Prelude
◇ ◇ ◇
「映画? なに言ってんだお前」
僕が参考書から顔を上げ、しかめっ面を向けてくる。
恒例となった明美の訓練校訪問。学校祭も一昨日無事終わり、久々に落ち着いた休日を過ごしていた。今はゲストルームの一室を借りて、ふたりして勉強中だ。
そしてその時間を少しばかり使って、メルビレナは娯楽施設への同行を迫っていた。
「だから。行ったのだろう、映画に。あの鬼娘と」
「行ったけど……だからって、なんでお前とも行かなきゃいけねーんだよ」
「私とて多少は、地球人の娯楽に興味がある。まさか堕神ごときと行っておいて、私とは行かないと抜かすのではないだろうな」
「抜かすよ。だってお前と行く意味ねえじゃん」
それで話は終わりということなのか、僕がふいと顔を背ける。
メルビレナはため息を吐いた。
愚鈍な僕を持つと苦労する。
(仕方ない。その愚鈍さに合わせてやろう)
僕のポケットに目をやり、メルビレナは寛大にも妥協することにした。
◇ ◇ ◇
「おい……」
まなじりつり上げ、腹の底から絞り出すような声を僕が上げる。
終業式後。誰もいない教室に明美を呼び出し、さらにはメルビレナを呼び出して何事かと思ったら、
「なんで俺の財布から現金が消えて、代わりに映画のチケットがふたり分入ってんだ?」
2枚のチケットをこちらに突きつけ、そんな瑣末なことを聞く。
メルビレナはやれやれと吐き出した。
「昨日の様子を見るに、貴様はいつまで経ってもチケットを買わないような気がしたのでな。私が代わりに買っておいてやった。なに礼はいい。愚鈍な愚僕をフォローするのにも慣れてきたところだ」
「いつまで経っても映画のチケット買わないのは、いつまでだってお前と行く気はねえからだよっ! つか、はっきり行く意味ねえっつっただろ!」
「意味はあるだろう。でなきゃチケットが無駄になる」
「さも当然のように矛盾した論理ぶっ込んでくんじゃねえ!」
「わがままなやつだ」
「全世界にアンケート取ったって、わがままなのはお前だよ!」
「私は貴様の進言に、寛大にも従っただけだ」
「ああんっ⁉」
僕が悲鳴にすら近い金切り声を上げて、空いた五指をわきわきさせる。まるで爪が鋭ければ切り裂きたいとでもいうように。
メルビレナは詰め寄ってきていた僕の手を押しのけ、告げた。
「歩み寄れと言ったのは貴様だろう。私は僕と親交を深めるために提案したのだ」
「な……それはっ、そうかもしれねーけどっ……」
先ほどまでの激情から一転、動じた声を出す僕。自身の発言を後悔しているのかもしれないが、もう遅い。
「僕と映画に行く。十分な歩み寄りだ」
「だからってなんで俺がっ……」
「まさか自分で言っておいて、歩み寄りの機会をふいにはしないだろうな」
「それはその――ぁあくそ! 分かったよ、行きゃいいんだろっ!」
「日程は後日調整しよう」
やけくそ気味に叫ぶ僕の手からチケットを抜き取り、メルビレナは寛容な笑みを浮かべた。
◇ ◇ ◇
手のひらを通して、カップ内の熱が伝わってくる。
女神である自分には、かつて熱いも冷たいも関係なかった。灼熱だろうと氷牢だろうと、生命活動に支障はないのだから。
だが今の――同化を通して存在している自分には、生きる上で大事な情報であった。
そしてたぶん、そういったことを抜きにしても重要なことなのだ。感じるということは。
「――おっしゃる通りです。それを踏まえた上で申し上げますが、御社のテーマパークにおける一部区画の公開延期に関しては、我々はなんの強制力も発動しておりません。確かにディメンショナル・マターの秘匿に関する法的リスクについて進言させていただきましたが、強迫の意図は全くありませんでした」
部屋の主が落ち着いたトーンで、受話器の向こう側に声を届けている。執務机とほぼ対角線上にあるソファからだと、彼の声だけでなく顔も確認できた。
部屋の主――セシルはもう数十分も、テーマパーク『アタラクシア』の経営会社と電話を続けている。なんとか建前を設けて、調査隊をアタラクシアに送ろうとしているのだ。神僕失踪事件の手がかりをつかむために。
しかし事件の存在そのものに関しては隠蔽してあるため、交渉が難航しているらしい。
「――このタイミングでディメンショナル・マターの調査をさせていただければ、公開延期も有効利用できます」
僕らが消えてから1週間が過ぎたが、いまだに彼らは戻ってこない。安否どころかどこへ消え去ったのかも謎のままだ。このまま永遠に帰ってこないことだってあり得る。
(……まったく、愚かな)
メルビレナはカップをテーブルに置くと、どうでもよさげにつぶやいた。
「早くせねば、上映が終わってしまうではないか」
◇ ◇ ◇