4.死中求生① どうして心がかき乱されるのだろうか。
◇ ◇ ◇
ようやく。ようやくだ。
永い時を経て、ようやく復讐が果たされる。
なのになぜだろう。
どうして心がかき乱されるのだろうか。
◇ ◇ ◇
堕神が初めて顕現した日から、2カ月近くが過ぎた。
当初は未曽有の出来事に恐れおののいた神僕たちであったが、対処の術――それも堕神殲滅が可能な術があると判明してからは、次第に落ち着きを取り戻していった。
顕現により誰かが命を落とすことはなく、地道に着実に堕神を追い詰めている。
だけど確実にすり減っているものはあって。
(お兄ちゃん……)
セラはクラブ棟の前で足を止めた。手に提げた差し入れのビニール袋が、がさりと鳴る。
クラブ棟の空き部屋は顕現数が増えて以降、リュート専用の休憩室として提供されていた。しかし最近では休憩室というよりほぼ居室状態で、テスターいわく寮室の方にはほとんど戻っていないという。
最近はセラの方も、リュートとはろくに会っていない。カートリッジ作製などアシスタントとしての補助作業は、自分でやるからと拒否されるし、顕現現場に様子を見に行くのも、気が散って困るとかで嫌がられる。
ではそれ以外の時間帯でとなると、もし仮眠を取っているのなら、貴重な睡眠時間の邪魔をしたくないという思いがはたらく。
加えて、以前から調べている精錬世界や神僕の史実については、なにも進展が見られない。自分は本当に、なにひとつとして生産的なことができていない――ただの無能であるという事実が、会いに行くのだという決心を鈍らせる。
だから今回もだいぶ迷ったのだが、心配が勝りここまでやって来たというわけだ。
意を決しようとぐずぐずしているうちに、背後から足音が近づいてきた。
「やっほー」
「ツクバ先輩。お疲れさまです」
振り向き、挨拶をする。ツクバはこちらの隣に立つと、数メートル先の扉に目を向けた。
「リューの様子を見に来たの?」
「はい。あの、リュート様は……?」
「元気よ――って言えたらいいんだけど」
肩をすくめるツクバ。
「よく分からないけど……あの子、難儀な能力をもらっちゃったのね」
「難儀過ぎます。どうしてリュート様がこんな目に」
「どうしてかしら。でもリューにしかできないことだから、あの子がやるしかないのは確かね」
「そんなの、言い訳じみてて反吐が出ます」
「でも実際顕現に関して、あたしたちはなにもできないでしょ?」
「それは……」
口ごもる。
「なにしょぼくれてんのよ」
ぱしんと背中をたたかれ、セラはうつむけていた顔を上げた。
ツクバは明るく指を立て、
「だからこそ、あたしたちにできることがあるのなら、食いついてでもやりとげなきゃ」
「そう……ですね」
最悪な状態だろうと、投げ出すわけにはいかない。やれることをやって耐え抜く。それしかない。
「じゃ、リューによろしくね」
研究会室に消えるツクバと別れ、右端にある扉の前へと立った。扉にはゴシック体で『顕現待機室』と印字された、間に合わせのA4用紙が貼られている。
ノックをするが返事はない。
逡巡した後、セラはドアノブを回した。
中に見えたのは、六畳一間ほどの空間だった。仮眠用の簡易ベッドやローテーブルがあり、奥の棚には増血剤の瓶とカートリッジが大量に並べられている。床に敷かれた畳の上には、ガラクタにしか見えない物体が、無造作に積まれていた。目をすがめて見ると、『残魂研究会寄贈』『疑似質量応用科学研究会寄贈』などと書かれたシールが貼られているようだった。
必要な物以外は投げやりなスタイルの部屋。その中で、これだけはこだわりをもって配されていると思われるのが、真正面の壁に飾られた二枚の額縁だった。
額縁にはそれぞれ、オリーブの木を描いた色鉛筆画と、少年少女の集合写真が収められている。今はもういない少女の笑顔を写真に捉え、セラは胸に痛みを覚えた。
「お兄ちゃん……?」
側面の壁にもたれて座っている、黒髪の少年へと呼びかける。小声だったのは、彼が寝ているかもと思ったからだ。兄は立てた片膝に肘を預け、静かに目を閉じていた。
が、兄は一呼吸ほど遅れたものの、さして間も空けずにこちらを振り向いた。
「セラ?」
穏やかな瞳に許可を得たような安堵を覚え、セラはブーツを脱いで室内へと上がった。
「差し入れ。疲れてる時はやっぱ糖分よね」
大袈裟に袋を見せつけ、ローテーブルの上へと置く。兄の隣に腰を下ろしながら、セラは床のがらくたに顎をしゃくった。
「あれはツクバ先輩とフリスト先輩から?」
「ああ。オリジナル健康グッズだって」
「効くの?」
「全然」
苦笑するリュート。セラもつられて笑った。
ここに来る前は、久々にどう話せばいいのか悩んだものだ。しかしいざ口を開けば、案外話は弾むではないか。
セラは調子づいて、冗談交じりに説教を始めた。
「お兄ちゃんってば、最近ここにばっか入り浸ってるでしょ。精神衛生上良くないわよ、そういうの」
「ここからの方が、顕現現場に行きやすいんだよ」
「そういうことを言ってるんじゃないわ。自分の部屋に帰るってことが大事なの。当たり前の繰り返しって、結構重要よ」
「アスラも同じようなこと言ってたな」
リュートは薄く笑みを浮かべ、懐へと手を伸ばした。と――
「っ――⁉」
リュートの温和な表情に亀裂が生じる。
「お兄ちゃん……?」
「ないっ……懐中時計が……」
兄は絶望的な声を上げて、衣服をまさぐり始めた。
「そんな、あれがないと俺っ……」
顔面蒼白のリュートを見て、がつんと殴られたような衝撃を覚える。
(私の目は節穴なの……?)
最悪だ。
穏やかな瞳? 苦笑? なに都合のいい解釈をしているのか。
兄はただ生気がないだけだ。
幾百と殺してそして死に続けて、精神をすり減らして。
それでもぷつりと切れてしまいそうな細い糸にすがり、ギリギリのところで耐えているだけなのだ。
その細い糸が、アスラの遺した懐中時計なのだ。
「あれだけなのに……あれだけが俺をっ……」
リュートはついには腰を浮かせて、手当たり次第に手を伸ばし始める。その背中はひどく頼りなく小さくて、一押しすれば倒れてしまいそうなほど弱々しく見えた。
「お兄ちゃん!」
部屋を見回したセラは、慌ててリュートを制止した。
「大丈夫、落ち着いて。懐中時計はそこにあるから」
ローテーブルの下を指さす。そこにはアンティーク調の懐中時計が落ちていた。
「ああ、よかった……」
リュートは安心したように手を伸ばし――
その手が、すかっと空をつかんだ。懐中時計はつかめずに。
ぞわっと、嫌な予感が駆け抜ける。
兄の目は懐中時計の方を向いてはいたが、どこか焦点が定まっていなかった。
二度三度の空振りを経てようやく、リュートの手は懐中時計をつかんだ。
「お兄ちゃん……?」
思い知る。
自分の目は、やはり節穴なのだと。
最悪なんて、迂闊に吐いていい言葉ではないのだと。
「まさか……目が、見えないの……?」
悪いことは、常に更新されていくのだから。
◇ ◇ ◇




