2.絶遠六花① この穏やかな時間が心地いい。
◇ ◇ ◇
雪は憧れのひとつだった。
知識としては知っていたし、経験したという記憶もあった。
だからこそ生の、本当に自分だけの記憶が欲しかった。
一面の雪の絨毯に手を突っ込んだら、どれほど冷たいのか。
手のひらに載った雪は、どれほどあっけなく溶け消えるのか。
生身で体験するほど、あの人と時間を共有できる気がした。
だから――
◇ ◇ ◇
塔屋を出たら、広がっていたのは英国庭園風の庭だった。
世界守衛機関本部棟の、屋上の一角を利用して造られた薔薇園。小まめに手入れされた庭は、ここら一帯の施設内において唯一、地球人に自慢できるかもしれない娯楽要素だった。
あいにく空は曇っていたが、雨を控えた重く冷えた空気は、それはそれで悪くなかった。ともすればどこかへ飛んでいきそうな気力を、どっしりと地につなぎ留めてくれる気がして。
「えっへへ~。リュー君と写生だぁ♪」
隣でアスラが、ウキウキとはしゃぐ。
リュートはふたり分の画材を抱え歩きながら、心配半分微笑ましさ半分で笑いかけた。
「大丈夫か? 無理するなよ?」
「大丈夫だよっ。ぶい♪」
満面の笑みでピースサインを返してくるアスラ。
庭園入り口から二股に分かれた道には、ガーデンアーチが連なっている。アスラはアーチの下を進みながら、思案げに顔を傾けさせた。
「なに描こっかなー。ほんとは薔薇を描こうと思ってたんだけど、ちょっと今は物寂しいし……」
「四季咲きの品種があるとはいえ、秋の見頃にはまだ早いからな」
リュートはアーチを見上げて告げた。初夏には華やかな薔薇のトンネルとなるアーチだが、今はアスラの言う通り、やや寂しい感がある。
と、アスラが目を丸くしてこちらを見てきた。
「へえ、なんか意外っ。リュー君お花のこと詳しいんだ?」
「たまたまだよ。罰則で、屋上庭園の手入れをちょくちょく手伝わされてるから」
「なあんだ。それならやっぱり、リュー君らしいね」
「なんだよそれ」
軽く口をとがらすと、アスラはあははと笑って舌を出した。
「んー。でもほんと、なに描こっかなぁ」
「ベンチから見えるものを選んだらどうだ? 描きやすい環境も大事だろ?」
「そうだね、そうかな? うんそうかも! ありがとリュー君♪」
にかっと言うなり、とててててっと一足先にアーチを抜け出て、アスラは周囲を見渡した。遅れて追いついたリュートも、釣られるようにして視線を滑らせる。
一方の道の先には、4区画に分けられた薔薇園。品種や色で植え分けされているが、やはり今はぱっとしない。
もう一方の道は、円形に組まれたデッキへと続いている。デッキは庭園を見晴らせる位置にあり、そこからなら庭園隅のバーゴラにだって目が届くだろう。ただしその分、一点注視というよりは風景を描く構図になりがちだ。
「じゃあねえっと……あれかな!」
迷った末にアスラが指さしたのは、デッキの向こうにある大樹だった。
「オリーブの木?」
「うんっ。あの木なら近くにベンチあるし、じっくり時間かけても疲れなさそう」
「じゃあ決まりだな」
ふたりしてデッキまで行き、木と対面した向きのベンチを選んで腰掛ける。
アスラはリュートから画材を受け取ると、早速写生に取りかかった。
「にしても立派な木だよねえ。本部棟建設の際に植樹されたんだっけ。樹齢何年なんだろ」
「確か300年ほどだったかな」
「ふぇ~」
答えるリュートにアスラは感心の声を上げ、
「300年も生きたんだ。すごいねえ。これからも元気にね!」
オリーブの木に向かって手を振った。
「なんだよその励ましは」
リュートは吹き出し、自身も画板に鉛筆を走らせ始めた。
しばらくは、鉛筆が線を引く音だけが続き、やがて物足りなくなったのか、アスラが歌を口ずさみ始めた。
以前聴いた、明日を歌う曲だ。どうやら彼女の中では、この曲が一番のお気に入りらしい。
ささやくような歌声は、我慢できないとでもいうように、次第に大きくなっていた。
リュートは伸びやかな歌声に耳を傾け――
「あれ? 今リュー君一緒に歌ってた?」
「いや」
きょとんとこちらを向くアスラに、慌てて否定の言葉を返す。
「もう、照れなくたっていいのにぃ♪ 一緒に歌おうよー」
「だから俺は歌苦手なんだって」
からかうように額をつついてくるアスラの指をのけ、リュートは写生作業へと戻った。
「ちぇっ」
かわいらしい舌打ちをして、アスラも写生へと戻る。
再度流れ始めた歌に聴き入りながら、リュートは顔を上向けた。
湿った風が前髪をなでる。
穏やかな……安らげる時間だった。
にぎやかな学校生活が嫌いなわけではない。
だけど今は、この穏やかな時間が心地いい。
リュートは願った。
アスラが笑顔で明日を迎えられる。
そんな毎日が続きますように。
◇ ◇ ◇