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アロンアルファは話をきいていない

作者: 柑橘ミント

 どうしてそんなことをしたのかって?


 はぁ、そうですか。黙秘権? ったく、全くもってくだらない。そんな犬も食わないような権利を行使したところで、この世界が往々にして耽溺しているエゴイズムに付き合わされるのが関の山さ。やってらんないね。だからさ、ホラ、杓子定規な体裁なんて抜きして煮るなり焼くなり好きにすればいい。俺はジャンヌダルクの生まれ変わりだからね。ふざけるなって? それは心外だな。こう言っちゃなんだけど、俺は生まれてこの方、ふざけたことなんてただの一度もないってのにさ。享楽的に日々をマヌケに生きてるのはあんたらのほうじゃないか。


 正直者がバカを見る。痛快愉快な世の中だろう? あんたらの作った世界さ。


 あぁ、そうそうボンドね。はいはい。いや、ボンドじゃなくてアロンアルファ。だって速乾性じゃないと使い物にならないっしょ。ちなみにボンドもアロンアルファも一般名詞じゃなくて登録商標だからね。ここ、重要だからちゃんと記録とっといたほうがいいよ。なんだって? 別に煙に巻いちゃあいないよ、失礼な。これくらい『法律を扱う人間』からしたら常識じゃないのかい? 六法全書っての? よく知らないけどあの鈍器みたいなやつね。人間って奴ぁとかく縛られるのが好きみたいだからさぁ。うん、俺はそういうのを俯瞰で見られるからさ、可笑しくって。難儀なもんだよマジで。そんなものを隅から隅まで頭の中に入れてる連中ってのが財を成すってきたものだから、ステキにイカレた世界じゃないか、そうは思わないかい? あぁ、少しも思わないって顔してるね、はいはいはい。


 カツ丼は出ないって? そうか、殺人犯じゃないものな。器物損壊じゃあ絵にならないか。しかし、こんな瑣末な事案に目くじら立てて、ご苦労さんですよ。ま、犯罪に貴賤をつけるようになったら警察もオシマイだろうけど。


 しかしなんだ、滑稽だとは思わないか? えぇ? 動物だって命があるんだぜ? それをモノみたいに扱う法律なんて正気の沙汰じゃあないじゃないか。アンタのその不恰好な眉にそんなに皺が寄っているのは、正義の印かい? 俺にはとてもそうは見えない。忠義なんてのは判断を放棄するための体のいい言い訳ってもんさ。猫のほうがよっぽど自由でいい。法律が『殺せ』と判断したら命令通りに殺すんだもんな、アンタらは。処刑場って死刑囚が首を括ったあと、床が抜ける仕掛けだって聞いたことあるけど、そのスイッチを複数用意して、わざわざ誰が下手人だったのかわからないようにする配慮があるそうじゃないか。噴飯ものだよ、ったく。どんなギミックを使ったって人を殺すという真実に変わりはないのにさ、そうまでして現実から目を背けて卑しく生き続ける人類ってやつぁ、つくづく、救いようがないよね。


 え? 話が逸れているって? そりゃあね、その俗悪な顔をこう何時間も網膜に突きつけられちゃさ、こっちはもう脳髄が壊死しそうな勢いなわけよ。話ってのは聞き手の技量によるところは大きいんだぜ? あんたもこんなところでこんなチンケなことして飯食ってるくらいだから、コーチングくらい心得てるんじゃないのかい? いや、教えるほうじゃないよ、いや、もういい。


 あーはいはい。わかってます、わかってますって。猫ね、あの猫。ありゃあ彼女がそれはそれは可愛がっていたよ。なんて名前だっけ。毛並みが綺麗な三毛猫だったし、ミケだったかな。いや適当だけどさ。ねこじゃらしにもろくに反応しない、猫としては張り合いのない奴だった。ぶくぶく太っててさ、どんだけ甘やかされて育ったんだよって。


 彼女との馴れ初め? えーと、彼女は大学の同回生で、学部は違うんだけど、一般教養科目ってあるでしょ? うん、それで一緒だったわけ。


 まぁ、大学では授業が一緒ってくらいで仲良くなるようなことはないんだけどさ。グループってあるよね? そういうのをアメーバみたいに構築して複雑怪奇なソサエティってやつを形成する場所だからさ、大学って。まぁ大学じゃなくても一緒かもしれないけど、大学ってところは他の社会よりも露骨にそれが見えるんだよ。醜い利害の一致、あるいは不一致だけで活動できる粋で不気味な正にレジャーランドさ。でもそういうグループってなにもしなくても自然に創られるかって言ったらもちろんそんなことはなくて、こちらから能動的に働きかけて、相手の了承を得て、はじめて成立するものなんだよね。『私はこんな人間です、どうですか?』って探りを入れて、それに対して相手が『私はこういう人間ですよ。大丈夫、コミュニケーションが取れそうですね』って返して、そうやってお互いに“信頼された状態”になってからがスタート。こういうの、情報通信業界では『プロトコル』っていうんだけど。プロトコルなんて言い方しても、アンタたちはそういうの、あまり知らないだろうけどさ。ともかく、その最初の段階でエラーが出ちまったらそれまでなんだ。もちろん、俺の通信パケットには誰も応答してくれなかったよ。


