2.楽しい体験入学~2日目~④ 史上最大の馬鹿
教室の端から端まで、ゆっくりと視線を動かすキルエ。
「頭に入れて素通りでは意味がない。そんな当たり前のこと、教えなかった私が悪いのかな?」
射ぬくような冷眼に一瞬とはいえ見つめられ、リュートは肌が粟立つのを感じた。
「非常に失望した。君たちは勉学をなんと心得――」
唐突に。
冷厳としたアルトに、ソプラノの歌声が割り込んだ。コミカルなメロディーに乗せて、なんの皮肉か『平気だかんね♪』などと歌っている。
授業中に、突然のコミカルなメロディー。通常であれば笑いが生じる場面だろう。
しかし、キルエのいら立ちがピークに達しているところに、そんなメロディーが流れればどうなるか……
元々冷えきっていた場の空気が、一瞬にして凍りつく。張り詰めたなにかが、限界まで締め上げられていく。
キリキリと痛む胃に生唾を流し込みながら、リュートは音の発信源へと視線をずらした。
足元に置いてある、リュートの鞄。その口からのぞく2台のスマートフォン。うち1台が、着信のメロディーを奏でていた。
――いや平気じゃねえだろ。
――誰がやった?
――空気読めよ。
――死ね。鳴らしたやつマジで死ね。つーか滅べ。
負の感情は極まれば、テレパシーとして伝わってくるものらしい。
教室中の怨嗟の声を受け止めながら、リュートはギシギシと首を曲げ、銀貨へと顔を向けた。
銀貨は顔の前に片手を掲げ、声は出さずに口の動きだけで伝えてきた。
『ごめんよ』
コロシテヤル。
両手の指をわきわきとうごめかし、リュートは銀貨をにらみつけた。
「リュート訓練生」
「はいっ!」
底冷えするような声で指名され、リュートは素早く起立した。精いっぱい、誠実に聞こえるよう返事をしながら。
キルエが無言で、こちらをじっと見据えてくる。見られる自分が本当にクズでカスでごみ同然の存在に思えてくる、虫けらを見るような目だ。
着信メロディーはもうやんでおり、ただ静かな時間が流れた。
恐怖の時間を長引かせるためか、少し経ってから、キルエがゆっくりと口を開いた。
「久々に出席したと思ったら、この体たらく……特別貸与された端末を、それほどまでに見せびらかしたいか?」
この教官の前では、笑う余裕などないと思っていた。
しかし今は痙攣してつり上がった口の端が、勝手に愛想笑いを作っている。通じるはずもないのに。
「教官、これには事情が……」
「この期に及んで言い訳かっ!」
恫喝とともにキルエが腕を振るう!
机上のゴム板を引っつかんで、眼前にかざすリュート。右手の方は、とっさに緋剣を抜いていた。
がすっと音を立て、ゴム板からクナイの切っ先が顔を出す。まさに目の前だ。
(相変わらず容赦ねえっ……)
しゃっくりのような、引きつった息が漏れる。
ゴム板をどかし、そっと周囲を見渡す。リュートとは別の場所に飛ばされたクナイがあるはずだ。
多くの者が机に伏せているので分かりづらいが、刺さった生徒は見受けられない。
取りあえず安堵の息をつき、ゴム板からクナイを引っこ抜く。本当はリュートも伏せて避けたいところだが、攻撃のきっかけをつくった生徒は避けてはいけないという、暗黙のルールが存在する。身をもって責任を取れということだ。
だからリュートに取れる手段は、物か自身で受け止めるか、はじき返すかだ。ただしはじくとなると、他の生徒に向かう可能性がある。今みたいに前方に返せば話は別だが。
(……ん?)
なにかが引っかかった。
最近は緋剣を使う機会が増えたためか、反射的に抜いてしまうことが稀にあった。今回も同様で、飛来したクナイのうち1本を、とっさに前方へとはじき返したのだが。
(……ちょっと待て)
考えがまとまるよりも先に、膝ががくがくと震えだした。左を見下ろすと、銀貨を護るように伏せていたテスターが、史上最大の馬鹿を見るような目でこちらを見上げていた。
覚悟を決めて前を見る。
はじき返したクナイは黒板に刺さっていた。その前に立つキルエの頰には、なぜだか生傷があり、血が流れ出ている。
「教官に対する、物理的な反駁行為か……」
キルエは血を拭いもせず、スーツケースから癇癪玉――ランダムに劇薬が仕込まれているお手製だ――とクナイを取り出した。癇癪玉は教卓に並べ、クナイは両手に装備して、胸の前で構える。かつてないほど末恐ろしい目つきで。
(俺……なにやってんだ……)
限界まで血の気を引かせて、リュートは声を絞り出した。
「も、申し訳……ありませ――」
「嘆かわしい! 一切合切嘆かわしいっ!」
クナイが風を切る音を合図に、教室内は阿鼻叫喚の地獄と化した。
◇ ◇ ◇