1.怨嗟胎動⑤ ゆっくりと空を泳いでいた。
◇ ◇ ◇
彼方まで続く空に、いわし雲が広がっている。小さな雲の群れは皆一様に同じ方向を目指し、ゆっくりと空を泳いでいた。
一方、地上の自然公園を行く生徒たちには統一された目的地はなく、方々好きな場所へと散開していく。複数人で連れ立っていく者たち。描きたいものが決め打ちなのか、ひとりでずかずか歩いていく者。どこに行くか、仲良く相談する男女……などなど。
最終的に散開地点に取り残されたのは、セラ・リュート・テスターの3人だった。
「好きなものを描けって言われてもなー」
画材一式を小脇に抱えて、テスターがぽりぽりと頭をかく。
「こういう時はなにを描くもんなんだ?」
「俺に聞くなよ」
同じく画材を抱えて、困った顔で答える兄。実際、聞かれても困るだろう。
今日は襷野高校の行事、秋楽祭――スポーツと芸術に親しむ1週間――の一環である、遠足を兼ねた写生会の日だった。クラスごとに、公園などの自然がある場所に行き、思い思いの風景を描く。セラたち1組の写生場所は、県指定の自然公園だった。
「なにを描くかは決まってなくても、どこで描くかは悩むまでもないでしょう?」
普段なかなかお目にかかれない、一面に広がる緑の絨毯に足をうずめながら、セラはある一点を指さした。男女――銀貨と明美が肩を並べて、仲良さそうに歩いている。
「確かにそうか。んじゃ、見失わないうちに俺らも行こうぜ」
「あんまあからさまに近づくなよ。怒られんのは俺なんだから」
「ほんと助かってるよリュート様」
「お前そのスタンス、ほんといつかぶん殴んぞ」
軽口をたたいて歩きだすふたりを、セラは複雑な思いで見つめていた。
(よかった、いつものお兄ちゃんに戻って……)
箱庭世界に戻ってきてからのリュートは、明らかに様子がおかしかった。
女神を宿した明美をあからさまに避け、登下校の同行もテスターに代わってもらっていた。今までの兄は女神になにか思うことがあったとしても、それと明美を切り離して行動していたのに。
不審に思ったセラは、テスターと共にリュートを問いただした。
彼が語った精錬世界の真実には……ひどく怒りをかき立てられた。ひどい話だし、許しがたい話だと思った。どこまで腐っているのかと女神をいっそう軽蔑した。
しかし神僕は、そんな女神の忠実な僕だ。つまりは自分も腐ったもののひとつかと思うと、怒りを感じることすら手前勝手でおこがましいように思えてくる。感情の波に乱されているリュートに対して、かけられる言葉も浮かばなかった。
だから最近になってリュートの様子が落ち着いてきたこと。それ自体には、セラは胸をなで下ろしていた。
ただ――時折リュートが見せる、悲愴な表情が気にかかっていた。女神への怒りとは別に、なにかに打ちのめされたような顔……もしかしたら兄は、再現された精錬世界の中で、自分たちには話せないようななにかを見たのかもしれない。
そしてそれはセラとテスターが見た、リュートそっくりの男となにか関係があるのかもしれない。聞けば答えてくれたのかもしれないが……
あの男の、全てを無価値なものと見るような、冷めきった顔。どう転んでも前向きな話題にはつながらない。もし兄があの男について知らないのであれば、余計な心痛を増やすような真似はしたくなかった。
気のせいなのか、最近は顔色も悪いように見える。
(話してくれたら、少なくとも一緒に悩めるのに)
口を引き結んでリュートの後ろ姿を見ていると、彼が足は止めぬまま振り向いた。
「セラ、置いてくぞ」
いつもの調子で呼びかけてくる。兄は内に秘めたものを隠し、日常に戻ろうとしている。
だったらこちらも合わせるしかない。
「待ってくださいよ、リュート様ー!」
それは自分でもわざとらしいほどに、猫をかぶった『良い子』の声だった。
しかしそれで構わない。
底抜けに明るい声で少しでも場が明るくなるのなら、いくらでも猫かぶりしてやろう。
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