4.ホンモノの定義⑫ 泣きたくはなかった。
◇ ◇ ◇
太陽が上がるにつれて、気温も順調に上がっている。湿度も相まって、『暑さ』という生物が、身体にべったりとまとわりついているかのようだ。
それでも空だけはすがすがしく晴れやかで、見上げればほんのわずかでも暑さが和らぐ気がする。
セラは前方に見える人影に向かって、ゆっくりと歩を進めていった。
もったいぶっているのではない。ただ近づくのが怖かったのだ。
屋上の縁に立つ彼女の背中に一歩近づくたび、頭に用意していた言葉が消えていく。
あっけなく、泡のようにはじけて消える。
とうとう彼女の元へと到達する前に、頭の中は空になってしまった。
術なく立ち尽くしていると、彼女が振り返った。
「……どうしてここに戻ってるって分かったの?」
「ここは私の好きな場所だから」
彼女――アスラの言葉に、セラは反射的に返していた。
アスラが納得したように微笑む。
「そっか……あたし、セラちゃんのコピーだもんね」
あえて自分に突き刺しているような痛々しさに、セラはきゅっと唇を嚙んだ。
そう仕向けたのは自分なのだ。
思った途端、言葉が口をついて出た。
「あなたはどうして、お兄ちゃんを『リュー君』って呼ぶの?」
「それは……そう呼びたかったから」
自分でもよく分からないのか、アスラが自信なさげに、だけどその『意思』に関しては確信的に答えてくる。
セラは目を閉じ、吟味した。
「私はお兄ちゃんを、そう呼ぼうとは思わない」
たぶん最初から、答えはそこにあったのだ。自分が目をそらしていただけで。
「私とあなたは、違うってことよ」
目を開けて、アスラを見据える。
「だったら、あなたがお兄ちゃんに抱く想い……それもあなたが確かに見つけた、あなただけの想いなのかもしれない」
「あたしだけの想い……?」
意味を探るように視線をさまよわせるアスラに、セラは頭を下げた。
「ごめんなさい」
「セラちゃんっ?」
「本当はそんなこと分かってたの。でもあなたが――気持ちを素直に表現できるあなたが羨ましくて。そんなの、一方的な醜い嫉妬なのに……私はあなたに八つ当たりしてしまった……」
「……セラちゃんは、あたしの無神経なところも含めて、あたしという存在を認めてくれるんだね」
顔を上げると今度は、アスラがこちらをじっと見ていた。
「あたしは、そんな優しいセラちゃんが大好きだよ」
ああ。
自分の醜さが疎ましい。
こんな時でさえなお、自分はこの純粋さに嫉妬している。
「アスラっ……」
泣きたくはなかった。
まばたきひとつでこぼれそうな涙を、セラは必死に押しとどめ――
「うれしいっ!」
「え?」
百面相のごとき速さで満面の笑みへと変わったアスラに、セラは目をしばたたいた。結果、必死に耐えていた涙はあっけなく流れ落ちた。
その涙も乾かぬうちに、アスラががばっと抱きついてくる。
「ちょっ……⁉」
「とうとうあたしの名前呼んでくれたねっ! 名づけて以来、1回も呼んでくれてなかったのに!」
「そ、そうだったかしら……?」
「そうだよ! それに一度大喧嘩したから、これでベストフレンドだねっ!」
「ど、どうかしら……」
「いえーいベストフレンドっ! BFF!」
セラはただただ、アスラに抱きつかれるまま目を白黒させた。テンションが大気圏突破しているアスラに圧倒され、再び頭の中が空になってしまった。
「おーい」
聞こえてきた声は、まさに天の助けだった。
「テスター君!」
アスラに絡まれながらも、なんとか振り向くセラ。
ぶれる視界に、塔屋からこちらに歩いてくるテスターの姿が映る。
「ガールズトークに割り込むのは気が引けるけど、一応言っておいた方がいいと思って。俺らの劇、もう始まってるぜ」
どうでもよさげに吐かれた割に重要そうな言葉が、セラとアスラの動きを止めた。
『あ……』
「ま、別に劇自体は俺らがいなくても回るだろうけど」
テスターは言葉を切り、にっと口の端を上げた。
「せっかくのリュート様の晴れ舞台、観ないなんてもったいないよな?」
「うん、そりゃあもうっ!」
全開スマイルで賛同したアスラが、スキップやターンを交えて塔屋に向かう。
「ほらふたりとも! 早く行かなきゃ!」
手招きして急ぐアスラ。セラはまぶしげに目を細めた。
「万華鏡みたいな子ね」
「どうした? なんか詩的じゃん」
テスターがきょとんとこちらを見る。聞かれていたらしい。
「別に、私だってたまには……」
「たまには乙女チックにもなる?」
「もう、うるさいわね!」
吐き捨てると、セラはテスターを追い抜きアスラの後を追った。
◇ ◇ ◇