5.リバースデー⑬ どうか神様。
◇ ◇ ◇
「――はい、今から戻ります……いえ、俺はひとりで大丈夫です。ただこちらに負傷した守護騎士が1名いまして……ええ、命に別状はないのですが気を失っていまして、俺じゃ運べないから、誰か迎えにきてもらえますか?……はい、ありがとうございます。では」
無線を切ると同時、留め具が限界を迎えたのか、肩口から無線機が落下した。
いったんは地面に伸ばしかけた手を、まあいいかと引っ込める。
夜明けが近づいていた。
不安定な胎動を繰り返していた空間が、今はぴたりと落ち着きを見せている。
不思議な感覚だった。世界全体が冷水に浸されているような。
だけどもその冷たさ・静謐さは決して不快ではなく、むしろ安心感を与えてくれた。まるでなにかに護られているような。
(女神が、やったのか……?)
ふらつく足を踏み出し、また一歩前へと進む。
渦巻き、錯綜する痛みに意識をもっていかれそうになる。
その中で一番リアルな痛み――痛覚の共有による痛みではなく、自身が負った肩口の傷――にすがりついて意識を保つ。裂けかけた肩は歩を進めるだけで、腕の重みによって傷口が広がっているようにも思えた。黒色なので目立たないが、上着も相当の血を吸っているだろう。
自重でちぎれつつある腕を右手で支えながら、リュートはゆっくりと進んだ。
一歩一歩が重い。少しでも気を抜けば、意識がぶつりと途切れてしまいそうだった。
さまようように伸ばした手が、木の幹に触れる。
オリーブの木だ。その幹はどっしりとしていて、生命力に満ちている。
(……ああ。やっぱり俺は無様だなぁ)
最期はあの場所に行きたかったのに。
アスラが消えたあの場所まで、自分はたどり着けそうにない。
リュートは触れた木に吸い寄せられるようにして身を寄せ、幹に背を預けて座り込んだ。
夜明けを迎えようとする濃紺の空は、紫、暁、橙あらゆる色を内に秘めていた。それぞれが遠慮がちに存在を主張する中、ひときわ目立っていたのは、顔を出しかけている黄金の輝きだった。
朝が来る。
雲ひとつない夜明け空。
(……きれいだな)
ほら。
世界はこんなにも美しい。
誰がなにをしようと関係ない。誰が明日を迎えられなくなっても関係ない。
世界は無情ともいえる崇高さで、ただ大地を広げ、空を掲げる。
だから世界は美しい。
それでいい。たとえ自分がいなくなっても、きっと、かけがえのない大切なものは残るから。
リュートは力を解除した。
空が暗闇に染まっていく。力なく投げ出された四肢はもう動かない。
……それでも。
指先に、ざらついた土の感触があった。
汗ばんだ額を風がなでていった。
涙が頰を伝うのが分かった。
こうなることは分かっていた。
分かっていたのに、今になってまた、手放したくないと思う。
でもどうだっていい。
そんなこと、明日にでも考えればいい。
光を失った目で遠くを見つめ、口の端を上げる。
「今度は一緒に、歌おうな」
薄らぐ意識が、さらにその先――無へと溶けていった。
◇ ◇ ◇
ひとりが嫌だった。
愛したかった。
愛されたかった。
どうか神様。私を創った誰か。
そんな存在がもしも本当にいるのなら。
たとえこの身がどうなろうと、どんな罰を受けたとしても。
どうかただ、愛することだけは奪わないで。
もう少しでたどり着けそうだから。
生まれたからには愛を知りたいから。
◇ ◇ ◇