2.楽しい体験入学~2日目~③ 君はふざけているのか?
キルエが規則正しい足音を立て、生徒の近くを巡回し始める。テスターに始まり、そのまま後ろに行き、しばらくすると当然――
(来た……)
コツコツと、ブーツの音が背後から近づいてくる。リュートは眼前の確率漸化式に集中した。が、
(え? ちょ、え?)
背後の気配はリュートの斜め後ろで止まったまま、動こうとしない。今まで一定の速度で歩いてきたキルエが、ここにきて止まっている。
(なんでだ? なんで俺だけ長く見てるんだ? どっか駄目なのかっ?)
今のところ自信がないものはあっても、絶対的に解けていないものはないはずなのに、なぜかキルエは動かない。リュートではなく、その隣の銀貨を注視しているのだろうか。
(やべ、考えがまとまんねえ……)
かといってペンを止めては、思考停止が丸わかりだ。つらつらとそれっぽい数式を書いては消してごまかすが、それもさすがに苦しくなってきた。
(つーか行けよ。あっち行けよ集中できねーんだよっ……)
過去の記憶も手伝って、背後にしか意識がいかなくなってきた。すでに左手は、いつでも持てるようゴム板に添えてある。
と、キルエがやっと動きだした。
リュートはほっとして、再び問題へと意識をやった。
キルエの足音と、訓練生たちのペンが走る音。それ以外にはほとんど音もなく、ただ静かな40分が過ぎて。
「そこまで」
キルエが終了を宣言し、訓練生たちがペンを置く。
解答欄は全て埋めたものの生きた心地はせず、リュートは浅い息を繰り返した。
左隣の銀貨を見ると、ほとんどまだ習っていないんだから仕方ないと、一周回って堂々としているように見えた。テスターが平然としているように見えるのは、全て正解という自信があるのだろう。
「第1問は漢文だな――ビスケ訓練生」
「はい!」
キルエの指名に、後方から引きつった声が聞こえてくる。
「第1問の答えは?」
「わ……分かりません」
「分からない?」
スーツケースを探っていたキルエが、左手を上げる。3本の指にはまっているのは、彼女お気に入りの授業道具――クナイだ。
「君はふざけているのか? 悪いが全く面白くない」
「いえ、その……」
「それで答えは?」
「え?」
「答えは?」
「分かり……ません」
びゅっ! と音がするよりも速く、リュートは机に突っ伏していた。
後ろの訓練生たちも、同様の対処をしたのだろう。一斉にガタタッと音が立ち、騒がしくなる。机や椅子の鳴る音に混じり、なにかが刺さったり、はじかれたりする音も聞こえてきた。
たっぷり数秒の余裕をもたせて、リュートは顔を上げた。同時に、銀貨の頭から左手をどける。
「え、なに今の?」
銀貨が鼻をさすりながら――机にぶつけたらしい――顔を上げて聞いてくる。
リュートは銀貨へと顔を寄せて、最小限に声を抑えてささやいた。
「これが彼女の授業方針なんだよっ……」
生徒が規律を乱した時、生徒が答えを間違えた時、あとなんとなく虫の居所が悪い時。
キルエは生徒に対し、攻撃的行動をとる。使用されるのは主にクナイだが、たまにエアガンや爆発物も使われる。
たちが悪いのは、標的の生徒を中心に攻撃をするから、無関係な生徒にも被害が及ぶということだ。つまり攻撃のきっかけをつくるほど、その生徒は周囲の恨みを買うことになる。
リュートがキルエに根源的な恐怖を感じるのも、彼女自身にというより、集めた恨みの大きさがトラウマになっているからだ。
地球人がいれば、今日くらいは自重してくれるかもと期待していたのだが、キルエには関係ないらしい。世話役が責任をもてということか。
目立たないようそっと振り返ると、何列か後ろで、クナイの刺さった辞書を片手に、凍りついている生徒がいた。彼がビスケなのだろう。
バンッとたたきつける音に、リュートは即座に前を向いた。
「巡回してみたところ、知識を廃棄処分した者が多くいるようだな」
右手のひらを机上に乗せたまま、キルエが押し殺したようにつぶやく。なのにしっかりと耳に届くから不思議だ。左手にはすでに、次のクナイが装備されている。