 そんな感じだったから、俺、大学で友達とかいなかったんだよね。でもそれって、大学では別に珍しいことじゃない。全自動人間関係構築システムが稼動していないコミュニティに於いて孤立するということは極ありふれた現象なんだ。そうだよ、現にいわゆる『ぼっち』と呼ばれる人種なんてざらにいたからね。ぼっちだとコミュニケーションを取らない分、脳のCPUリソースが余るのかな、周りに対するアンテナみたいなものがより鋭敏になって、いろんな情報をキャッチできる。誰と誰が付き合っただの別れただの、そういうことについてはリア充の奴らよりむしろ詳しかったと自負しているよ。パケットキャプチャーソフトを使ってるような感覚かな。あれ、自分宛じゃないパケットも洪水みたいに入ってくるから。え? ハッキング? そういうんじゃないって。物理層のネットワークでは自分宛かどうかを判別しないで常にブロードキャストするように決まってるんだよ。『OSI階層モデル』でググってみればわかるよ。わからなくても生きていくのに何一つ困らないだろうけど。


 だからまぁ、彼女のことについても一方的に情報は仕入れていたよ。いや、意図的に仕入れたつもりはないんだけど、まぁ入ってくるからね。


 顔は、まぁ正直好みだったよ。小動物みたいに黒目がちな瞳がこっちに向くたびにドキドキしてた。あれ? これって片思いってことになるのかな? どう思う? あ、いいよ答えなくて。そのだらしない口角からは、どうせろくでもない答えしか漏れてこないってことくらい、こんな俺にだってそれくらいの想像力はあるさ。


 大学の授業ってさ、単位を取るためにあるんだよ。本末転倒だよね。でも、世の中それで上手くまわってるんだから、彼らにとっては居心地の良い仕組みなのかもしれないけど。とにかく、学生は日夜単位を取得するためだけに東奔西走するわけだ。先輩から教授の授業の厳しさをリサーチしながら履修する授業を選択したり、ノートという名の聖書をテスト前に猛スピードで回覧したりね。でも、ぼっちはそれをするための人脈がないから、自らの頭脳でもってこれに挑まなければならない。これは想像以上にハードモードだったよ。だって、授業の難易度がそういう不正<チート>を前提として設定されているんだからね。自分ひとりで授業に出て単位を取る。それだけで既にある種の縛りプレイみたいなものだったんだ。マリオを普通にクリアするのと、キノコを一度も取らずにクリアするのとの差くらいはあるんじゃないかな。


 で、そうなると必然的に授業は休めなくなる。俺は別にそれを苦とはしなかったけどね。だってわざわざ高い授業料払って大学に通ってるわけだし、授業の単位時間に換算したら一回欠席するのですらすごく勿体ない。まぁ休んでる奴らは遊んだりバイトするための時間のほうを惜しんでたみたいだけどね。大学なんて入らなければそのバイト代くらいのお金が浮くはずなのに、つくづく彼らの行動は理解に窮するよ。


 彼女と一緒になった授業は、出席点とテストをそれぞれ五十点満点で、七十点以上が可、八十点以上が良、九十点以上が優になるものだった。この出席点というのが遊びたい連中からすると厄介でね。テストだけ満点を取っても単位はもらえないんだから。


 でもそれすら抜け道が存在する。うんそうだよ、いわゆる代返だよね。出席を取るっていっても小学生みたいに全員の名前を呼んだりするわけじゃないからね。回ってきた出欠表に名前を書くだけときたものだから、まぁ筆跡鑑定でもしない限りどうとでもなる。アハハ、そのへんはアンタたちの得意分野だよね。機会があったら監査でもしてみるといいよ。きっと叩けば埃はいくらでも出てくるだろうから。あ、でも出てきた埃をきちんと片付けるほどの余裕が今のアンタたちにはないかもね。仕方ないさ、綺麗な川には魚は住めないっていうだろう?


