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Lino Uehara 17:00- (3)

 井手。

 その名前を聞いて、わたしもエリスも萎縮せざるを得なくなった。

 井手譲二とは、元々このブラック・プリンスの店主マスターであり、わたしたちの恩人でもあった。

 親の反対を振り切り、歌手としての夢を追い始めるも、その夢に破れた元大学生。そんなわたしを拾い上げたのは、井手さんだった。闇の街、東京でわたしという一人の人間をすくい上げてくれた恩人だ。しかし、そのおかげでわたしは、隣に立つロックギタリストかぶれのバーテンくずれと仕事をしなければならなくなった。エリスとは、毎度のこと音楽性の違いで対立を続けている。とはいえ、彼女もわたしもマスターに拾われた身。さすがに次もまた拾ってくれるような心の優しい人はいないとわかっていたのだろう。わたしも、彼女も、決して自分から別れようなどと言わなかった。

 わたしたちは、そんな経緯でここにいる。

 しかし、問題のマスターはもういない。ある事件を境にして……。


 わたしは少しだけ沈黙してから答えた。

「マスターは、いま少し休養中でして。マスターに何かご用でしたか?」

「ええ、まあ……その、人づてにウワサを聞いたんです」

「ウワサ、ですか?」

「ええ。ここのマスターに聞けば、悩み事は必ず解決するって。どんな頼みごとでも、引き受けてくれるって……そういう話を聞いたんです……って、バカみたいですよね。なんか私、ちょっと感傷的になっちゃって。外もあんなに暗くて、まるで渋谷暗転を思い出させて……」

「渋谷暗転のとき、なにかあったんですか?」

 わたしは、敢えて『どんな頼みごとでも引き受けてくれる』というところには触れなかった。触れなくても、そのまま話を進めるつもりだったからだ。

 ブラック・プリンスには二つの顔がある。その二つ目の顔を知ったのは、わたしでさえつい最近のことだったけれど。この店は、東京という闇に浮かぶ小島。そしてそこに流れ着いた人たちが気のいいマスターに頼みごとをする。

 いわば探偵まがいの便利屋稼業がブラック・プリンスのもう一つの姿だった。


     *


 渋谷暗転。それがが起きたのは、昨年の十二月二十四日のことだった。

 その日は金曜日で、奪光率の高い夜といえども街は浮ついた雰囲気の中にあった。わたしが子供のとき見たようなイルミネーションは、もはや東京には無かったけれど。でもその代わりにクリスマスソングが街中に響きわたり、屋内のショッピングモールには巨大なクリスマスツリーが飾られていた。

 そんな日の、午後七時四十二分のことだった。

 かつてない奪光現象が東京都内を襲ったのだ。わたしもその状況を、池袋で目にしていた。都心の薄暗闇が、一瞬で本当の闇に変わってしまったのだ。一寸先すらも見えない、本当の闇だ。

 そのむかし、わたしは両親に連れられて長野に旅行したことがある。親戚の家を訪ねにいったのだ。

 わたしはその旅行の中で、父に連れられて御戒壇巡りに参加した。善光寺の地下にある真っ暗な道を一周するというもので、その暗闇の途中に絶対秘仏を納めてある扉の錠前があるというのだ。その錠前に触ると御利益があるというので、観光客はこぞって暗闇に入っては、手探りでそれを探す。前も後ろも、どこに誰がいるのかもわからない。そんな状況で……。

 その日の東京は、まさしく御戒壇巡りの状況にあった。都心すべてが、だ。パニックの規模は想像するに難くない。いまでもその当時の様子を、音と感触だけではあるが、わたしは思い出すことができる。アイウェアをかけて輝度補正をマックスにしても視界は開けず、ただ暗闇だけが街を支配した。突然のことに人々は驚いて、何もできなくなった。立っていることすらままならなくなり、みな手探りで道を探し、屋内の明かりを求めた。錠前の御利益を探すみたいに。

 そんなパニックが最悪の形で勃発したのが渋谷だった。当時、暗闇のスクランブル交差点では、強い光源を持つレーザーライトをもって、若者たちがはしゃいでいたという。どんなに奪光率が高くても、強力な光ならば光源のすべてが吸収されることはない。日中使えば、目を焼いてしまいそうなレーザーライトは、夜の渋谷を妖しげに彩り、スクランブル交差点は一夜限りのクラブハウスになった。

