5.リバースデー③ 神は約束を違えたりはしない。
女神がどうとでもなさげに片手を振る。
それが合図だったのだろう。テスターの背後から、がらがらと車輪が回るような音が近づいてくる。
振り返ると、大きな荷台を、アシスタントがふたりがかりで押し進めていた。荷台の上には例の放浪石が、アタラクシアで見た形のままどでんと居座っている。
荷台が女神に向かって進むのと入れ違いに、守護騎士らが女神から離れる。放浪石の渡元に、巻き込まれないようにするためだ。
と、フリストがかがみ、足元の箱から金属製の物質を取り出した。ヘッドギアと腕輪のように見えるそれらを抱え、フリストは女神の元へと近づいた。
女神はその場から動かず、なにも言わずにただフリストを待つ。目の前まで来たフリストが恭しく辞儀をすると、彼女は優雅に腕を差し出した。
一見不思議な光景だった。まだ幼さの残る少女に長身の少年がかしずき、その身に不釣り合いな装備を取りつけている。
器具を全て着け終えると、女神はヘッドギアからのぞく目を細めた。
「貴様が初めてだな」
「え?」
「私に、このような武骨な物を身に着けさせたのは」
言われてフリストが、かわいそうなくらいまごつきだした。
「も、申し訳ありません。デザインを検討する余裕がなくて……」
「構わぬ。かつてないことをするなら、かつてない装いをするのも悪くない」
具合を確かめるようにヘッドギアに手を添え、女神。
言葉通り捉えたわけではないだろうが、それでも多少の緊張はほぐれたのだろうか。リモコンでの調整を終えた後、フリストがおずおずと声を上げる。
「……女神様」
「なんだ?」
「計算は確実です。何度も検算しました。放浪石の渡元軌跡は、数か月は残存するでしょう。もし女神様の消耗が激しくとも、それをたどればこちらへ戻ってくることは可能です……ですが、それでも……万が一――」
「何度も言わせるな。神は約束を違えたりはしない。世界は終わらず未来を刻む」
女神は断言し、手のひらをフリストに向けた。
「もう下がれ。でないと貴様も巻き込まれるぞ」
「……はい。無事のご帰還を祈っております」
フリストが下がり、片膝を突いて頭を下げる。示し合わせたかのように、守護騎士たちも片膝を突いた。
テスターも同様に倣いながら、内心驚いていた。隣のセラもまた、女神に拝跪しているのを見て。ただ形式でひざまずいているのではなく、真摯に頭を垂れているように見えた。
そのことに思いを巡らす前に、変化が現れた。
五感ではなく、身体に組み込まれた因子ひとつひとつが感じ取る違和感。空間のざわつき。
(次元の歪曲)
幻出とまごうほどに似通った感覚だが、ひとつ明確な違いがあった。
それは、歪曲がこちら側から生じていること。
テスターは立ち上がって放浪石を見やった。
石を中心として、急速にゆがみが進んでいる。そのゆがみは、そばに立つ須藤明美の身体を巻き込んでいく。
放浪石の影響を受けるのは、他次元にも存在感をもつものだけ。故に地球人に影響はない。須藤明美を例外として。
明美は女神と同化しているため、ふたつの存在感を内包している。そのため放浪石の渡元に女神の存在感が反応した際、明美ももろともに巻き込まれてしまうだろうというのが、研究チームの見解だった。
それを利用すると同時にリスク回避の目的で作られたのが、フリスト考案の、変動係数を応用した疑似質量調整装置だ。歪曲に巻き込まれた際の反応のずれから、明美と女神の存在感を引き離し、女神だけを元始世界に飛ばすというものらしい。
といってもあくまで理論上の話で、本番それ自体が臨床試験のようなものだ。それらの説明を受けた上で了解してくれた明美には感謝しかない。
(その厚意には全力で応じなきゃな)
ゆがみがいっそう強くなる。
傍目からは見えない圧を感じるのか、女神がわずかに顔をしかめる。次の瞬間にはその顔がぶれた。
「⁉ だめ、須藤明美まで持っていかれる!」
「大丈夫だ」
セラの焦りをフリストがとどめる。それを合図としたかのように、明美の全身が揺らいで別の輪郭を描き出し、明美自身と分離した。
「あれはっ……」
小さな身体からの解放を喜ぶかのように、白い四肢がすらりと伸びる。孤高を積み重ねてきた切れ長の目が、厳しいまなざしでこちらを見た。長い金髪は、風任せの稲穂群のようにのびやかに揺れている。
そのどれもが須臾の拝謁だった。
「では始める」
永劫の時を経たしがらみを断ち切るため、女神は箱庭世界から消失した。
◇ ◇ ◇