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シスコン男と恋する女

作者: とど

「二人とも、おはよー」



 早朝、私の毎日はその一言から始まる。身支度を手早く済ませた私はいつも通り玄関を出て、そして隣の家の扉を開けてそう言うのだ。



「お姉ちゃんおはよう!」

鈴音すずね、おはよう」



 そして私を迎えてくれるのはお馴染みの二人だ。一人は髪を結びながらとだばたと高校へ行く準備をしている少女、かなでちゃん。そしてもう一人はブラックコーヒーを飲みながらテレビを見ているスーツの男、翔一しょういち君だ。


 隣に暮らす奏ちゃんと翔一君は少し年の離れた兄妹だ。数年前に事故で両親を亡くした二人はお互い支え合って慎ましく生活しており、二人のお隣さんである私も仕事に学校にと何かと忙しい二人をサポートするべく家事を手伝ったりとよく彼らの家を訪れていた。


 慌ただしい奏ちゃんの支度を待って三人で家を出る。今日は大学は二限からだが、二人に時間を合わせて早めに行くのだ。

 三人で雑談をしながら歩いていると、不意に眠そうに奏ちゃんが大きく欠伸をした。そして翔一君は少々心配するように妹の顔を覗き込む。



「また夜更かししたのか?」

「……別にいいでしょ」

「なんだその返事は。俺は心配して」

「ちょっとは放っておいてよ!」

「なんだと」



 ふん、と翔一君から顔を背ける奏ちゃんは最近少し反抗期に突入している。その原因は……まあ、結構な割合で翔一君にあると言ってもいいのだが。

 小言を言う翔一君から逃れるように、奏ちゃんが私の腕に飛びついて来た。



「ねえお姉ちゃん、来週の日曜日に買い物付き合ってくれない?」

「勿論いいよ」

「やったー!」

「奏、鈴音、俺も一緒に」

「却下! お姉ちゃんと二人がいいの!」



 身を乗り出すように話に加わって来た翔一君だったが、すげなく断られてしまう。彼はぐぐ、と悔しそうな表情を浮かべて私の方を見る。……そんな風に嫉妬されても困るだけなんだけど。


 たった二人の家族、ということもあるだろう。だが翔一君はちょっと……いや大分、所謂シスコンと呼ばれる部類の人間だった。

 幼い頃は普通だったような気がする。だがいつからだろうか……中学、高校辺りに差し掛かると奏ちゃんの話ばかりするようになり、それはどんどんエスカレートしていった。

 今では私との会話の九割方が妹の話である。……いや勿論、私だって奏ちゃんのことは大好きだ。昔からお姉ちゃんと慕ってくれていたし、私も本当の妹のように思っている。だけどせめて、あともう少しだけ……あと一割でいいので別の会話をしたい。

 何しろ私は――。



「それじゃあ鈴音、奏のことを頼む」

「うん」



 最寄りの駅に到着した。ここからはまず翔一君が私達とは反対方向の電車に乗るので最初に別れ、次に途中の駅で奏ちゃんが下りることになる。

 毎回必ず交わされる会話に奏ちゃんが「だから心配し過ぎ!」と声を上げる。そんな彼女に苦笑しながら改札を抜けた所で翔一君と別れ、私と奏ちゃんはホームへ向かった。



「全く、お兄ちゃんは……」

「奏ちゃんのことが大切なんだよ」

「でも限度があるでしょ!」



 うん、それは思う。今日も家を出てから別れるまで奏ちゃんのことしか喋っていなかった。



「……お姉ちゃん、あんなのだけどお兄ちゃんのこと、見捨てないでね」

「大丈夫」



 たとえ翔一君が呆れるくらいに奏ちゃんのことしか考えていなくても、勿論私はそれを否定することは出来ない。……そのシスコン男に惚れてしまったのは私の方なのだから。













「鈴音、相談があるんだ」



 そんないつも通りの日常を過ごしていた数日後、不意に翔一君がそんなことを言ってきたのだった。

 その日はバイトで帰るのが遅かった奏ちゃんの代わりにご飯を作り、三人で一緒に夕飯を済ませていた。奏ちゃんは宿題をするから、と自分の部屋に入っていったので今はリビングに二人だけだ。



