4.死中求生② 護ってよ。
◇ ◇ ◇
「ほとんど見えないんだ。力を使ってる時は見えるけど」
言うリュートの顔は淡泊で、事態の深刻さに全く見合っていなかった。
その横顔を隣で見ながら、尋ねる。
「……どうして言ってくれなかったの?」
「確かに、報告すべきだったな。今じゃ俺そのものが、研究対象みたいなもんだし。堕神の対処にも影響が――」
「違う、義務とかそういうことじゃなくて!」
セラはバッと立ち上がり、リュートの前へと回り込んだ。覇気のない顔がこちらを見上げる。
「兄妹でしょ⁉ テスター君だって親友じゃない! なんで私たちに黙ってたのよ⁉」
「悪い……なんとなく、言い出せなくて」
リュートはわびながら、手元の懐中時計に目を落とした。文字盤周りの細かな細工など見えてはいないはずだが、それをなでる彼の目はいとおしげだった。何度も見て触れて、指先に伝わる感触から時計の細部までも『視える』ようになっているのだろう。
「なんで……お兄ちゃんばっかり……」
崩れ落ちるようにして、その場にへたり込む。
理不尽だった。不公平だった。
「どうして……」
振り上げた拳が、ローテーブルの角を打つ。走った鈍痛など、兄の抱える痛みに比べれば、蚊に刺されるようなものだ。
「どうしてよ⁉ 私はなにもできないのっ⁉」
どうして、どうしてと、何度も拳を振り下ろす。
どうして兄がこんな目に遭わなければならないのか。
どうして自分は兄の痛みを肩代わりできないのか。
どうして世界は理不尽なのか。
「どうし――」
「やめろよ」
実際にやめたのは、言葉に従ったからではなかった。
身を乗り出した兄がこちらの腕をつかみ損ねて、なんとかつかんだ制服の裾。それを振り払うことができなかったからだ。
「そんなことしたら、痛いだろ」
誰よりも痛みを知っている青年は、そう言って優しく微笑んだ。
「お兄ちゃっ……」
「大丈夫。俺は大丈夫だから」
「どうし、て……」
全てを包み込むような優しい言葉が、余計にセラを突き落とした。
◇ ◇ ◇
靴底が運動場の砂利を擦り、素っ気なく乾いた音が耳に届く。空気までもが乾いたグラウンドは、昼間だというのにどこか物寂しい。
……それとも。
(彼がいるから、勝手に気後れを感じているだけなのか)
まさかそんなことはないと、胸中で頭を振る。
身を包むローブは厚手ではあったが、本格的な寒気を遮るには不十分だった。こんな時は、デザインした際に防寒という観点を軽視したことを、少し後悔する。当時はそんな瑣末なことに注意など払えず、地球人の文化資料から適当に見繕うしかなかったのは事実だが……寒さに身震いする学長など、訓練生たちには見せられない。
(次にデザインを一新する機会があれば、もう少し厚めに作るか)
そんなどうでもいいことまで考えてしまったのは、目的の場所に先客がいて、足が止まってしまったからだ。
「……じゃあねお兄ちゃん。なにかあったらすぐ呼んでね」
クラブ棟の前で気遣わしげに扉を閉めた少女が、反転しながらため息をつく。しかし顔を上げてこちらの存在に気づくと、表情をきつく引き締めた。
セシルはその場で、彼女――セラが歩いてくるのを待った。こちらからいっときも視線を外さぬまま近づいてきたセラに、尋ねる。
「彼の様子は?」
セラはぎらついたまなざしで見上げてきた。
「視力を失いかけてるわ。お膳立てされた使命のおかげでね」
「選んだのは彼だ。それに彼なら、どんな苦痛にも耐えられよう。幼いころから日常的に――」
「ふざけないで」
汚らわしいものを見るかのように、セラが目元をひくつかせる。
「自分の子どもを散々傷つけておいて、まさか見事な手回しとでも言いたいわけ? そんなのなんら美談にはならないし、私はあなたを軽蔑するわ。女神とふたりでお兄ちゃんを陥れて! アスラだって、あなたたちが殺したようなものじゃない!」
「女神様は、リュートに贖罪の機会を与えたのだ」
「贖罪? お兄ちゃんがなにしたって言うのよ」
