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Lino Uehara 17:00- (1)

 午後五時になったとき、山手線は大塚に停車していた。わたしが降りる駅は池袋だったから、ちょうど一駅前だ。車内は学生とサラリーマンで溢れていて、多少の息苦しさを覚えるぐらいには混雑していた。わたしもそんな群衆のうちの一人だったけれど、ただ彼らと違うのは、退社というより出社であるという点だろう。わたしの勤め先は池袋にある。

 しばらくのあいだ、列車はドアを開けたままホームに停車していた。

《本日はJR東日本をご利用いただき、まことにありがとうございます。この列車は、山手線各駅停車内回り、新宿行きです。次は池袋に止まります。……えー、気象庁によりますと、本日は奪光率が七〇パーセントを越えるとの予報が入っております。そのためこの列車、車内完全遮光のために大塚駅にて一時停車をさせていただきます。発車は三分後、午後五時三分を予定しております。お急ぎのところお客様には大変ご迷惑をおかけ致します。発射まで今しばらくお待ちください》

 車掌が特徴的な声で言って、それからまもなくドアが閉まり、遮光が始まった。

 わたしは吊革につかまって座席の前に立ち尽くしていたのだけど、ちょうど相対するようにあった窓ガラスが曇り始め、数秒後には完全にグレーに染まった。外の景色はもはや見えず、ただ車内照明が内壁を照らすだけになった。ホーム内に鎮座する巨大な看板たちは、もうどこにも見当たらない。代わりに遮光ガラスがディスプレイに変化して、整形外科のコマーシャルを流し始めた。

《お待たせしました、まもなく発車です》

 ガコン、と列車が揺れる。

 半端にリコーダーを吹いたみたいな間抜けな音がして、それから列車は動き出した。

 わたしは池袋に着くまでのわずかなあいだに、ワイシャツの襟首にかけたアイウェアを手に取った。ニコンのアヴィエーターモデル。片手でフレームを開くと、狭苦しい満員電車のなかを器用に指を動かして耳にかけた。となりの会社員が迷惑そうな顔をしていたけれど、彼の肘打ちも何度かわたしのカバンをつぶしていたからお相子だ。

 アイウェアをかけると、わたしはすぐに視界フィルター調整。光センサを作動させて、視界の輝度(コントラスト)を自動調整モードに変更。

 それから、メッセージアプリを開いた。

 森嶋英莉澄(エリス)から一件、五分ほど前にメッセージが届いていた。

《今日は奪光率が高いらしい。まだ来ないのか?》

 わたしはすぐに返信した。

《もう着く》

 そのたった四文字を送信したとき、山手線はなめらかにブレーキをかけながら五番線ホームに到着した。


 上原梨乃(リノ)

 それがわたしの本名であり、また芸名でもあった。

 わたしはこれでも歌手シンガーのはしくれだ。いや、それは『だった』と過去形を付けて言うべきであるし、さらには『見習い』、あるいは『志望』という不格好な言葉を付け加えねばならない。

 二年ほど前、わたしは歌手志望の学生だった。しかし、今ではそのどちらでもない。よく学生の本分は勉強だと言うけれど、その点わたしは副業である歌手のほうに精を出してしまった。その結果、わたしは学生ではいられなくなった。一般的に退学というものだ。そのうえ歌手として食っていけるはずもなく。結局わたしは何者でもいられなくなった。

 はからずも社会人となったわたしを、東京の冬は冷たく迎え入れてくれた。まるで社会の洗礼とでもいうみたいに。わたしは、その日の風の冷たさをよく覚えている。その日も今日みたいに奪光率の高い日だった。

 中央改札から東口へ出て、西武百貨店を横目にサンシャイン方面へ。五時を過ぎて奪光率が高くなってきたからだろう。外は徐々に暗くなり始めていた。

 サンシャイン前の五叉路で信号待ちを喰らったとき、わたしはふとアイウェアを外して見た。そして、やおら空を見上げてみた。

 青黒い空には、黒い斑点が見えた。奪光率が高い証拠だ。一転の輝きもない黒は、都会の汚い空をよりいっそう低く見せていた。黒点は、都会の光を奪い、街から明るさを奪っていく……。黒い星……。外はもうアイウェアの輝度コントラスト補正なしでは、信号機の色も確認できないほど暗くなっていた。

 わたしがすぐにアイウェアをかけ直すと、信号機はロバート・バーンズの『故郷の空』を鳴らしだした。信号が青になったらしい。雑踏がそこここから聞こえてくる。わたしはそれに合わせて、「ギンナバディ、ミータバディ、カミンスルーザライ」と小声で口ずさみながら、やや足早に横断歩道を駆け抜けた。

 さすがにこの暗さでは、居酒屋のキャッチもコンタクトレンズの宣伝もいなかった。奪光率が高い日はロクなことがないけれど、でも、こういうところは好きだ。工事現場も休工中で、わずらわしい掘削機の音もまったくしなかった。

 それからサンシャイン通りを横道にそれて、わたしは職場に向かった。商業ビルの地下一階。ブラックボードが軒先に出ている小さな酒場、『ブラック・プリンス』。それがわたしの勤め先だった。


 黒い王子(ブラック・プリンス)

 いったい店主がどうしてこんな名前を付けたかはわからない。が、気取った名前であると同時に、皮肉の効いた名前でもあると思う。

 地下へ通じる階段は、一度屋内に入ってから姿を現す。さもないと、この寒空の下では黒い星が光を奪ってしまうからだ。どんなに目の良いマサイ族なんかがきても、東京の暗さには負けて足を踏み外すことだろう。

