2.絶遠六花⑤ だったらあたしも選ぶよ。
◇ ◇ ◇
「幻出……特殊第一運動場か?」
座標を特定してアスレチックから飛び降りるも、リュートはその場から動かなかった。正規の守護騎士に任せればいいというのが一番の理由だが、そうでなくても、今アスラから離れるわけにはいかない気がしたのだ。
彼女はたぶん、なにか大事なことを伝えようとしている。
アスラはナイフを持て余すようにいじりながら、目だけはこちらを注視してきた。
「違うよリュー君。幻出じゃない」
「幻出じゃ……ない?」
「この感じ、分からない?」
言われてリュートは座標を探った。
(別に普段と違う感じは……いや?)
ゆがみのレベルが、いつもより深い。
「まさか――」
「顕現だよ」
告げられた解答に絶句する。
ずっと危惧されてきた可能性だった。
その重要性も心に刻んでいたつもりだった。
でも心のどこかでは、『ただの可能性』にすぎなかった。
「な……なんで顕現するんだ⁉」
動揺につられ、アスラへと一歩踏み出すリュート。彼女は平然と答えた。
「可能性なんていくらでもあるよ。堕神の力が増すとか、逆にメルちゃんの力が弱まるとか……でも一番有り得る可能性は、メルちゃんがあえて、この近辺の護りを弱めたことかな」
「そんなこと女神がするはずないだろ! 万が一地球人に被害が及べば、あいつは力を失うんだぞ⁉」
「でもその代わり、堕神を滅ぼすチャンスを得られる」
ぞくりとするくらい無機質な声。
「なに……?」
骨に直接刃を当てられたような不快さに顔をゆがめながら、リュートは聞き返した。
「顕現した堕神は滅殺することができる。メルちゃんはずっと、この時を待ってたんだよ」
「女神が? そんな馬鹿な。だったらなんであいつは、それを神僕に黙ってた?」
「ちっぽけでさみしくて、残酷なくらいあたしたちを振り回す恋心……でもどうしてだか、あたしはそれを憎みきれないの」
答えになっていないことを独白するように吐き出し、アスラはふっと笑みを浮かべた。それは駄々っ子を前に優しく微笑む、母親のそれだった。
かき乱された思考が落ち着くと、自然反論も浮かんでくる。リュートは静かに言った。
「……たとえ顕現したって、ここは神僕の拠点だ。遅れはとらない」
幻出だろうが顕現だろうが、神僕は役目を果たす。それが真実だ。すでに対処済みの報告音もスマートフォンが着信している。いくら顕現しようが、飛んで火に入る夏の虫。いざとなれば総力でもって力押しだ。
(……女神にいいように使われるってのは、やっぱ癪ではあるけどな)
リュートが思ったその時、スマートフォンに着信があった。
『強制伝達です』という電子音声の後、胸ポケットに入ったそれから声が流れてくる。
「こ、こちら特一の対処員! 顕現だ! しかも緋剣が効かないっ!」
悲鳴じみた声に、リュートは再び言葉を失った。
「そうだよね、驚くよね。だって顕現なんて初めてなんだから、緋剣が効かないなんてことも、想定外だよね」
リュートの思いを代弁するように、アスラが言う。
「どういうことだ⁉ なんで緋剣が効かない⁉」
ようやく思考の停止から脱し、リュートはアスラへと詰め寄った。
「顕現した堕神は、自らの意思で透過対象を選べる。この世界の武器はもちろん、神僕の緋剣だって透過できるんだよ」
顕現したなら、なんとしてでも排除しなければならない。
なのにその術が通用しない。
「そんなの……どうやって排除しろっていうんだ」
呆然とつぶやき、後ずさりする。
「……リュー君がみんなを――地球人や神僕を助けたいなら、方法はあるよ」
今度はアスラが距離を詰めてきた。
ゆっくりと、確かめるように。
「堕神はね、同じ堕神の力を透過できないの。だからあたしがリュー君に力を貸せば、リュー君は堕神を狩ることができる――ううん。正しくは、滅殺できるし、しなければならない。顕現した堕神を殺さずに排除することはできないから」
それは神僕にとって是が非でも飛びつくべき言葉だった。
だけどそれはつまり――
リュートの逡巡をアスラがつなぐ。
「でもそれはあたしには悲しいことだし、あたしにとってもリュー君にとっても、取り返しのつかないことになる選択。リュー君はきっとつらくなる。つらくて苦しくて、あたしを恨むかもしれない……それでもリュー君は、その方法を選ぶ?」
あくまで優しい物言いで、どちらでも構わないと余地を残すアスラ。
彼女は示した。次はリュートが動かなければならない。
(アスラの力を借りれば、彼女に仲間殺しを手伝わせることになる。そして俺は堕神を殺さなければならない……)
神僕なら女神のため、地球人を護るべきだ。
(いや違う。そうじゃない)
リュートは一度決めたのだ。自分の意志で地球人を護ると。役割であると同時に、自分の意志なのだと。
決めたからには、役割という言葉だけに逃げられない。
この選択は自分の責任だ。
リュートはアスラをひたと見据えた。
「地球人を傷つけるわけにはいかない。そんな場面は見たくない。俺にできることがあるなら、やりたい……俺に力を貸してくれ」
その言葉にアスラは――柔和な笑みを浮かべた。
「だったらあたしも選ぶよ。たとえ裏切り者になったとしても……あたしは、リュー君とこの世界を選ぶ」
折りたたみナイフの刃を出し、アスラがリュートの左手を持ち上げる。
「ごめんね、ちょっと痛いよ」
そう言って彼女は、親指以外の指四本の腹を、ナイフで一息に裂いた。
「っ……」
電気が走ったような感覚の後、血があふれ出す。
アスラはそれを見届けると、ナイフを左手に持ち替え、自分の右手を同様に傷つけた。
「手、合わせて」
言われるがまま、アスラの上げた右手のひらに、自分の左手のひらを合わせる。
互いの傷口が接し、血が混じり合う。
「リュー君はあたしにたくさんくれた。今度はあたしがリュー君にあげるね」
アスラが目を閉じる。そして――
「――っ⁉」
傷口を介して、なにかが身体に流れ込んでくる。
鋭利ななにかが血管内を、内側からこそぎ落としながら巡っているかのようだ。
身もだえしたくなるような痛みにうめいていると、アスラからも小さなうめき声が聞こえてきた。
「アスラっ、大丈夫か⁉」
「大丈夫……」
合わせていたふたつの手に、アスラが左手を添える。
やがて痛みが落ち着いたころ、彼女は手を離した。浅い呼吸を繰り返しながら、
「今、リュー君とあたしは、存在を共有してる……リュー君の血はあたしの血。あたしの力はリュー君の力……顕現した堕神だって斬れる」
「ありがとう」
一言に感謝を込め、リュートは腰の緋剣に触れた。
「俺、行かないと……アスラは、大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
アスラは答えた。一片の曇りもない笑みを浮かべて。
「あたしはここにいるから。絶対戻ってきてね」
「分かった」
リュートは応じ、顕現した堕神の元へと駆けだした。
◇ ◇ ◇