「どうしたの急に」



 妙に思いつめた表情の彼の前に座ると、深刻な声で「実は……」と口を開く。



「奏のことなんだが」

「うん」



 そりゃあそうだよね。



「最近ちょっと様子が可笑しい気がする」

「具体的には?」

「いつにも増して会話が少ないというか、俺に冷たいというか」

「それは単なる反抗期じゃ」

「奏に限ってそんなこと」

「ないとは言い切れないよね? 反抗期なんて結構誰でもあるものだし」



 そもそも反抗期に突入しているのは翔一君が構いすぎるからだ。私が少し呆れたのが分かったのか、彼は取り繕うように「い、いやそれだけじゃないんだ」と焦りながら言葉を続けた。



「何か妙にぼーっとしてると思ったら急にそわそわし始めたり……絶対何か隠してる」

「理由は聞かなかったの?」

「俺には関係ないって怒られた」

「なら詮索しなきゃいいのに……」

「でも気になるだろ……鈴音頼む、奏にそれとなく聞いてくれないか」

「ええ……?」

「この通りだ! 悪いことじゃなければ詳しくは聞かないし、代わりにお前の頼みも聞くから!」



 テーブルに手を着いて頭下げる翔一君を見ながら私はどうしたものかと考える。正直な所大人しく見守っていた方がいいと思うのだが、それでは彼が納得しないだろう。下手に翔一君が追及して反感を食らうのならば私から聞いた方がいいとは思う。

 詳しくは聞かないと言っている時点で彼がただの好奇心だけで探ろうとしている訳じゃないのは分かるし、本当に奏ちゃんが心配なだけだろう。

 私は小さく溜息を吐いた後、翔一君が顔を上げたのを見て頷いた。



「分かった」

「ほ、ホントか!?」

「詳しく言わなくても後でぐちぐち言わないでよ」

「鈴音が話さなくていいと思ったことなら言わなくてもいい。お前が奏のことを分かってくれているだけで俺は安心するから」

「……」



 なんでそういうこと言うかな……。ふっと微笑まれて思わず目を逸らす。こんなんだからいつまでも放っておけないんだ。



「それで、鈴音は何か俺にやってほしいこととかあるか?」

「やってほしいこと、ねえ」



 私は少しだけ考えて、それから一瞬だけ躊躇ってから口を開いた。



「それじゃ、今度休みが合った日にどこか連れてって欲しいな」

「それだけでいいのか?」

「うん」

「この前は奏に断られたからな……今度こそ三人でどこか行けたらいいな」

「……うん」



 二人で、と言えなかった私が悪いのは分かってるけど……。













「お姉ちゃん、早く早く!」

「奏ちゃん、前見ないと転ぶよ」



 次の日曜日、約束通り私と奏ちゃんは買い物に来ていた。高校卒業と同時に車の免許を取っているので今日は奏ちゃんを乗せて車で来ている。忙しい翔一君の代わりにお米などの重たいものを買う時にも便利なので早めに免許を取っておいてよかった。

