荒唐無稽
部屋中にアラーム音が鳴り響いた。
僕は目覚めて、時間を確認した。午後十時だ。
今夜は父親は夜勤なので家にいない。母親は三年前に離婚し、この家にはいない。
この家にいるのは僕だけだ。これから廃墟の病院に行こうと決めていたので、熊坂の家から戻り、すぐに寝たのだ。
父親が用意した夕食を五分で平らげた。ちょうどテレビから新たな情報が流れた。
事件に進展があったのだ。
殺害された身元がDNA鑑定で判明した。四十二歳の高校の女性教諭だ。名栗教子。知らない名前だ。高校も隣町の進学校だ。熊坂と接点はない。今は一応、ほっとした。
僕は満腹感で外に出歩くのを躊躇った。熊坂がすっぽかしていればすぐに家に戻ろうと思った。電話をかけて中止って言うのもかっこうが悪く、雨でも降ればもっともらしい言い訳が出来るが雲さえなく、三日月が輝いていた。
何度も行っているので、待ち合わせの時間ピッタリに廃墟の病院に着いた。
入り口に人影があった。赤いジャンパーを着ていた。背中に上部に『SHIRASAKI SCHOOL』と黒文字で書かれているが、とても見にくい。すらりと長身なので、すぐに熊坂だとわかった。
「いたのか」
僕は熊坂がいなければすぐに退散予定だった。非難の気持ちが強く、言葉に出てしまった。
「待ったぞ。来ないかと思ったよ」
熊坂は皮肉を込めていた。
「僕が言い出したんだから、来ないわけないだろう!」
「そうか」
熊坂はあっさりとしていたので、僕は返す言葉も見つからない。反論しようにも立ち入り禁止の黄色いテープを無視して中に入ってしまった。
「待ってよ」
と、僕は追いかける事になった。慌てて、懐中電灯を点けた。熊坂は直前まで消極的だったが、今は積極的だ。
どうしたのだ?
事件の情報はテレビからだ。改めて一般人の僕では何も出来ない事に気がついたので、消極的にもなる。
「帰ってもいいぞ」
熊坂は僕が乗り気がないのにすぐに気がついたようだ。
「帰るわけないだろう。さっきも言ったけど、僕が言い出したんだから……」
僕は強がっているだけだった。
「そう」
熊坂は止まることなく、足早に行ってしまった。
「待ってよ」
と、僕が言った頃には熊坂は階段のところにいた。地下に下りるのではなく、上っていた。やはり事件現場には行かないつもりだ。
三階に辿り着いた。踊り場にはいないので、廊下に出ると声がした。
「ここだよ」
熊坂は病室に入らず、僕が来るのを待っていた。
使用率の多い『305』と書かれたネームプレートの病室だ。ベッドが四台おけるスペースの大部屋である。今は空っぽだ。
「入る?」
僕は熊坂に急かした。
「入るのか?」
と、逆に問い質された。
「もちろんだよ」
熊坂の意味ありげな一言で、僕は隠し事でもあるのではと勘繰った。
「まだ、言ってなかった事があるんだけど」
「何だよ」
「死体がバラバラだった」
「そんなの知っているよ」
「いや、鋭利な刃物で切断されたのではなく、獣に食いちぎられたような感じだ。両手首から先と膝から下の両足全てだ」
「それも知っているよ」
「大丈夫か? 無理なら引き返そう」
熊坂はここまで来て、撤退を促した。なぜだろう。
「地下に行こう」
そこまで言われると、僕は本心では行きたくないが、強がってみせたくもなる。
「ちょっと待て」
「何だよ」
「やっぱり止めようぜ」
「ここまで来てか?」
「そうだ」
「怖くなったのか」
熊坂は一瞬黙って「そうだ」
「えっ?」
僕は驚いた。意外な返答にしばらく口を開けたままだった。
「もう一つ、お前に言ってない事があった。俺は不思議な力がある。邪気を感じたり、見えたりするんだ」
「言っている意味がわからない」
「魔物とかが見えるんだ」
「はっ? 霊とか変なのは信じていなかったんじゃないのか?」
「見えない方がいいとずっと思っていたし、見えないやつに言っても信じてもらえるわけがないだろう」
「そんな……」
「だから、地下で起こった殺人は魔物のせいだ。今日は近くにいるような気がする。お前も気分が悪く感じるなら、その能力があるのかもしれない」
「ははははっ……」
僕は熊坂の荒唐無稽な話に笑いが止まらなかった。
「悪い。外で待っているから、お前も早く出ろ」
熊坂は急ぐように踵を返す。
「待って……」
僕は引き留めるが熊坂は振り返りもしなかった。
