6.世界を生きる者たち
◇ ◇ ◇
無機質な電子音が、沈んでいた意識に入り込んでくる。
それが音だと認識した時にはすでに頭は目覚めており、ベッドから半身起き上がっていた。
時計のアラームを止めた際、デジタル数字が示す時刻を見て気づく。こんなに早く起床する必要はなかったのだと。
(まあいいか)
起きてしまったものは仕方ない。
リュートは枕元のタオルを手に取り、スリッパを履いて立ち上がった。隣のベッドへと目をやるが、布団の膨らみは動く気配もない。ルームメイトはぐっすり夢の中のようだ。
テスターを起こさないよう片手でそっとドアを開け、部屋の外へと出る。
いつもこの時間に起きている時と同様、廊下は静まり返っていた。ぺたぺたと尾を引くように付いてくるスリッパの音だけが、停滞した朝に動きを与えている。
特に寄り道することもなく、リュートは洗面所へとたどり着いた。棚から自分のコップや歯ブラシ等を取り出し、歯を磨いて顔を洗う。どうにもスムーズにできない。
なんとかすすぎを終えて顔を上げると、鏡に映った自分と目が合った。洗顔したにもかかわらず、まだどこか寝ぼけ眼だ。
リュートはタオルで顔を拭き、使い終わった用具を棚へと戻した。
行きと変わらぬ静かな廊下を逆にたどり、寮室へと帰る。
(もう着替えちまうか)
こうもしっかり起きてしまった以上、寝間着代わりのジャージー姿でいるのも居心地が悪い。
簡易クローゼットをゆっくりと開け、リュートは真新しい制服を引っ張り出した。ぎこちない動作で着替えを済ませ、ベッド脇に立てかけてあった緋剣を無意識につかみ上げたところで、手が止まる。
(……そうか、もう要らないんだったな)
苦笑を浮かべて緋剣を置き直し、リュートはくるりと反転した。
今日から新学期だ。
◇ ◇ ◇
「もう、ふたりとも遅い!」
世界守衛機関本部棟の前に着くと、案の定すでに到着していたセラが、いらいらと足を打ち鳴らした。
ゆっくりと朝食を取り、集合時間ギリギリまで部屋でくつろいでいたリュートとテスターは、言い訳がましく口をとがらせる。
「だから時間通りだろ」
「そうそ。ぴったり朝7時20分」
「だから10分前行動って言ってるじゃない。早朝登校がなくなった分、簡単でしょ」
つんと顔を背けて歩きだすセラ。
平行線にしかならない話題なので、リュートとテスターは黙って後を追った。
本部棟から正門まで続く並木道は、その両側から伸びる枝でアーケードのように、桃色の屋根が形成されている。
満開の桜の下――というのは新生活の代名詞のような景色だが、実際のところ新学期を迎えた今日、すでに桜は半ば以上散っていた。
それでも見送りには十分な華やかさだ。
急ぐことないのんびりとした足取りに合わせ、左腕が力なく揺れる。
桜の隙間から空をのぞき見ながら、リュートは目を細めた。
もう光を宿していない左目が、かつての名残で青空を探す。
そしていまだ帰らぬ主の姿も。
(メルビレナ……)
意識が途絶えた――永遠に途絶えたと思ったあの日、当たり前のようにその続きが始まった。五感は回復し、一部を除いて身体も動くようになっていた。
奇跡が起きたのかと思った。
だけど――奇跡は起きないと、ある者が言っていた。
だったらこれは、誰かがなにかを必死に護ってくれたことの結果なのだろう。
その誰かに対して、なにを思えばいいのか分からない。
リュートは仲間に視線を転じた。
セラとテスターは先ほどから、たわいない話で盛り上がっている。
「――にしてもさ、似合ってんじゃんセラ。その制服」
「ありがと。テスター君も似合ってるわよ。チャラい転入生って感じで」
「それ褒めてるのか?」
「一応ね」
まあたぶん、盛り上がっているのだろう。
彼らの会話を聞いたからというわけではないが、リュートは鞄を持ったまま、身を包む制服に手で触れた。
(まさかこれを着る日が来るなんてな)
襷野高校の制服は、守護騎士や訓練校の制服よりも身軽で、なにより腰に武器がない。
消えた重みはそのまま神僕の重責を表しているようで、突然の解放感に戸惑いの方が強く出る。
神僕に、もう緋剣は必要ないのだ。
慎重を期すため公式宣言はされていないものの、幻出現象が終息したのは暗黙の了解となっていた。
幻出がなくなった以上リュートたちも襷野高校に通う必要はなくなったのだが、交流学生として新学期を迎えることとなった。
それは今まで以上に地球人との交流が重要になるだろうという、セシルの思惑によるものだ。
この世界での存在意義ともいえる役割を失った渡人は、今後地球人とどう共生していくのか。手探りで進んでいくしかない。
全てが変わる。変わっていく。
無造作に放たれた地は広大で、種族丸ごと迷子になった。だけど見られる景色も無限大に広がった。
どんな今日を生きたって、明日は必ずやって来る。
だからこそ自分だけの今日を生き抜きたい。
(そうだよな、アスラ……)
鞄の持ち手に下げられた懐中時計へと目を落とし、微笑む。
満足も後悔も、全部自分が選んだことの結果だ。
だったら苦い記憶に押し潰されそうになっても、這いつくばってでも前に進めるだろう。
リュートは顔を上げ、ふと違和感に気づいた。
わずかにだが、前方に次元のゆがみを感じる。
「……っ⁉」
慌ててテスターとセラに視線を送るが、彼らはきょとんとこちらを見返しただけだった。
「どうしたリュート? そんな切羽詰まった顔して」
「もしかして、どこか痛いの?」
「いや……」
不安げな表情を見せるセラを安心させるため首を振りながらも、リュートの意識は違和感の方に向いていた。
(ふたりは気づいてないのか……?)