 私が車の鍵を掛けている間にもう奏ちゃんは店の入り口の方まで行ってしまっている。その姿はいつもよりも随分と浮かれているように見えた。



「バイト代がたまったから新しい服が欲しいんだー。お姉ちゃんも一緒に選んで欲しいんだけど……」

「いいよ」

「ありがとう!」



 張り切った様子で腕を引かれてエスカレータ―に乗る。そして婦人服のフロアまで着くと、奏ちゃんは近場のお店から意気揚々とチェックし始めた。



「……うーん」

「中々良いのない?」

「妥協したくなくて」



 そう言って鏡の前でスカートを体に当てる奏ちゃんの表情は厳しい。既に何件か回っているのに一つも納得したものがないらしい。



「こっちの色は? 奏ちゃんは淡い色が似合うし」

「んー、でも同じようなやつ持ってるしなあ……せっかくのデートだし」

「……ん?」



 今何か奏ちゃんが小さな声で何か言ったような。



「か、奏ちゃんデートって」

「……え? 嘘、私口に出してた!?」

「やっぱり言ったの!?」



 思わず私が追及すると、奏ちゃんは困ったように目を泳がせてから少し顔を赤くして小さく頷いた。



「奏ちゃん彼氏できたの?」

「実は、少し前から」

「あー……」



 私は何となく翔一君が気にしていた事情を察した。大方これが原因だろう。奏ちゃんが翔一君に冷たいのは無関係かもしれないが。



「お姉ちゃん?」

「ごめん何でも。それで、相手はどんな人なの? 学校の子?」

「バイトの先輩なんだけど……」



 もう隠していても仕方がないと思ったのか、奏ちゃんは手にしたスカートを握りしめて嬉しそうに顔を綻ばせた。



「ちょっと派手な人だけどすっごく優しくて、バイトで分からないことがあった時もよく助けてくれるの」

「それで好きになった?」

「うん。いつか告白したいなーって思ってたらこの前好きだって言われて……」



 恥ずかしそうに俯いた奏ちゃんが可愛くて思わず頭を撫でてしまう。ごめん翔一君、私もシスコンとか言える立場じゃないかも。



「あの……お姉ちゃん」

「何?」

「お願いがあるんだけど……このこと、お兄ちゃんには内緒にしてほしいの」

「やっぱり?」

「うん、いつも以上に何か言われそうだし……」



 私の脳内で翔一君が「奏にはまだ早い!」と怒鳴っているのが容易に想像できてしまう。

 目の前の奏ちゃんを見て、私はほんの僅かだけの時間二人を天秤にかける。



「分かった、秘密にしておくね」

「本当!? よかったー! じゃあお礼にお兄ちゃんの好きそうな服探して来て上げるね!」

「え、ちょ」

「お兄ちゃんを惚れ直させてあげるから!」



 そう言うや否や、私の言葉を聞かずに奏ちゃんが店の奥へ入って行ってしまう。惚れ直すって、そもそも惚れてるのは私の方なんだけどなあ。というか奏ちゃんに翔一君への気持ちを言ったこともなかったのに……。

 私は何とも言えない気持ちで溜息を吐きながら、姿が見えなくなった奏ちゃんを追って早足で歩き出した。


 とりあえず翔一君には「悪いことじゃないから心配しなくていい」と伝えよう。詳しくは伝えられないとあらかじめ言っていたし、少なくとも奏ちゃんにとっては間違いなく良い事なのだから。