熊坂が荒唐無稽な話など想像さえした事がなかっただけに、今の状況は驚いている。魔物が何なのかわからないが、半信半疑だ。
だから、僕は地下には行かなかった。それよりも目の前の『305』号室が気になった。ドアを左にスライドして開けた。
懐中電灯をゆっくりと照らしながらである。いつもここで熊坂と会話するときはドアは閉める。開けているつもりだったが、腕が勝手に動いていた。
何もない。
魔物がいるわけでも、死体があるわけでもない。
「何もいねぇ」
僕の声は部屋中に響いた。続けてガタッと音がする。廊下から聞こえた。気のせいか。いや、確かに耳に聞こえた。
「おーい! 誰かいるのか?」
もちろん返事がするわけがない。
静寂が続くと思えた。
ガタッとまた音がする。老朽化した建物なので、風だけで音が響く事もある。
「もしかして、熊坂か? 僕をびっくりさせようとしているのか?」
廊下に人の気配を感じるのだ。
熊坂がいきなり大声で驚かそうとでも企んでいるのか。
僕はそう思った。いや、思いたかった。だから、こちらから驚かしてやろうと、忍び足でドアに近づいた。
ガタガタと連続で音がした。
「熊坂!」
僕はドアを右にスライドして、身体を廊下に飛び出した。
「あれ?」
廊下には熊坂はいなかった。
「隠れているんだろう。いい加減出てこいよ」
僕の声は響いているが返ってくる声はない。
「さっきの話、嘘だろう。魔物とか言って、怖がらせる手はずなんだろう?」
無反応。
懐中電灯で熊坂がいないか前後を照らした。
やはりいなかった。
それともどこかに隠れているのか。急に目の前に現れて、声を出して驚かすのではないかと僕は警戒しながら踊り場に向かった。
何事もなかった。
「いい加減にしろよ」
僕はまだ熊坂が驚かそうとタイミングを狙っていると思った。
ガタッと背後から音がした。
「おいおい、いい加減バレてるぞ」
僕は後ろを振り返った。
何もいなかった。
「わあっ!」
天井から何かが降って来た。一瞬、懐中電灯の光が当たった。僕の視線の下に人影があった。足を広げ、どっしりと立っている。両腕も広げ、捕まえようと構えていた。顔は人ではない。真横に大きな目がある。昆虫のような顔だ。これが魔物か。
手の届く場所まで来て、僕は恐怖で硬直した。
もう駄目だ。
次の瞬間、魔物の口から液体が吐き出された。
僕の顔にべっとりとからみついた。ネバネバしていて、簡単に取れそうもない。息が苦しい。必死でもがいた。
意識が遠退くのがわかった。
空が真っ暗だった。
ここはどこだ。
「やっと気がついたね」
僕の顔をのぞき込んでいる男がいた。知らない人だ。視線を首から下を見ると、警察の制服を着ている。
「ここは?」
「立ち入り禁止だよ」
警察官は怒り口調だった。
「魔物は?」
僕は顔と首付近を触った。濡れているような気がするがネバネバした残留物は手につかなかった。
「君ね、遊び半分だったかもしれないけど、数日前にここで殺人事件があったんだよ。そんな危険な場所に、それも夜に来たらいけないよ」
「はい……廃墟の中にいたのに、どうして?」
「通報があったんだよ」
「誰から?」
「それはわからないけどね」
「そうですか。近くに僕と同じくらいの年齢の男の子はいませんでしたか?」
「いないよ。さっきから魔物とか、わけのわからない事ばかり言って、こんな気味の悪い所にいるから夢でも見たんじゃないのか?」
「夢じゃないです」
「だってここで寝ていたんだぞ」
「そうですけど……」
「まあ、今回の事は大目にみるけど、以後立ち入り禁止のここには入らない事。本来なら不法侵入で逮捕する事も可能なんだからな。わかったか」
「はい……」
僕は納得はしないものの、制服警官の言いつけを聞き入れた振りをして、解放された。
帰宅途中に僕は魔物の姿を思い出した。赤いジャンパーを着ていた。一瞬だったが、脳裏に浮かんだ。
あの魔物は熊坂だったのか?
結論が出ないまま家に着いた。熊坂に携帯電話をかけるも留守電状態だ。
夢でも見ていたのかと思い始めていた。
鏡の前に立った。
「あれ?」
僕の肩が濡れている。触ると、ヌルヌルしていた。間違いなく魔物の口から吐き出された物だった。
現実だ。
そうなるとわけがわからない事だらけだ。魔物は熊坂なのか。それに誰が警察に通報したのか。
こんな事なら夢ならどんなに良かっただろう。僕は背筋が寒くなった。