 話を戻すけど、ここでひとつ問題が発生したんだよ。


 それは、代返をするにしても『名前を書く人間が教室にいなければならない』ということ。授業をサボって遊びに行こうとしても、誰か一人を取り残すというのは彼らなりに人道に反する行為なのだろうね。そういうことにはとにかく神経を遣うみたいだからさ。その百分の一でも勉強に遣えばもっとこう、もっと違ったろうに、なんてことは俺みたいな空気の読めないキチガイの言い分さ、フフ。


 ともかくまぁそんなこんなで、俺のようなぼっちにようやくお鉢が回ってくる。人間心理って不思議だよね。自分たちの仲間以外の人間の気持ちなんてどれだけ踏みにじっても痛くも痒くもないってんだから。仲間に対しては過剰なまでの仁義を尽くすってのにさ。つくずくニンゲンってやつぁ動物的だと思うよ。あぁ、そうだよ。俺が彼女たちのグループの代返役だったんだ。


 いつもは俺なんて彼らにとっては美術準備室の片隅で全裸で澄ましているダビデ像くらいにしか思われてなかったはずなのに、その日に限って声をかけられたんだよね。それも妙に親しげに。


 三回目の講義のときだったかな。彼らも大体単位を取るための要点を掴んだんだろうね。そして俺というターゲットについてもその狡猾なる観察力で注意深く選抜したのだろうと思うよ。こいつは使える奴だ、そう判断したんだろうね。参っちゃうよ、まったく。


 俺は正直不意のコミュニケーションにキョドってしまったんだけど、それすら彼らにとっては計算済みみたいな感じだったよ。こういうことに関する彼らの頭の回転の速さにはほんと、脱帽する。それが絶対に勉学には向かわない、確固たるバカさ加減も含めてね。あれは確か男女合わせて七人くらいのグループだったと記憶してるけど、その中でもリーダー格っぽい男から突然話しかけられたんだ。


「たりーよね、この授業」

「ぇ、ぅ…」


 情けない話だけど、他人と会話するときは綿密なシミュレーションを施してからでないとダメなんだ、俺。今は流暢に話せてるのが不思議なくらい。一線を越えたからかな、アハハハ。


「出席点あるらしいじゃん、これ。でも毎回出席なんてやってらんないっしょ。だから、取引しようよ」


 髪の毛を台風に真下から突き上げられたみたいな形にセットした男が、まくしたてるようにそう言ったんだ。こっちの判断する隙を与えないくらいに首尾よくね。おそらく、こっちの脳みそが処理能力の限界を超えちまうことまで折り込み済みだったんじゃないかな。でまぁ、あっさりと契約成立ってことで、彼らと一回毎に代わりばんこで授業に出て、それぞれ代返することになったわけ。


 今思うと、この時点でなんかおかしいんだけどね。こっちは一人なのに、あっちは七人でしょ。別に名前書くだけだから何人だろうと変わらないんだけど、そのときはなにか理不尽な不平等条約を締結されたような気分だったね。まぁ結果的には不平等条約どころじゃなくて、完全な植民地化だったんだけど。


 しかしまぁこっちとしては、別に授業に出ること自体が苦痛ではなかったから、その次の週も普通に出たかったんだけど、でも契約してしまった手前、出るのも憚られるじゃん? だからまぁ、「今週はよろしく」くらいのことを彼らに伝えようと次の週も講堂に入ったんだ。


 そしたら「ごめん!」って例の男が平身低頭、いきなり謝ってくるものだから、こっちとしても出鼻を挫かれたよね。綿密に想定していた会話の流れが不意の一言ですべて水泡に帰して、頭の中が真っ白になった。そういうことまで計算ずくなのかな? あぁいう手合いは。


「ほんとうに申し訳ないんだけど…」


 そんな枕詞をつけながら、彼らは今週はどうしても外せない用事があるとかで、悪いけど今週も代返をお願いしたい、という旨の内容を喋っていたと思う。俺も別にそこは利害が一致したし、快く引き受けたよ。


 ところが、その翌週。


「今週も、ごめんよろしく」


 今度はえらく簡素なお願いの仕方になったもんだ。「どうせお前用事ないんだからいいだろ」という心の声が読み取れるくらい。そこまでのやり取りで彼らは完全に俺を下の立場に位置づけたんだろうね。俺のほうでも「あぁ、下についたんだ」ということを自然と自覚できるんだから人間関係ってやつは不思議だよ。サル山のサルが自然に上下関係になるようなものなのかな。でも考えてみれば人間だってヒエラルキーが大好きだよね。四民平等、なんて言ったってヒエラルキーを構成する指針が家柄から本人の人格に変わっただけだもの。福沢諭吉にわざわざ苦言を呈してもらわなくたってみんな自然と人の上にも下にも人を作りたがるんだよ。