 しかし、そんな興奮もつかの間。七時四十二分。闇は突如訪れて、熱狂と興奮を奪う代わりに、恐怖だけを残していった。

 まもなく恐怖に駆られた人々は、集団ヒステリーを起こした。手探りの逃亡は、自己防衛本能を反映し、他者を踏みつぶしてでも逃げなければという意識を現実にした。殊にガラの悪い若者が集結していた渋谷は、そのまま暴動に突入。警察も暗闇には勝てず、対処は夜明け後になった。

 結局、その日渋谷では十五人の死亡者。百人以上の負傷者を出した。この数は新宿や池袋をはるかに越えるもので、後にマスコミから『渋谷暗転』あるいは『渋谷暴動』と呼ばれるようになった。


     *


「暗転のとき、私もあの場にいたんです。あの暗闇と、混沌のなかに……」

 彼女は静かに告白した。

 わたしとエリスの二人は、その告解を黙って聞いていた。わたしはイスに腰掛けて、エリスはタバコをふかしながら。

「本当に、狂ったような騒ぎでした。すべての光が消えたとたん、みんな恐怖で叫び声をあげたんです。さっきまで隣にいた女性も、男性も、みんな……。奪光現象なんてもう日常みたいなものだったのに、あの日だけは違った。本当の、本物の闇が目の前にあった。そして、それが私たちを駆り立てて……」

「暴動にまでなった、か」

 エリスがハイライトを一本吸い終えて、灰皿に灰を落とした。

「でも私は、あのとき奇跡的に助かったんです。奪光現象が始まったのが、午後七時四十分ごろ。それから私が渋谷を脱出して、駒場のほうに着いたのが八時半前でした」

「渋谷駅から駒場って……歩いてどれぐらいだ?」

 エリスが二本目に火を付けようとしながら、わたしを見た。

「ふつうなら三十分もあれば着くと思うけど……。でも、暗転の日に一時間足らずで着くのは考えられない……」

「そうなんです」名前も知らない彼女は、答え合わせをするように言った。「ある人が私の手を引いて助けてくれたんです。その人は、まるであの暗闇のなか目の前が見えているみたいで……人混みを駆け抜けて、私を助けてくれたんです」

「まさか」エリスが二本目に火を点けながら。「人間ができるようなマネじゃない。そいつはフクロウか何かか?」

「でも、本当にそうだったんです。彼は――たぶん男性だと思うんですけど――突然私の手を取って抱きしめると、『ここから出たければ、協力して』って。それで私を抱いたまま身を屈めて、進んでいって……」

「まるで映画みたいな話だ」

「本当にそうなんです。だけど、あの人がいなかったら、私きっと……翌日のニュースで死傷者の数を見てゾッとしたの今でも覚えてるんです……。

 それで、お願いがあるんです。私、ずっとその人のことを探していて。今までずっと暗転のことがトラウマだったんですけど、ようやく向き合えるようになって。それで、SNSであのとき私を助けてくれた人にお礼を言いたい、探しています……って、拡散希望で投稿したんです。ウソのような話もあってか、瞬く間に拡散しました。そうしたら……」

 すると、彼女は傍らに置いたハンドバッグの口を開いた。薄桃色のバッグはカエルのように大口を開かせ、そのうちから一枚の紙切れを吐き出した。

 プリンターで印字されたごくふつうのコピー用紙。だが、問題はその内容だった。


 これ以上嗅ぎ回るな。


「脅迫文……」

 わたしは思わず口にしていた。てっきり、心温まる話かと思っていた。だが依頼にきたことを考えれば、一筋縄でいくはずがなかった。

「はい。こんなものがポストに入ってたんです。昨日のことです。私もう怖くなって……。とりあえず今住んでいるアパートはすぐ引き払う約束をしました。でも、それでも怖くて……」

「依頼にきた、か」

 灰を落とす。エリスは鼻で笑った。

「警察には通報しましたか?」とわたし。

「はい。したんですが……巡回の警官を増やしますって話だけで、特には。なにぶん事が事なので、警察の方も真面目に取り合ってくれなくって……。

 あの……もし引き受けてくださるなら、この脅迫状の犯人だけでなく、できれば『彼』のことも捜してくれないでしょうか。命の恩人に一言お礼を言いたいんです」

 彼女はそう言ったところで、ようやくグラスに注がれたマッカランに手を出した。やけ酒というわけではないだろうが、食の細そうな女性にしてはずいぶんと一気に煽った。

 わたしとエリスは、しばらく黙って顔を見合わせていた。答えは決まっていたけれど、お互いに確認の意味だった。

「構いませんよ」とわたし。

「ただ、多少の調査料金はいただきますけどね」

 エリスはタバコを指に挟んだまま、札を勘定する仕草をしてみせた。


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