「彼であって彼ではない。リュートへと連なる魂が、かつて女神様を裏切った。その贖罪だ。詳しいことは私も知らない。僕ごときが知ることではない」
セシルの回答は、セラの怒りを憤激にまで高めたようだった。
いや、それだけではない。怒り、悲しみ、軽蔑、あきれ……同時多発的に発生したさまざまな感情がぶつかり合い、彼女のひとつきりの顔を複雑に支配していた。そして同じくひとつきりの口を取り合っているのか、発する言葉は狭窄したような呼吸音にしかなっていない。
続いて荒ぶった吐息を出してから、セラはようやく意味ある言葉を発した。
「そんな馬鹿げた理由でっ……」
「馬鹿げてるかどうかは女神様が決められることだ。たとえ馬鹿げていたとしても、理由などもはや意味もない。彼がいなければ女神様もこの世界も護れない。今はただ、その事実があるだけだ」
滔々と告げ、憎々しげにこちらを見る目を見返す。思い返してみれば、娘が純粋な笑顔を向けてくれたことなど、十数年前が最後だ。
セラは歯ぎしりでもするように口を引き結ぶと、うつむき――
跳ねるように顔を上げて、こちらの胸倉をつかんできた。
無論よけることなど容易だった。しかしあえてなすがままに、セシルは後の展開を待つ。
「……護ってよ」
セラが弱々しくつぶやく。その言葉で自身の弾みがついたのか、続く言葉は貫くような芯をもっていた。
「護ってよ! そんな非道が女神のためにまかり通るなら……それを貫かなければいけないのなら……みんなを護るお兄ちゃんを、絶対に護ってよっ!」
彼女は怒り狂っていた。それは確実だった。
しかし怒りを示したところで、どうにもならないと痛感しているのだろう。懇願するように、整った顔をくしゃくしゃにしていた。
「絶対に……護ってよ!」
どん! と突き飛ばすようにして手を離し、セラは立ち去った。
見送ることもせず、セシルはただ前方のクラブ棟を見つめた。数呼吸ほどおいて、足を踏み出そうとすると。
「リュートの様子を見に来られたんですか?」
背後からかけられた声に、セシルは振り返った。砂利の敷かれたグラウンドで音もなく近寄ってきた少年は、きらびやかな橙髪を揺らして会釈した。
ほぼ自明のような問いに答えるのも無意味だろうが、セシルは「ああ」と返した。
(もしかして私は、時間を稼いでいるのか?)
そう思うほどに、今の自分はぐずついていた。なにかにつけて理由を探し、足は結局動いていない。
セシルに話を切り上げる気配がないことを察したのか、テスターはあくまで世間話の延長線で続けてきた。
「そういえばずっと気になってたんですけど、なんで俺じゃなくてリュートなんですか? 俺の方がうまくやれるのに」
「それが女神様のご判断だからだ」
「そうですか……あーあ、悔しいなあ。俺だってバシバシ活躍したいのに。俺もあいつと同じ力が欲しいですよ」
「無理だな。その力をもてるのは、鬼子を喰った彼だけだ」
「それは残念」
申し訳程度に肩をすくめるテスターだったが、顔にはそれ以上の落胆が浮かんでいた。そして、
「俺たちってなんなんでしょう」
彼の口からするりと出てきた問いは空虚で、なんの感情も含んでいなかった。
しかしそれは恐らく、無関心から来るものではない。むしろその逆で、何度も自問し研磨され、最終的にたどり着いた淡泊さのように思えた。
「求められているから、必要だから、自明の使命だから堕神を狩る。じゃあもし堕神がいなくなったら、俺たち神僕にはなにが残るんですかね?」
堕神がいるからこそ、神僕の存在が成り立っている。
それは突き詰めてはいけない皮肉だった。
「それでも我々は、堕神を滅ぼさなければいけないのだ」
長であるならば、返すべき言葉は決まっている。それはありがたいことかもしれなかった。
セシルはテスターとすれ違うようにして足を踏み出した。クラブ棟とは反対の方向へ。
「寄っていかれないんですか?」
「気が冷めた。どのみち君が見てくれるなら、私が気にすることもあるまい」
振り向きはせず、手ぶりで後は頼むと示す。
グラウンドの空気はどこまでも乾いていた。
◇ ◇ ◇