 正直、屈辱的だった。毎回授業に出ることそれ自体は全く問題ないのに、明示的に自分がそういう階層に位置づけられたということがね。でも原因の半分はそれを受け入れた自分にあるのだからと、甘んじてその立場を受け入れたんだ。


 彼女がやってきたのは、テストのある最終回の一つ前の回の講義だったかな。その頃にはもう「よろしく」とすら言われずに、ただ暗黙のうちに俺は彼らの名前を出欠表に書くというルーチンワークをこなしていたっけ。


 講堂は広かったし、俺はいつも一人で五人くらい座れる長机を独占していたから、まさか隣に誰かが座るなんて思いもよらなかった。空席なんてほかにいくらでもあったわけだし。


「江藤君、いつも代返ありがとうね」


 そんなことを言いながら、彼女は自然な動作で俺の隣に座った。彼女が椅子に腰掛ける瞬間、セミロングの髪がふわりと舞って、とてもいい匂いがしたのを覚えてる。免疫がなかったんだよ、匂いにも、女の子とのそういう距離感にも。


「あ、いや。俺、あの…」

「ん?」

「うん。この講義、結構面白いから…」

「そうなんだ。私もちゃんと出ておけばよかったかなぁ」

「…今日は、どうしたの?」

「いや、来週テストじゃん? 先輩からノートは借りたんだけど、正直ちんぷんかんぷんで。それで、ちゃんと授業に出たら少しは理解できるかもって。まぁ、今更なんだけどさ」


 破顔した彼女の視線は真っ直ぐに僕に注がれていたもんだから、そりゃあ目を逸らしたよ。お察しの通り、この時点で惚れてたね、うん。


 このときばかりは授業に集中できなかったよ。横目でチラチラ彼女のことばかり追いかけてた。彼女は真剣そうに講義を聴いて、一生懸命ノートを取ってた。そのときの正直な感想だけど、とても講義をサボって遊び歩いているような不良学生には見えなかったよ。


 なんだかよくわからないままに講義は終わって、俺は立ち上がって、彼女に声をかけようかどうしようか少し逡巡したんだけど、なんて言葉をかけていいのかわからなかったからそのまま立ち去ろうとしたんだ。彼女はまだ板書を書き写している最中だったし、そしたら、


「あ、待って!」


 って引き止められた。不意の呼び止めにどう反応していいかわからず、しどろもどろしていたんだけど、


「講義、ついていけてる?」

「うん、まぁ、なんとかね」

「そっか…。私、全然わからなかったよ…」

「確かに今回の内容はこれまでの講義で証明した公式に基づいた理論の説明だったから、突然今回だけ出席しても理解するのは難しかったかもしれない」

「うぅ、そうなんだ…」


 そんなこんなのやり取りが続いた。彼女は何か思案しているようだった。一方の俺はその沈黙にすら狼狽していたから、さっさとその場を立ち去りたかったよ。


 でも、彼女の言葉は止まらなかった。


「あのさ、テストの過去問持ってる?」

「いや、ないけど」


 ぼっちの俺にそんなものを手に入れる経路があるはずがないよね。


「私、持ってるんだけどさ。それと交換で、ちょっと講義の内容教えてくれないかな」


 悪くない提案だった。けど、そのときの俺はその取引の損得を勘定する余裕なんてもちろんなかったから、また答えに窮してしまった。


「ダメかな」

「…いいけど」


 はい、交渉成立。あっけないね。チョロすぎる、俺。俺が幕末の外交官だったら今頃日本人は英語を喋ってたかもしれないな。


 そんなこんなで、これまでの講義で俺が取ったノートを使って、少し説明する時間を取ることになったんだけど、彼女はこれからバイトが入っているからって言って、連絡先を交換して、後日改めて会う約束をしたんだ。


 有頂天だったね、正直。こういうのデートっていうんじゃないのって。場所はファミレスだったんだけど、そういうのも庶民的でいいなって。当日まではとにかくあることないこと妄想に明け暮れて約束の日まで過ごしたよ。


 前日の夜は緊張してほとんど眠れなかったっけ。当日も朝になってから、着ていく服をどうしようかなんて悩んでしまって、でも普段適当な服ばっかり着てたから、もちろんオシャレな服なんて持っていなかったわけだけど、それを当日まで気づかなかった自分の浅はかさを呪ったりした。俺のセンスじゃあいずれにしろたかが知れていただろうけどね。とりあえずチェックの服はオタクくさいなんて意見をネットかなんかで読んだような気がするから、とにかくそういうのを避けて、みたいな感じでグダグダ準備して出かけていった。今となってはもう何を着て行ったかなんて思い出せないや。


