1.怨嗟胎動⑧ 神は崇高にして孤高
◇ ◇ ◇
堕神から吹き出す体液を避けようと、僕が堕神を蹴って身をよじる。引き抜いた緋剣を苦し紛れにかざしているが、あれでは完全な回避は無理だろう。
僕は堕神を蹴った体勢そのままに、水しぶきを上げて川へと落ちる。そういえば堕神にとどめを刺す前、一撃を受けているようにも見えた。受け身を取る余裕がないのかもしれない。堕神の方は着水前に、この世界から排除され消え去った。
「お兄――リュート様っ!」
神僕の娘が悲鳴を上げ、草をかき分け駆けていく。張られたロープと立ち入り禁止の看板も、今の彼女にはどうでもいいらしい。看板を素通りし、ロープをまたいで川岸に向かって下りていく。
メルビレナはゆっくりとした足取りで、彼女の後を追った。無論、従僕の安否を気遣ってのことではない。気になることがあったのだ。
「滑らないよう気をつけてください」
3人目の従僕が、そばに控えるようにして付いてくるが、
「私はそこまで愚鈍ではない」
手で押しやって、メルビレナは一歩一歩危なげなく下りていった。
川岸に下り立った娘が、つま先立ちで右往左往している。その場で待つべきか川に飛び込んで助けに行くべきか、迷っているのだろう。
そうこうしているうちに水音を立てて、従僕が水面から顔を出した。そしてぎこちなくはあるものの自力で浅瀬まで泳いでくると、水を滴らせながら立ち上がった。
ずぶ濡れの神僕はひどく惨めだった。緋剣を収める右腕が小刻みに震えているのは、堕神の体液でも浴びたせいだろう。左の脇腹と右脚も負傷したらしく、制服が血でにじんでいる。川の水を吸ったせいでいっそう派手な出血に見えた。
「お兄ちゃん、大丈夫⁉」
駆け寄ってきたセラに支えられると、リュートは力尽きたように膝を折った。
「今のはなんだ?」
その問いかけでようやく、メルビレナが接近していたことに気づいたらしい。セラの肩を借りながらこちらをにらみ上げてくるリュートに、メルビレナは繰り返した。
「今のはなんなのだ? 貴様はなにと戦った?」
眉をひそめるセラ。しかし対峙した当人であるリュートは、分からぬわけがないだろう。この問いの意味を。
(今の堕神は、回帰形態だったように感じた……)
もしリュートが戦ったのが、回帰形態の堕神だったのなら……
しかし愚かな青年は吐き捨てるように視線をそらし、恐らくはわざと的外れな答えを返してきた。
「今のは、お前が殺してきた幾億万人のうちのひとりだ。お前に怒り、絶望し、嘆いて死んだ男の魂だ」
彼の言葉に込められた怒りなど、無視すればよかった。数ある神僕のうちのたったひとり――それも大して役にも立たない僕の意見など、女神が気にすることではない。
だけど口から出てきたのは、まるで言い訳のような言葉。
「滅びを重ねるほど、より強い転化が期待できた。それが一番効率がよかった。だから――」
「やめろ」
なんの力ももたないはずの一言が、メルビレナの口を縫いつける。再びこちらに向けられたまなざしは、氷のように冷たかった。
「それ以上聞いたら……俺がお前を殺したくなる」
傍目にも分かるほど、身体を硬くして衝動を自制している。その姿は斬る機会を与えられぬまま、ただひたすらに研ぎ澄まされた妖刀を彷彿とさせた。斬りたくて斬りたくてたまらないのに、それが許されない。放つ先がないのに、憎悪だけが蓄積されていく。
「たかだか僕が不遜なことを」
メルビレナは鼻で笑った。たぶん言うべき言葉はこれではない。
けれどもメルビレナは貫いた。
「私が寛容であることに感謝するがいい。でなければ、セシルに貴様を殺させるところだ」
「そうかよ」
ぐ……と、なにかに耐えるように、リュートが唇を嚙みしめる。
彼はセラから離れると、ひとりで歩き始めた。一歩一歩がおぼつかないが、確固たる意思を感じた。こんな場所には――女神がいる場所には、1秒たりとていたくもないと。
「本当に貴様は弱いな。少しはルームメートを見習ったらどうだ?」
他に言うべき言葉はあったかもしれない。だけど今更遅過ぎた。
リュートはメルビレナの前まで来ると、立ち止まってこちらをねめつけ、
「……よく分かったよ。歩み寄りなんて、お前には無理だってことが。結局どこまでいったってお前は……嘘にまみれた、ひとりぼっちの神様だ」
顔を背け、唾棄して横を通り過ぎていった。
「リュート様待ってください! ひとりじゃ危ないです!」
セラがリュートの後を追い、追いかけなかったメルビレナはひとり残された。
「俺たちも戻りますか?」
少し後ろから、テスターの声が聞こえてくる。律義に距離を挟んで待機していたらしい。
「嘆かわしい。最近の神僕は、無能、不遜、愚鈍と出来が悪過ぎる」
必要もないのに、メルビレナはテスターに聞こえるよう吐き出した。
「神は崇高にして孤高。当然のことではないか」
当然のことなのに、どうしてこうもいらつくのだろうか。
◇ ◇ ◇