「ちょっと遅くなっちゃったな……」



 それから一週間と少しが経った日の夜のこと。私は駅の改札を出ると、暗い夜空を見上げながらそう呟いていた。

 時間は午後十時前。決して大きいとは言えない駅なので一緒に降りた人も数人しかいなかった。明日も平日なので早く帰って休みたいと思いながら早足で歩き出す。



「鈴音?」



 しかし私の足はすぐに止まった。呼ばれた声を探して周囲を見回すと、すぐに改札から出て来た翔一君の姿を見つけることが出来た。



「翔一君」

「珍しいな、こんな時間にここにいるなんて」



 彼は疲れたように肩を回しながら私の隣に並んだ。そして特に何も言うことなく二人で家までの道を進み出す。

 街頭の光に照らされた翔一君は少し険しい表情で私を見下ろした。



「それで、なんでこんな時間に一人でいたんだ」

「家庭教師のバイトが長引いちゃって。もうすぐ模試があるって言うから質問に答えてたらね」

「車で行かなかったのか?」

「大学帰りについでに行ったから。ほら、うちの学校は車通学禁止だし」

「こんな時間になるなら家の人に向かえに来てもらえよ。何かあったらどうする」

「うん、ありがとう」

「……そうだ、また今度奏の勉強も見てやってくれないか? あいつ最近バイトの時間増やしたみたいでちゃんと勉強出来てるか気になるんだ」



 心配されて心が温かくなっているとすぐに奏ちゃんの話になっていた。いつものことなのでむしろ心配されただけで十分嬉しい。……と、思わないとやっていられないと随分前に納得している。



「高校生なんだから、バイトなんてしなくてもいいだけどな」

「……うん」



 難しい表情をする翔一君の言葉に私は頷くだけに留めた。奏ちゃんがバイトをしているのは、ひとえに一人で家計を支えている翔一君の負担を減らすためだ。だけど彼女はそれを兄に伝えていないし、私にも黙っていて欲しいと言っている。学校で必要になってくるものなどは翔一君には伝えずに自分のバイト代で賄っているらしい。



「そういえば昨日の話なんだが、テレビを見てた時に奏が――」



 話題は移り――とは言っても奏ちゃんのことには変わりないが――とりとめのない日常の話をちらほらと話し出す。一人で歩くいつもの帰り道よりもずっと時間が経つのが早いなと感じながら相槌を打っていると、まもなく家に着くという辺り、角を曲がろうとした所でその先に見覚えのある人影がちらついた。



「……あ」



 そこに居たのは、奏ちゃんだった。しかも一人ではない、彼女が向き合うようにしていたのは薄暗い夜道でもはっきりと分かる金髪の男だったのだ。

 遠目で何をしゃべっているかまでは分からない。だけど男を見上げる奏ちゃんの表情が非常に嬉しそうなのを見て、私は状況を悟らざるを得なかった。

 まずい、と反射的にそう思った私は咄嗟に隣の翔一君の腕を取り、思わず曲がろうとした道を直進した。



「鈴、音?」

「ちょ、ちょっと今日はもう少し話していたいなーって」



 誤魔化すようにそう声を上げると、翔一君は少し困惑した表情を見せた。



「駄目、かな」

「いや、それより……腕を」

「……え?」



 翔一君に言われて視線を落とす。無理に方向転換しようとした所為で、私の腕は彼の腕にしっかりと絡みつくような状態になっていたのだ。

 ぽかん、と少しの間それを見た後、じわじわと顔に熱が集まって来た。



「ご、ごめん!」



 慌てて大きく飛び退く。「別に嫌とかそういう訳じゃ……」と気を遣ってくれているが恥ずかしさでいっぱいになってとにかく謝ることしか出来ない。



「と、とにかくたまには寄り道したいなーって思っただけで!」

「……そう、だな。いやでも、もう遅いし話なら家でも出来るだろ? か、奏もいるだろうしうちで少しゆっくりしていかないか?」



 翔一君も私に負けないくらい動揺していたみたいでどもっている。ああやっぱり困らせた、と後悔していると彼は飛び退いた私の傍までやって来てその腕を掴んだ。勿論先ほどとは違い、普通に掴んでいるだけだ。

 そして彼はそのまま道を引き返す。駄目だ、せっかく引き留めようとしたのにあの二人と対面してしまう!



「奏もきっと鈴音に会いたがってるから」



 いや奏ちゃんとはほとんど毎日会ってるから、むしろ今は絶対に来ないでほしいと思ってるから!

