5.リバースデー⑩ 完全無欠な全能
◇ ◇ ◇
……望んだものは全て得られる、完全無欠な全能に生まれたかった。
それがかなわぬなら、失敗しても取り返しがきく程度の存在でいたかった。
好きで『神』に生まれたわけじゃないのに。ただ寂しかっただけなのに。
たったひとりの、大切な誰かが欲しかっただけなのに。
◇ ◇ ◇
「っ……⁉」
横隔膜を揺さぶられるような衝撃を受け、なす術もなく身体が飛ぶ。それを受け止めてくれたのは、フラワーアーチのトンネルだった。
といってもたたきつけられたと言った方が正確で、加えて蔓薔薇が這っているものだから、露出した肌が薔薇の棘に引っかかれた。さして痛くもないが、頰に走る刺激に多少の煩わしさは覚える。
アーチの上部に半ば寝そべるような体勢から、リュートは身を起こそうともがいた。
しかしアーチ内部に突き出した足に蔓が絡まり、思った以上に身動きが取れない。
「くそっ……」
もたついていると堕神の追撃に対応できない。
そう思ってから、リュートははたと気づいた。
先ほどリュートを吹き飛ばした堕神を、引きつけている者がいる。
女の守護騎士だ。こちらが体勢の立て直しに手間取っているのを見て、囮になってくれているのだろう。
リュートは舌打ちをして、緋剣を振りかぶった。アーチの骨組みに沿って刃を滑らせ、蔓を断ち切っていく。
最後には強引に脚を引き抜き、骨組みを蹴って飛び降りる。着地もほどほどに堕神の元へと駆けだすと、ちょうど守護騎士が堕神の拳を食らって倒れたところだった。
リュートは駆ける。屋上庭園を。
屋上庭園には何度も足を運んだ。あの少女にねだられて。
(……畜生)
思い出したくもないのに、今思い出すことではないのに、場所の記憶から連鎖的に思い浮かべてしまう。
季節外れの雪に消えた、はかない笑顔を。
そしてそこからなぜか、別の顔にイメージが飛んだ。
それは母だったり友人の顔だったりしたが、どちらも表面的なものだ。本当の顔は分からない。
見たこともないその顔は、きっと傲慢さを絵に描いたようなものなのだろうと思っていた。
なのにどうしてだろう。今はそこに、消え入りそうなもろさを想像してしまうのは。
最後に交わした言葉が、妙に思い詰めているように聞こえたからか。
消えてしまった微笑みと同じに、悲壮なものを感じたからか。
もし女神に、アスラと重なる部分を感じたのなら……
(……あいつは神だ)
そして同時に、ひとつの命だ。
だけど自分は今まで、ひとつの命に向き合ったことがあったのだろうか。
神は泣かない。
神は謝罪しない。
神であるなら全知全能。
(そんなこと、一体誰が決めたんだ?)
女神に……メルビレナに覚えた憤りは、今も全く収まっていない。
だけどそこで立ち止まってしまったら、また新たな後悔を生みそうな気がして。
(俺は……俺にできることを、する)
リュートは駆けた。望む未来に、少しでも近づくために。
◇ ◇ ◇
「お前たちが求める世界をやる。だから箱庭世界には手を出すな」
《手を出スな……だト?》
堕神はいぶかしげに聞き返すと――はっと笑い声を上げた。そうできる器官が備わっていたら、唾でも吐いていただろう。
《さすがハ傲慢ナ女神トイッタところダナ。我々カラ全テを奪ってオイテ、自分ハ温情ヲ期待スルのカ⁉》
「お前たちが望むのは、私の破滅と新たな世界だろう。箱庭は関係ない」
《貴様にトッて大切な世界なラ、それだケで壊す価値ガある!》
「では取引だ」
メルビレナはあくまで自分のペースを崩さず、手札を出した。
「箱庭世界を壊すというのであれば、生命もそうでないものもひっくるめて、一切合切全てを無に帰す。当然私もお前たちもだ」
《今ノ貴様にそンな力などなイ!》
「どうかな。全てのものは因果律でつながっている。取捨選択なく、因果律そのものを消し去るのであれば、ゼロに戻すことなど造作もない……とまではいかないが、可能だ」
笑みを浮かべ、旋律を奏でるように指を動かす。創り出したもの全てを、自分も巻き込み無に還すという行為は、考えただけでもぞくぞくするものを感じさせてくれた。ただしそれは、決してやらないからこそ感じられる、禁忌的な快楽だ。
「それが嫌であるならば、箱庭には手を出さず、新たな世界を受け入れて生まれ直せ」
《……我々にとっテ貴様は魔王ダ。どれだケ憎ンでも、恨みヲぶつけテも足りない。だかラせめて貴様を、貴様ノ創った世界ゴと滅ぼしたい。我々にハ、ヒトとしての新シい世界を。魔王には滅ビを。そレが我々の望みだ》
一言一言嚙みしめるように、自らの心を確認するかのように、堕神が言葉をつむぐ。
《世界をやルから見逃しテくれだナんて戯言、誰が聞くモのか》
「誰が命乞いなどした?」
《なニ?》
「お前たちが箱庭を壊さないと誓うなら、私は全てを投げ出してもいい。おとなしく殺されもしよう。だが、箱庭だけは譲れない」
膝を突き、手のひらを突く。つまらないプライドなどいらない。
それが必要であるならば、コンマ1秒すら迷わず、這いつくばって土下座する。あいつはそう言っていた。
「お願いだ。箱庭を、必死に護ろうとしている者たちがいる。私は彼らに報いたい」
《貴様ガ、報いルだと?》
上から降りてくる声は、かすかに揺れていた。まるで、見るとは思わなかったものに遭遇しているかのように。
額を地面すれすれに近づけたまま、メルビレナは続ける。
「私は間違っていた。今更お前たちに返せるものもない。だけど私の命と、新たな世界は与えてやれる。だから――お願いだ」
《……本当に、我々ハ生まれ直せるノか? ヒトとして生きラれるのか?》
「ああ」
メルビレナは顔を上げ、堕神の《眼》を見つめて断言した。
「お前たちは未来を生きる」
◇ ◇ ◇