感覚を研ぎ澄ましてみれば、通常のゆがみとはどこか違っている。
そして――動いた。
「――っ!」
「お兄ちゃんっ⁉」
動き始めたゆがみを追うように、リュートは反射的に駆けだしていた。
(まさか……幻出はまだ終わっていないのか……?)
汗が頰を伝う。
ゆがみを生じさせている異物は並木道を通り抜け、特殊第2運動場へと向かっているようだった。
訳も分からず追い続け、特殊第2運動場に足を踏み入れると。
前方に白い巨人が立っている。
それは堕神だった。冷静になって見てみれば、巨人というほど大きくはない。せいぜいが、リュートより頭ひとつ分高いくらいか。
堕神は頭部の一部が醜く潰れ、脚はあらぬ方向にねじ曲がっていた。右腕にいたっては付け根から先がなく、無残な傷口をさらけ出している。
リュートは、痛々しい堕神の姿に顔を曇らせ――
「……女神……?」
そこに金髪の女性の影を見た気がして、堕神へと近づいていった。
見た目は堕神だ。でもそこから感じ取れる存在感は、かつて同化した彼女のものだ。
「まさか……メルビレナ、お前なのかっ⁉」
返事はない。
しかしリュートは確信していた。目の前にいる堕神は女神なのだと。
「メルビレナ……」
彼女が多くの命を振り回したことに変わりはない。リュートが受け入れてそれで済む問題でもない。
だけど女神が――嫉妬深くてわがままなのに、うっかり神として生まれてしまった彼女が――どういう思いでこの結末を選んだのかを考えれば、言葉は自然と浮かんできた。
誰が悪いのか遡って配慮し口を閉ざすより、目の前の彼女に素直な気持ちをぶつけたかった。
たぶん自分もわがままなのだ。
「ごめん……ありがとうっ……」
欠損した右腕に手を伸ばすと、彼女は逃げるように後退した。
ゆがみが小さくなる。彼女の姿が透けていく。
「待っ……」
リュートの呼びかけむなしく、彼女は消えていく。
しかし消える直前、彼女は運動場の奥を指さした。アスレチックのある方向だ。
「待ってくれメルビレナ! 一体なにを――」
伝えたいのか。そう聞き終える前に女神の姿は消えた。
「メルビレナ……」
取り残されたリュートはメルビレナが指した方向に目をやり、
「……っ⁉」
そこに見えたものを目指して、再び走りだした。
願望に近い直感だった。
一瞬でも疑えば消えてしまうのではないかと、がむしゃらに走った。
アスレチックを駆け上がり、台の上へとたどり着く。
銀髪の少女が倒れていた。
震える脚で近寄り、少女の傍らに膝を突く。
あおむけの少女は小さく胸を上下させ、眠っているかのようだった。
動かぬ左腕に苦心しながら、そっと抱き上げると――長いまつげが揺れ、少女がうっすらと目を開けた。
二、三度まばたきをした目が、こちらに焦点を結ぶ。
「……リュー、君……?」
「っ……」
少女はゆっくりと微笑み、リュートを見上げた。
「お帰りなさい……リュー君」
もう二度と失いたくないから。
「アスラっ……!」
今度こそ。
リュートは彼女を強く抱き締めた。
愚神と愚僕の再生譚――完
お読みくださり、本当にありがとうございました。
 