 彼女はレースの白いワンピースにネイビーのエナメルベルトを合わせて、つばの大きめな麦藁帽子を目深にかぶって現れた。最近の異常気象? のせいかな、やたら暑い日だったのを覚えてる。


 ファミレスは冷房がかかっていて天国だったよ。しかも、彼女と一緒なんだからね。何名様ですか、って訊かれて「二名です」って言うだけなのになんかニヤけてしまったときたものだから、微笑ましいよね、我ながら。


 彼女は理解が早かったよ。俺はお世辞にも他人に何かを教えるのが得意ではないほうだと自覚してるけど、彼女がとてもいいタイミングで相槌を打ったり、的確な質問を返してくれたりしたから、とてもやりやすかった。


 一通りやり終えて、ドリンクバーで粘るのもそろそろ体が水分で一杯になってクラゲにでもなってしまいそうに思えてきた頃にね、不意に彼女は俺の持っているクリアファイルに水を向けた。


「猫、好きなの?」

「え? あ、うん」


 やっぱり突然のコミュニケーションは苦手な俺。別に大して好きでもないのに首肯してしまった。犬か猫かなんて陳腐な問いがあれば猫であることは間違いないんだけどね。


「猫、好きなの?」


 俺は同じ質問を彼女に向けたんだ。そういう感じで会話をするのが自然な流れなのかなぁと試行錯誤しながら。


「うん。飼ってるんだ」

「へぇ」


 へぇ。『へぇボタン』なんて昔流行ったよね、そういえば。でもそのときは言ってしまってから気づいたんだけど、会話の中でへぇなんて言ってしまったらそこで流れが終わってしまうんだね。で、へぇなんて言葉の無責任さに対して理不尽な怒りを覚えたものだよ。なにがへぇだ。考えた奴、死刑。


 話すべき話題、つまり講義のことをレクチャーし終えてしまったら、もう何をどうやってコミュニケーションを取ったらいいかなんてわからない。沈黙。


「出ようか」


 彼女が口火を切った。こういうタイミングで出るのが正解なのかとか、わけのわからない教訓を得て、少し寂しい気持ちもあったけど、いやホントは大いに寂しかったけど、そのときは他にどうしようもなかった。


「ありがとうね」


 別れ際にお礼を言われた。


「え?」


 なにが、え、なんだろうな。他に言いようがなかったもんかと、今にしては感じるけど。


「いろいろ教えてくれて。あとみんなの分も代返してくれてありがとう。私から代表してお礼」


 お礼の理由に関してはなにやら腑に落ちない部分もあったけど、彼女と言葉を交わせるならなんでもよかった。


 彼女とは、それからメールのやり取りをするようになった。猫の写メが送られてきたり、俺が代返していた奴らが無事試験をパスしたことを報告してもらったり。あとは取りとめもない日常のメール。でも、彼女からのメールの文字数で俺のテンションは乱高下していたんだな、その頃は。


 幸福っていうの? もちろん字も言葉も知っていたけど、実感がなかったというか、要は実体験が欠落していたんだな。クリスマスにプレゼントを貰ったり、入試に合格したりしたのは確かに嬉しかったけど、でも『幸福』と呼ばれているものとはちょっと違う。まぁ、彼女を知るまでは幸福はその程度の感情なのだと思っていたんだけどね。彼女とコミュニケーションを取ることによって、俺はその一段上の感情を経験したんだ。角砂糖より甘いお菓子のような、いつまでも終わらない夢のような、なんて表現したらちょっとロマンチックすぎるかな? でも、決して大袈裟じゃなくそれくらいの気持ちだった。最初はそのあまりの魅力に尻込みしてしまっておっかなびっくり触れてみて、そしてそれから、あぁ、これは罠なんかじゃないんだ、俺用に用意された、ちゃんとした幸福なんだ、って理解できてようやくさ。


 つまり要するに、俺は幸福になったんだ。


 きっかけは、俺が「早川さんの猫を見てみたい」ってメールしたところからだったかな。それからはトントン拍子で話が進んで俺が彼女の家を訪問することになった。猫を飼っている、って言ってたからてっきり実家暮らしなのかと思ってたんだけど、どうやら一人暮らしで、ペット可のマンションに住んでいるということもわかった。