 そう叫びたいが言えない。体格の差もあってそのまま引きずられるように元の道に戻ってしまう。

 そしてその先にいた奏ちゃんを見た翔一君は――。



「かな、で……?」



 抱きしめ合っている二人を見て、ぴしりと固まった。

 さっきのタイミングの方がましだった! そう頭を抱えてもどうしようもない。

 翔一君が持っていた重たい鞄が思い切り道路に落とされた。その音に振り返った奏ちゃんはこちらを見ると、思い切り顔を引きつらせてぱっと体を離した。



「お、お兄ちゃん」

「え、お兄さん?」



 相手の金髪の男の子も奏ちゃんの声を聞いて困惑の声を上げた。次の瞬間私の傍から翔一君は消えていた。



「誰が、お兄さんだ!」



 全速力で奏ちゃん達の傍に行ったかと思うと、翔一君はそう言って金髪君の胸倉を掴み上げていた。



「お兄ちゃん止めてよ!」

「奏は黙ってろ、こいつよくもうちの妹を」

「翔一君!」



 見ていられなくて私も急いで傍に行き、そして掴みかかる手を無理やり引き剥がした。



「お姉ちゃん……」

「翔一君、落ち着いてよ」

「落ち着く、だと」



 今にも泣きそうになっている奏ちゃんを見て諫めるようにそういうと、思い切り睨み付けられる。

 ……ちょっと胸が痛むと同時に同じくらいイラっと来た。



「妹が襲われそうになってたのに落ち着いていられるか!」

「誤解です! 俺と奏はちゃんと付き合って」

「黙れ! うちの妹を弄んでいるんだろ! 大体そんなチャラついた恰好で――」

「いい加減にして!」



 翔一君の声に負けないくらいの奏ちゃんの大きな声が、夜道に響き渡る。

 その声に奏ちゃんを見た翔一君は、彼女がぽろぽろと涙を流しているのを見て、ようやく我に返ったように言葉を失った。



「私、先輩が好きで付き合ってるのに……それなのに何も聞かないで、勝手に否定して勝手に怒って……」



 涙を乱暴に拭った奏ちゃんが、強く翔一君を睨み付けて叫んだ。



「お兄ちゃんなんて、大嫌い!」













「奏ちゃん、ちょっといいかな」

「……うん」



 あれから、奏ちゃんの彼氏君は「後で連絡する」と言って立ち去り、そして残った私達三人は重苦しい空気の中家に帰った。この空気の中でこの兄妹を二人にするのを躊躇った私は、一度は自宅に帰ったもののこんな夜遅くだと言うのに再度隣の家に来てしまっている。