 地下に通じる階段を抜けると、店先に通じるドアが出てくる。遮光のために作られた重たいダークブラウンの扉は、いまや多くの家庭でも使われている。ただ一般家庭と違うのは、「CLOSE」と札がかかっていることと、看板のように古びたレコードが張り付けてあることだった。

 重い扉を開くと、一挙に空間が開けた。暖色系の薄暗い照明。ろうそくが暖かな光を放っている。天井から吊されたシャンデリアは、ほのかに店内を照らし出していた。

「ただいま……って、あれ?」

 と、わたしは一歩踏み出したところで気がついた。

 ブラック・プリンスの店内は、まるで死んだように静かだったのだ。たしかにこの時間にバーに来るような客は少ない。特に奪光率の高い日はそうだ。こんな暗い夜に外へ出たくなるのは、物好きか観光客ぐらい。客がいないのも納得だ。しかし、だからといって開店時間直前に店員がいなくていいワケがない。

「エリス、いないのかな……?」

 わたしはもう一人の従業員、森嶋英莉澄を探しながら、荷物をカウンターの裏に押しやった。

 店内はテレビが点けっぱなしだった。木製の壁面に埋め込まれた薄い映像板は、さきほどから衛星放送を流している。日本国営放送局(NBC)の午後のニュース番組だ。キャスターが記事を読み上げる一方で、画面端にはワイプで『奪光警報発令中』と出ている。そしてそれに続くように都内各地の奪光率が流れた。どうやら豊島区は現在六十五パーセントらしい。かなりの暗さだ。

 ――どおりで客入りがないわけで。

 わたしはぼんやりと思いながら、カウンターにテーブル腰を下ろした。わたしは店員だが、今はまだ休憩時間のようなものだった。


 そうこうしていると、バックヤードから問題の人物がノコノコ出てきた。森嶋エリス。彼女は気分屋で直情的、それでいて妙に自分をクールに見せたがる女性だった。一言で言えば、”カッコつけてる”オンナ。そしてこのときもそんな感じだった。

 店の裏から出てきた彼女は、お気に入りのヴィンテージ・マグにコーヒーを入れて出てきた。きっと客もいないからと、体を温めるためにでも淹れたのだろう。

「遅かったな」

 彼女はぶっきらぼう言いながら、マグカップをカウンターに置いた。そしてわたしに相対するようにして、キッチンテーブルのほうに立った。

 エリスはいつもパンツスタイルのスーツ姿だ。今日もそうだった。ピッチリとしたスーツはオーダーメイドで、黒地に薄墨色のストライプ。シャツは淡いピンク色で、ネクタイは黒と灰のグラデーション。それがショートカットの黒髪とよく似合う。しかもそんな男性的なファッションでいて、靴はハイヒールブーツで。しかも耳にはダイヤのピアスがはめられている。現代的モッズな雰囲気でもあり、それでいてどこか魅力的グラム印象もある。黙っていれば、女が惚れるタイプの女だ。

 しかし、しゃべり出すとそうでもない。

 エリスは早速コーヒーに手を出すと、「あちっ!」と盛大に声を上げてから、カップをまた戻した。重度の猫舌であると彼女自身わかっているはずなのに、いつもこの調子だ。

「冷めてから飲めばいいのに。エリス、いつもそうだよね」わたしは毒を含めて言った。

「冷めちゃ体が温まらないだろ」

「そうね。外、寒かったもん」

「ほんとだよ。ニュースが言うには、今晩はこのまま奪光率は下がらないってさ。こんな日は常連客でさえ来るのをためらうよ。アタシだって出勤すべきか迷った」

「でもわたしより早く来てるあたりマジメね」

「五分前行動は鉄則だろう?」

 彼女はそう言って、手元のリモコンをテレビに向けた。

 音量を消し、代わりに字幕を付ける。

 それからエリスはカウンターを這い出て、ソファー席近くにあるレコードプレイヤーに手を付けた。この店の売りの一つだ。

 カウンターに対する壁は棚になっていて、そこにはたくさんのレコードが並んでいる。これはマスターのコレクションで、クラッシックからジャズ、ブルース、ロックと多種多様なジャンルが網羅的に所蔵されている。音響もすべて彼のこだわりで、プレーヤーから真空管アンプまで、すべてマスターの趣味だった。

 エリスは、そんな膨大なアーカイヴの中から一枚のレコードを手に取った。一九六九年の、ウッドストック・フェスティバルのライブアルバムだった。

 LPを回転台に乗せると、エリスはその途中から針を落とした。ぶつん……とレコード独特の音がしてから、まもなくスピーカーから音が出力される。エリスは、人間頭出し機とでも言うような才能があり、どんなレコードでも聴きたい曲の位置から針を落とすことができた。そしてこのとき彼女が落としたのは、六九年、ウッドストックでのザ・フーだった。

 ロジャー・ダルトリーが「僕を見て(シー・ミー)」と歌い出したとき、わたしは今日のエリスがひどくロマンティックな気分なのだとわかった。

「このライブ、たしか曲が盛り上がると同時に夜明けになったっていう、伝説のライブとかじゃなかった?」

「よくご存じで。ロックは嫌いだとか言ってたくせに」エリスはほくそ笑んだ。

「何度も聞かされたから、さすがに覚えたよ。……でも、今日の東京はウッドストックみたいにはならないよ」

「なんたって、東京(ここ)は闇の街だからな」

 彼女はそう言うと、ゆったりとした足取りでカウンターに戻った。


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