 俺が緊張して呼び鈴を鳴らすと、彼女はTシャツとショートパンツという、この間よりも少しくだけた部屋着のような格好で出迎えてくれたよ。彼女の背後からは、件の猫、脂肪をたっぷりつけた目つきの悪い三毛猫が、来客なんてさも興味なさそうにあさっての方向を見つめながらてくてく歩いてきたわけだけど。もちろん俺は猫を目当てにしてきたわけじゃないから適当にあしらっていたんだけど、彼女から麦茶を振舞ってもらってそれをちびちびやっていたら足元に擦り寄ってきたんだよね。「ミケが懐くなんて!」って彼女は吃驚してた気がする。自分以外には滅多に懐かないんだって。きっと江藤君は特別なんだね、って。え? 猫の名前はシャルルだって? どうでもいいじゃないか畜生の名前なんて。話の興が醒めるよ、まったく。


 あ、でも、コミュ障の俺が噛むことも話題に窮することもなく彼女といい感じに話すことができたのは、今思えばあいつのお陰だったかもしれないな。シャルルが二人の間の、というよりは俺の頭の中のギアの潤滑油みたいな存在だった。猫も使いようだよね、アハハ。


 お酒でも飲もうか、って言い出したのは彼女のほうだったな。彼女のマンションは一階がコンビニだったから、二人で適当にビールとか酎ハイとかお菓子とか買ってね、彼女の部屋で乾杯したんだ。それにしてもみんな矢鱈に乾杯とかするけど、一体何の意味があるんだろうね? 昔はお互いの杯に毒が入ってないか確認するための儀式だったなんて説もあるらしいよ。人間って奴ぁどこまでいっても滑稽なもんだね。


 酒が回ると饒舌になるのは、女も同じらしいね。俺は酒を飲んでも元々のコミュニケーションスキルがないから大して変わらなかったけど。ゼロになにを掛けてもゼロだからね、わかりやすくていいだろ? でも、そのときは彼女が勝手に喋っている内容に相槌を打つだけでよかったから、楽なもんだったよ。俺には話好きの気持ちはわかりかねるんだが、話をする奴っていうのはただ単に相槌だけを求めているものらしいね。そんなんでいいならボーカロイドにでも話しかけてればいいのに。


 彼女は友達の話や家族の話なんかをのべつまくなしに語っていたけど、そのうち恋愛の話になっていった。もちろん俺はそういう方面の経験というのが同年代の奴らと比べて著しく不足していたから、そのまま聞き役に徹していたわけなんだけど。


 彼女のほうは俺の贔屓目を置いておくにしても美人なほうだったし、そして女はただ容姿が優れているというそれだけの理由で、男に不自由しないものだということも俺は知っていた。だから、彼女が人並みの経験値を有していたこと自体はそれほど驚くこともなかったよ。でも、最後の男に捨てられたときの傷心からまだ立ち直っていない、ということも同時に知ってしまったんだ。ミケ…いやシャルルね、はいはい。シャルルを飼い始めたのも、そんな心のスキマを埋めるため、というじゃないか。


「早川さんみたいないい人を捨てるなんて考えられない」


 酔っていたのかな、俺も。そんな台詞、人生ではじめてだったし、もちろん自分で自分の言葉が信じられなかったさ。


「江藤君、優しいね。江藤君の彼女になる人は幸せだよ」


 彼女を幸せにできるのは俺しかいないと思ったよ。うん、バカみたいだけどね。俺のうだつのあがらない人生はすべてこの時のためにあったのだ、なんて、いい気になって、鬱陶しそうにヒゲをもごもごさせているシャルルを無理やりに撫で回したっけ。


 で、それっきりさ。


 え? なに、その話の続きを期待するような表情は。それっきりなものはそれっきりだよ。脈絡? さぁ、知らないよ。


 その日を境に、彼女は音信不通になった。


 こんな言い方をすると、彼女は行方不明にでもなったんじゃないかと曲解されそうだから付け加えておくけど、彼女は別にどこにも行きはしなかったよ。大学にもちゃんと来てたし。ただ、俺からのメールには一切返信が来なくなった。


 意味が解らなかったよ。何かの手違いでメールサーバに障害が発生してるんじゃないかとか、勘ぐってみたけど、そういうことは一切なくて、ただ、俺のメールを彼女が無視している。それだけだったんだ。


 それでも、何かワケがあるんじゃないか、そう思って大学で彼女に話しかけようと何度も思ったんだけど、でもね、大学では彼女はいつも取り巻き連中と一緒にいた。彼らのコミュニティに割って入ってまで彼女に話しかける勇気は俺にはなかったんだ。


 悶々とした日々は数ヶ月続いたかな。その間も俺は彼女に様々なメールを送り続けた。「メール、もしかして届いてないですか? 」とか「大丈夫? 元気?」とか。とにかく何か彼女の中に理由を探そうと躍起になってた。