 二階にある奏ちゃんの部屋の扉をノックすると、少し弱弱しい声で返事があった。



「お姉ちゃん……」



 部屋の中にいた奏ちゃんは酷く落ち込んだ様子で、ベッドの上で膝を抱えて俯いていた。私が奏ちゃんの隣に腰掛けると、膝を抱えたまま甘えるように寄りかかって来る。



「……その、さっきの男の子は」

「さっき家に帰ったって電話が掛かって来た。……怒ってはなかったけど」



 奏ちゃんが事前に翔一君についてはいくらか話していたらしく、『想像していた通りのお兄さんだった』と苦笑されたという。

 今回のことで二人の仲がこじれたという訳ではないらしい。私はそれを聞いて心底安心した。あのタイミングで翔一君が来てしまったのは私の所為なのだから。



「うん、先輩は大丈夫って言ってくれたけど……私、お兄ちゃんに酷いこと言っちゃった」

「でも、あれは翔一君が」

「だけど! お兄ちゃんに大嫌いなんて言って……すごく、傷ついた顔してた」



 寄りかかって来る腕が熱くなるのを感じながら、私はもう片方の手で奏ちゃんの頭にゆっくりと手を置いた。



「あのね、お姉ちゃん」

「うん」

「お父さんとお母さんが死んじゃって、それからお兄ちゃんが私の為に必死で頑張ってるの、分かってる」

「うん……」

「分かってるよ、心配してくれてるのも、大事にしてくれてるのも。……でも先輩を悪く言ったのはどうしても許せなくて」



 どうやって顔を合わせたらいいか分からない、と奏ちゃんは私に寄りかかるのを止めて顔を上げた。



「お姉ちゃんお願い……お兄ちゃんの様子、見て来てくれない?」

「分かった、任せて」



 力強く頷くと、奏ちゃんは安心したようにようやくちょっとだけ笑った。


 翔一君の部屋は奏ちゃんの部屋の奥にある。彼女の部屋を出て一度深呼吸した私は彼の部屋の扉をノックしたのだが、一向に返事はない。そもそも物音ひとつしなかった。

 いつの間にかどこかへ行ってしまっていたのだろうか。そう思いながら階段を降りていくと、リビングの方で物音がした。



「え、翔一君」



 思わずリビングの方へと顔を覗かせると、そこにはソファに座り込んで酷く落ち込んだ様子の翔一君がいてものすごく驚いた。何しろ明かりも一切着いていなかったのだから。



「電気もつけずに何してるの……」

「……鈴音」



 どうりでこの家に入った時も気付かなかった訳だ。私がリビングの電気をつけると、憔悴した様子の翔一君がこちらを見た。酷い顔だ、大嫌いと言われたのが相当きているらしい。

 似た者兄妹だな、と思いながら私は彼の傍に行こうとして……その前に一つ思いついてキッチンへと向かった。

 勝手知ったる他人の家だ。私はホットコーヒーを入れるとそこに砂糖とミルクをたっぷり入れてリビングに戻った。



「とりあえず、これでも飲んで落ち着いて」

「……ありがとう」



 大人しくコーヒーを受け取った翔一君の隣に腰を下ろす。今はわざわざブラックコーヒーを飲んでいるが、本当は砂糖もミルクもたくさん入れた方が好きなのを知っている。会社でブラックが飲めないのが恥ずかしいと思ったのか、それとも急いで一人前になろうと背伸びしているのか、理由は聞いていないけども。


