4.ホンモノの定義⑨ なにひとつとして嚙み合わない。
「やめろセラっ!」
その言葉は冷水のように、セラの頭を一瞬で冷やした。
「お兄ちゃんっ⁉」
左を向くと、すでにそれは間近まで迫っていた。
屋上をスライドするようにして接近してくる、堕神の上半身。そしてそれに飛びつく人影。
人影――リュートが堕神の上で不安定にバランスを取りながら、中腰で立ち上がる。
堕神は当初セラを狙っていたようだったが、どうやら標的を変更したらしい。スピードを緩めながら身をよじり、リュートに向かって爪を振るう。
しかしその時にはもう、リュートも動いていた。
彼は左手を堕神の頭に添えたまま、右手で緋剣を振りかぶり――背後から堕神の《眼》を刺すと同時、緋剣を手放しその場から飛び降りた。
リュートの身体は地面を転がり、堕神はこちらに到達する目前で消滅した。獲物を失った緋剣が、屋上に転がる。
セラは血まみれの緋剣を拾い、兄の元へと駆け寄った。
「お兄ちゃん、大丈夫⁉」
「ああ……」
身を起こし答える兄の右手は、どう見ても大丈夫そうには見えなかった。堕神の体液を浴びたらしく、小刻みに痙攣している。
リュートは左手でかばうようにして、右手首を握った。浅い呼吸を繰り返していたが、やがて呼吸も落ち着き、ゆっくりと立ち上がる。
そのタイミングを見計らって、セラは緋剣を差し出した。
「お兄ちゃん、これ」
「ああ、悪い」
リュートは受け取った緋剣を剣帯へと収めながら、こちらを見返してきた。
鈍い鉄色を思わせるような、精彩を欠いた目つき。そのまなざしに思い出す。
自分はなにを見られたのか。
「セラ、どういうつもりだ? アスラに手を上げるなんて」
とがめるような視線にセラは口ごもった。まるで言葉の紡ぎ方を忘れてしまったかのようだ。
「それは……」
「あたしのせいなの!」
鋭く分け入った声に、セラははっと振り向いた。
アスラが揺れる瞳でこちらを見つめている。
「あたしが悪いの……あたし、セラちゃんを傷つけちゃった」
そこまで言って感情のダムが決壊したのか、ぐしゃっと顔をゆがめる。
「……ごめんねっ」
とだけ残して身を翻すと、アスラは屋上の縁から足を踏み切った。
「っ⁉」
「おいアスラっ⁉」
リュートが慌てて縁へと駆け寄る。それに続くようにして、セラも兄の横から身を乗り出した。
アスラらしき人影が、地面へと降り立つのが見えた。下では人が行き交っていたが、衝突しないよう、うまく落下位置を調整したらしい。
アスラはそのまま、人混みに紛れるようにして姿を消した。
「くそ!」
リュートが毒づき、屋上の縁に手を掛ける。壁伝いに自身も下りようというのだろう。
しかし右手の痛みが邪魔をしているらしく、結局は舌打ちだけを下に落として立ち上がった。
「お兄ちゃん、私……」
いまいましげに右手を見下ろしていたリュートは、こちらの呼びかけに焦燥の顔を向けてきた。
「なにやってんだよセラ!」
「私……」
セラは答える術を持たなかった。
勝手に嫉妬して、一方的に張り合って。
幻出における警戒も怠って。
ひどいことを言って、手を上げて。
全てが空回りで、なにひとつとして嚙み合わない。
「……ほんと、なにやってるんだろ」
自分勝手に流れ出る水のせいで、視界さえも歪曲する。
「ごめんなさいっ……」
セラはリュートに背を向け駆けだした。
今はただ、消えてしまいたいという思いそれだけだった。
◇ ◇ ◇