 そんな日々が終わりを迎えたのは、秋頃だったかな。後期の授業がはじまって、学祭の準備とかなんとかで学内もにわかに活気が出始めていたある日のことだよ。


「おい」


 おい、なんて言われたのは生まれてはじめてだったからよく覚えてる。明らかな敵意、っていうのかな。正直、怖かった。


「おい、お前早川に付きまとってるらしいな」


 声をかけてきたのはあの代返を交渉してきた台風男だった。ひと夏を終えてその髪は金色に変わっていたんだけど、高圧的な態度の出所がわからなくて、俺は当惑するばかりだったよ。


「あのさ、これ以上キモいことするようだったら警察に通報するよ?」


 横には仲間の女がいた。そいつからはケバケバしい化粧で一生懸命に自分の顔の造形の醜さを取り繕っているような下品さを感じたよ。


 講堂には彼女の姿もあったので、俺はその姿を目で追ったんだけど、彼女のほうは俯いたまま決してこちらを見ようとはしなかった。怯えるような眼差しはじっと机の一点に据えられたままだったな。


「意味が、わからない」


 俺は精一杯の虚勢を張ってそんなふうに答えた、と思う。


「だからさ、彼氏がいる子にストーカーじみたことすんなって言ってんだよ」


 今度は化粧女が吐き捨てるようにそう言った。

 そして俺はそのまま彼らと目を合わせることもなく教室を後にしたんだ。思えば大学に行ったのはその日が最後だったな。


 その後どうしたかって? 案の定さ、俺は彼女を諦められなかった。いや、それは正確な表現じゃないな。俺は彼女を信じていたんだ。


 取り巻きが何を言ったって、あの彼女が俺にこんな仕打ちをするはずがないって。なにか誤解やすれ違いがあるはずだった。だから、俺はその事実を確かめようとしたのさ。


 これがストーカーっていうのかい? まったく、俺はただ彼女を愛していただけなのに、取り締まられるってんだから世知辛い世の中だよな。ストーカーっていうとよく自分の精子の入ったコンドームを相手の家の前に置いたりとか聞くけどさ、そんな下卑た行為は一切してないんだからね、俺は。ただ二十四時間、彼女のマンションの前に張り込んで、彼女の行動を監視してただけさ。アンタらもよくやるだろ? 張り込みってやつ。


 で、理解した。何日監視しても、彼女のマンションには男の影すらないってことをさ。家に帰ると彼女はいつも一人で、猫とばかり会話していたよ。それ見ろ、って心の中で喝采したね。所詮あんな取り巻き連中には彼女の神聖さがわかってないんだって。


 猫って、犬と違って首輪とかつけないから、ずっと家の中にいるもんだと思ってたんだけど、そうじゃないんだよね。時々外に出て、どこかしら散歩して戻ってきたりする。


 シャルルも、散歩が好きだったみたいで、ときどきマンションの外をふらふら彷徨しているようだった。せっかく張り込んだのだからその動向も追ってみようと考えたこともあったんだけど、これがどうにも必ず途中で見失うんだよね。猫の秘密の集会なんてものがあるって話もあるけど、それだったのかな? どうでもいいけど。


 何日も張り込んでいると、いくら彼女への愛のためとはいえ、俺のほうもさすがに疲弊してきてね。そこで俺は、いつもの通り散歩に出たシャルルに戯れに声をかけてみたんだ。


「なぁ、彼女、一体どうしたんだろうね」


 シャルルはいつもの仏頂面を崩さない。もちろん、俺の質問に答えてくれるなんて殊勝な心意気なんて持ち合わせているはずもない。あるのはクソの役にも立ちそうにない、無駄に分厚い脂肪ばかりさ。けど俺は久しぶりにシャルルのその柔らかい毛並みに触れたくなって、手を伸ばしたんだ。そのときさ。


「な、なにしてるのっ!」


 空気を切り裂くような怒声に驚いて振り返ると、彼女は外に出てきていた。怒りと怯えを孕んだその表情からは、あの台風男や化粧女と同等の、いやそれ以上の厳然として揺るぎない敵意を感じとることができたよ。彼女は身を挺して俺とシャルルの間に滑り込んで、シャルルを抱きかかえたんだ。


「シャルルになにかしたら、絶対に許さないから」


 今にも泣き出してしまいそうな頼りなさと、死をすら恐れぬほどの凄絶な覚悟が入り混じった彼女の強く黒目がちな瞳は俺をその場に釘付けにした。人間、あまりに理解の及ぶ範囲を逸脱した出来事が起こるとあぁなるんだね。俺はただ呆然とそこに立ち尽くしていた。そのときの彼女はこの世のものとは思えないくらい綺麗だったよ。