 他に何も物音もせず、ただコーヒーを啜る音だけが小さくリビングの中で聞こえて来る。しばらくしてその音が止んだのを気付き隣を見ると、カップの中は空になっていた。



「少しは落ち着いた?」

「ああ……その、奏はどうしていた?」

「そうだねえ、お兄ちゃんの様子を気にしてたかな」

「……そう、か」



 私がそう言うと、翔一君は目を瞬かせて少しだけ暗い表情を和らげた。



「ねえ、翔一君」



 二人の話を聞くことは出来る。だけどそれ以上に兄妹のことに口を挟むのはどうだろうか。そう少し逡巡したものの、結局私は口を開いていた。



「私は二人の兄妹じゃないけど、翔一君も奏ちゃんのことも大好きだし大切だよ」

「それは、勿論俺もだ」

「ありがとう」



 ちょっと照れたようにそう言った翔一君に、私も照れてしまいそうになる。けど、そのまま話を続けた。



「うん。だからさ、二人のこと悪く言われたら私絶対に怒るよ。奏ちゃんだってそう、奏ちゃんにとってあの男の子が大切だったから、悪く言われて怒ったんだよ」

「……」

「奏ちゃんが自分で好きになった人なんだから、少しは信じてあげてよ」



 翔一君が酷く難しい顔をする。口が小さく開いたり閉じたりを繰り返し、じっと何かを言うのを待っていると、彼はややあってから溜息を吐いた。



「すぐには、無理だ」

「……翔一君の頑固」

「でも、奏には謝る」

「そっか。……そういうことみたいだよ、奏ちゃん」



 そう言って私は廊下へ繋がる扉に目を向けた。「え」と声を上げた翔一君はやはり気付いていなかったようだ。途中から奏ちゃんが階段を降りて私達の方を窺っていたことを。



「奏」

「お、お兄ちゃん。あの」



 おずおずとリビングに入っていた彼女はテーブルを回って翔一君の近くへ来ると、大きく頭を下げた。



「大嫌いなんて言ってごめんなさい!」

「奏、俺も……勝手なこと言って悪かった」

「本当はお兄ちゃんのこと、大好きだから……ごめんなさい」



 翔一君が静かに微笑むと、奏ちゃんも笑った。泣き腫らした目が痛々しいけど、ようやく兄妹の仲が元に戻ったのだ。私も思わずほっとして胸を撫で下ろした。



「お兄ちゃん……それで、先輩のことだけど」

「それとこれとは別だ」



 安心してそろそろ帰ろうとソファから立ち上がった私だったが、しかし続けられた会話に思わず動きが止まった。

 先ほど落ち込んでいたとは思えないほどばっさりとそう言った翔一君に、奏ちゃんも一瞬呆気に取られていた。



「な、なんで! 先輩すごくいい人なんだから!」

「あのな。その先輩がどういうやつかは分からないが、そもそも高校生で彼氏なんて早いと言ってるんだ! 卒業するまでは認めない!」

「何それ! そんなの大学生どころか社会人になっても彼女の一人も出来ないお兄ちゃんにだけは絶対に言われたくない!」

「なんだと?」

「私だってもう子供じゃないんだから! 一人で出来ることもたくさんあるし、お兄ちゃんも私に構ってばっかりじゃなくてちゃんと自分のことを考えて、周りを見て欲しいの! 特に隣とか隣とか!」

「か、奏ちゃん……」



 隠す気もなく思い切り私の方を見る奏ちゃんに思わず頭を抱えたくなる。動揺していると、奏ちゃんは再度翔一君の方へ視線を移して「大体……」とまるで彼を叱るように目の前に指を突きつけた。



「私よりお兄ちゃんの方がずっと心配だよ! いい年して未だにお姉ちゃんと二人になると緊張して、とりあえず私の話題で場繋ぎしてるの知ってるんだから!」

「お、おい何でそれをお前が」

「お姉ちゃんに愛想尽かされても知らないんだから!」



 奏ちゃんの言葉に翔一君が目に見えて動揺する。え、何それ、本当なの……?

 反射的に翔一君を見上げると、ちょうどタイミングよくばっちりと視線が合った。思わず顔が熱くなって慌てて目を逸らすと、全く同じタイミングで翔一君が同じことをしていたのが見えた。



「……まったく、二人とも手が掛かるんだから」



 そんな私達を見た奏ちゃんが、妙に大人びた口調でそう言ってため息を吐いた。













「二人とも、おはようー」



 翌日の朝、妙に早く目が覚めてしまった私はいつもより早く自宅を出て隣の家へと向かった。が、扉に鍵は掛かっていたし、合鍵で扉を開けてもいつものように声が帰って来ることはなかった。



