドがにわかに静まり返った。原因は今入ってきた一人の男だ。

 青年と呼ぶにはやや遅い年齢の、ありふれた服を着たその男は、逆に冒険者ギルドの中では浮いている。

 特徴らしい特徴を持たない男だが、今この場に彼を知らぬ者はいない程の有名人だった。

 男は周囲の視線を意に介さず、まっすぐ受付カウンターまで進んで行った。


「おや、賢者さん。お久しぶりです。クエストですか?」


 実はこの男は、かつて世界を脅かす魔王を打ち倒した勇者パーティの一人、世界で最も強大な魔法を使いこなす賢者なのだ。


「いや。今日はやっておきたい事があって来たんだ」


 そう言って賢者は、冒険者の証であると共に身分やステータスの証明となるカードを差し出した。

 

「やっておきたい事、とは?」


「僕、冒険者を引退しようと思うんだ」


 周囲の静寂が一転、今度は騒がしくなった。


「い、引退って……どうしてですか?」


「何か、このまま冒険者として働き続けるのかな、って考えたら、嫌になっちゃったんだ。もう充分働いたし、これからは自分のための人生を生きようと思って」


「勇者さん達の事はどうなさるおつもりですか?」


「それは大丈夫。魔王討伐の報酬を山分けした時点で、パーティは解散したんだ。今はみんなフリーだよ」


「そうですか……では、除名の手続きを行ってきます」


 受付係は賢者の冒険者カードを回収すると、ギルドの奥へと姿を消した。


「嘘だろ……」


「あいつ、正気か?」


 時折罵声ともとれる言葉が飛び交うが、当の賢者はどこ吹く風である。

 少しして、さっきの受付係が戻って来た。


「手続きは無事完了しました。今までお疲れ様でした」


「うん。それじゃこれで」


 そのままギルドを出て行こうとする賢者を、数人の冒険者達がその行く手を遮った。


「おいてめぇ! どういうつもりだ?」


「世界を救った英雄として、いや、一人の冒険者として恥ずかしくは無いのか?」


 賢者本人より年季の入った先輩冒険者達が、賢者の引退を直接糾弾してきた。


「いや、全く。むしろ、自分を捨てて働き続ける方が、僕にとってよっぽど恥ずかしいよ」


 冒険者達は殺気にも似た気迫を出しているが、直接攻撃する動きは無い。場所が場所なのと、それ以前に結果が見えているからだ。


「能力や才能ってのは、その人が持つ権利であるはずだよ。決して使命や責務なんて言葉に利用されちゃいけないんだ」


「お前、それを今にも魔物に食われそうなガキの前でも、同じ事が言えるのか?」


「もちろん。助けるかどうかは、それができる人が決める事だ。助けなきゃいけないと考えるのは、倫理観なんて概念に精神を支配された、愚者のやる事だよ」


 賢者の言葉に、殺気立っていた冒険者達が落ち着き、むしろ諦観の表情をしながら左右に分かれた。


「……確かにお前は、冒険者でも何でもない、ただのクズみてぇだな。どこへなりとも行けば良い」


「うん、そうするよ。ただ……」


 賢者は出口に歩を進めながら、冒険者達に向かってこう言った。


「これだけは伝えておきたい。常識や法などと呼ばれる、人にとって当たり前と思われているものこそを、一度は疑ってみる事をお勧めするよ。普段思考の及ばないそう言う所にこそ、人を不幸にしている思わぬ落とし穴があるものだからね」


「黙ってさっさと出ていけ!」


 賢者は一人満足気に、ギルドを後にした。

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