 それからどうなったって? どうだったっけな、そこから先はつまらない話だよ。その足で俺はホームセンターでアロンアルファを買ってきて、次の日、シャルルの散歩のときにあいつを捕まえて、あの失礼な両眼に塗りたくってやった。彼女、号泣してたよ。“器物”を壊されて慟哭するなんて、滑稽だと思った。そして、そう思ったら不思議と彼女に対する気持ちも醒めてきてさ。凡百な女だなって。飼い猫の目にアロンアルファを塗られたくらいで簡単にアイデンティティを失ってしまうような。もっと言えば男に捨てられたことを引きずって猫を飼ってしまうような、うっかりした女。どうしてそのことに気がつかなかったんだろうな、こんなことをする前に。そしたらこんな“悪アガキ”みたいなことしないでさ、さっさとこの世界に見切りをつけられたかもしれないのに。なーんてね、俺の発言はほとんどが無意味だから、気にしなくていいよ。


 うん、あとはアンタたちの知っての通り。完全犯罪なんて頭にもなかったけど、証拠を残したつもりもなかったのに、こんなに迅速に捕まるなんてね。お見事お見事。


 動機? ハァ、アンタは俺のここまでの名演説を聞いて、そんなこともまだ思い当たらないのかね。ホント、貧困な想像力だな。いや、バカにしているのはアンタのことじゃなくて国家権力という茫漠で脆弱な概念についてだからね。悪く思わないでくれ。


 シャルルに駆け寄って行ったときの彼女の瞳は、あの日、そう、あの二人で飲み明かした夜に俺に見せてくれた蠱惑的な視線、そのものだったんだよ。シャルルは、たかが猫でありながら、俺が死に物狂いで求めても決して得ることの出来なかったそれを簡単に手に入れていた。妬いたんだよ、それに。だから、シャルルには二度とそれを味わえないようになってもらったわけさ。今思えば彼女の眼球を抉り取ってホルマリン漬けにでもしておいたほうがよかったかな。でももう惜しいことをしたとも思わないよ。所詮世界なんてその程度なんだから。


 ふぅ。もうこれくらいで勘弁してくれないか。俺は未成年だからね、どうせ大した刑にはならないんだろ? 大学? そんなもの最初からどうでもいいさ。いずれそろそろ自殺するつもりだったんだから。え? 早まるなって? 早まっちゃあいないさ。十九年間もガマンしてやったんだからさ。むしろ譲歩に譲歩を重ねた寛大な俺を賞賛してほしいくらいだよ。


 なに? 彼女の証言が上がってきたって? そうか、俺のことなんて知らないし、面識もないと? そうかそうか。


 うん、そうだよ。全部嘘さ。作り話にしちゃあよくできてただろう? 俺は彼女と知り合いでもなんでもない。同じ大学っていうのはほんとだけどさ、それだけだよ。


 じゃあなんでシャルルにあんなことをしたのかって? 鈍いなぁ。俺がここまで長々と話してきたのにまだ解らないわけ? 一言で言えば、そうだなぁ、『使命』だよ。腐りきった世界に鉄槌を下すというね。別にシャルルである必要はなかったけど、あいつも運が悪かったよね。ほんとはさ、これからもっと深遠で壮大なる計画があったんだよ。でもホラ、アンタたちの浅薄な行動によってこうして頓挫してしまった。だからもういいんだ。モチベーションも尽き果ててしまったしね。こんな感じでいいかい? 供述としてはまぁ、それっぽいだろ。疲れたしさ、ここらで勘弁してよ。


 でもまぁ、今日はいろいろ話して俺も楽しかったな。アンタ、意外と聞き上手なんじゃないのかい? なんだかイケナイ秘密を二人だけで共有しているような気分だ。フフ、共犯って響きは不服かい? それじゃあ『同志』とでも呼ぼうか。え? いやいや、そんな簡単なことじゃなくってさ、俺に罪があるのなら、それを共有したアンタにも同じ罪があると言えるんだ。世界はそういうふうに出来ているんだからね。


 それはそうとさぁ、たくさん喋ったらお腹が空いちゃったよ。やっぱりカツ丼、頼んでくれないか? 自殺するときには胃袋は空っぽになっていたほうが醜くなくてよいとは思うんだけど、いやはややはり本能には勝てないね。この空腹は、こんなにも猟奇的な犯罪を犯したってのに、まだ自分の中に生物としての正常な部分があるのだと訴えられているようで辟易するよ。ねぇ、食べたいナァ、カツ丼。

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[良い点] 惹き付けるタイトル 惚れた子とネコとのストーリー [気になる点] 読み手視点に立ってもう少し伝わるように書くと良いと思います。 [一言] 読ませて貰いました。ありがとうございました。
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