「奏ちゃん、翔一君?」



 いつもテレビが着いているリビングも静まり返っている。これはもしや、と私は荷物を置いて階段を駆け上がると奏ちゃんの部屋の扉をノックした。



「奏ちゃん」



 返事はないが、ごそごそと何かが動く音がする。一声掛けて扉を開けると、ベッドの上で気持ちよさそうに眠っている奏ちゃんがいた。

 いつもよりも早く来たと言っても、本来なら奏ちゃん達はもう起きてる時間だ。昨日遅くまで色々あったので疲れて寝坊してしまったのだろう。



「奏ちゃん、起きないと遅刻しちゃうよ」

「う……うん……もう五分」

「駄目だって。ほら、起きた起きた」



 掛け布団を体から退かすと、奏ちゃんは薄っすらと目を開けてぼんやりと私を見た。



「あれ、お姉ちゃん早いね……」

「私もちょっと早いけど、奏ちゃんは遅いからね」

「……え」



 その言葉でようやく頭が覚醒したようで慌てて時計を見る。奏ちゃんは悲鳴を上げんばかりに「や、やば!」と声を上げて慌ててベッドから飛び起きた。



「ごめんお姉ちゃん!」

「朝ごはんは準備しておくから早く着替えて準備してね」

「ありがとうー!」



 どたばたしながら制服を引っ張り出す奏ちゃんを見ながら部屋を出ると、さて次は、と更に隣の部屋をノックした。



「翔一君、起きてー!」



 言いながら時間が惜しくて扉を開けると、案の定まだ夢の中だった。いつもは寝坊してもどちらかが起こすのに、今日に限っては仲良く寝坊である。



「翔一君、起きないと会社遅れるよ!」

「奏……あと五分」



 こんなところまで似なくてもいいのに! というかそもそも奏ちゃんと間違えられている。



「奏ちゃんはもう起きてるよ! 私も朝ごはんの準備するから早く起きなって!」



 そう言って思い切り体を揺さぶると、ようやく閉じられていた目が開いて私を捉えた。

 その瞬間、眠そうだった目が一気に大きく見開かれるのを見た。



「は? す、鈴音? なんで」

「二人とも寝坊してたから。ほら、翔一君も起きて」

「あ、ああ……悪い」



 くしゃり、と前髪を押さえて俯いた翔一君を見て、私は朝ごはんの支度をするためにそのまま彼の部屋を出た。

 ばたん、と扉を閉めた瞬間、私は自分の顔を押さえた。ちょっと熱い。翔一君の前では必死に動揺を隠していたが、昨日のやり取りが頭の中を過ぎってしょうがなかったのだ。



 食パンをトースターに入れて目玉焼きとウィンナーを焼く。そして一人分のコーヒーを準備していると、階段を降りて来る足音が聞こえて来た。話し声も聞こえるので二人一緒らしい。



「お姉ちゃん今日はごめんね」

「いいけど……二人そろって寝坊するなんて初めてだね」

「だ、だって昨日は色々あったし……」



 少し跳ねた髪をしきりに触りながらそう言った奏ちゃんに小さく笑う。



「もう出来るからちょっと待っててね」

「はーい」



 奏ちゃんの元気な声を聞きながら目玉焼きを皿に移していると、ちょうどトースターが音を立てると共にコーヒーメーカーも動きと止めた。



「俺がやる」

「ありがとう」



 と、キッチンへやって来た翔一君が自分でコーヒーを注ぎ始めたので、私はお礼を言ってトースターの方へ向かう。



「今日はブラックでいいの?」

「いつも、そうだろう」



 少し揶揄うようにそう言ってみると、翔一君はちょっとだけ不貞腐れたような顔をした。



「……ふふっ」



 こんがりと焼けたトーストを皿に乗せていると、不意にリビングから奏ちゃんの笑い声が聞こえて来た。ちらりと彼女の方を窺うと何故かとても楽しそうな顔をしている。



「どうかしたの?」

「なんか、二人とも新婚みたいだね」

「な」

「……え!?」

「あーあ、早くお姉ちゃんが本当のお姉ちゃんにならないかなー」



 くすくすと笑いながら奏ちゃんの言った言葉に、私も翔一君も動きを止める。か、奏ちゃんいきなり何言ってるの!?



「……なあ、鈴音」

「何!?」

「あ、いや」



 翔一君に呼ばれて思わず過剰反応してしまう。恐る恐ると彼を見上げると、翔一君はちょっと顔を赤らめながら、視線をうろうろと忙しなく泳がせていた。



「この前どっか行きたいって言ってただろ? 今度の土曜日、久しぶりに映画でも見に行こうか……その、たまには二人で」

「二人、で」

「嫌だったら別に」

「……うん、行こっか」



 思わず顔を緩ませて頷くと、翔一君は酷く安心したように肩の力を抜いて締まりのない笑みを浮かべた。


 映画には奏ちゃんが選んでくれた服で出かけよう。翔一君はどんな反応をしてくれるだろうかと、私は今から楽しみになって顔を綻ばせた。




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― 新着の感想 ―
[一言] 素敵ないい話ですね。タイトルからはドロドロを期待してたのですが。
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