06
その日の朝は普段と異なり、フィオネは揺り起こされる前に目を覚ました。
いつも通り静かな早朝の屋敷ではあるのだが、この日ばかりはどこか異なる雰囲気が漂っているように感じる。
その正体が何であるのかはしれないが、寒さの中で毛布を跳ね除けたフィオネは、少しだけ違う空気を肌に感じていた。
未だトリシアが起こしに来る気配はない。
ベッドから降りると、そのまま着替えもせず寝間着のまま部屋の外へ。
とぼとぼと長い廊下を歩き、食堂へと向かう。
途中で中庭の前まで来ると、やはりどこか異なる空気。
人の気配にも似たものを感じたフィオネが中庭を見回してみるが、これといって人影らしきものは見当たらない。
気になりこそしたものの、フィオネはその時点で首を傾げるだけで、違和感を抱えたまま通り過ぎる。
食堂の前へと辿り着くと、童女が一人で開けるには些か重い扉を、力を込めて開け放つ。
すると中では、トリシアがテーブルに食器類を並べ、朝食の準備をしているところであった。
「……あら? 珍しいですね、ご自分から起きてこられるなんて」
少々意外そうな表情を見せたトリシアは、寝間着のままで姿を現したフィオネへと歩み寄る。
近づき向かい合うと、フィオネの寝癖で跳ねた髪を手櫛で軽く梳き、小さく窘めた。
「ですが寝間着のままというのは関心しませんよ。今日はまだお着替えを用意していませんでしたから、仕方ありませんが」
「……ごめんなさい」
「さあ、お部屋に戻って着替えをしましょう」
食事の準備を一時中断したトリシアに手を引かれ、フィオネは着替えのために食堂を出て、再び自室へと戻る廊下を歩く。
その途中で中庭の前を通る時に、行きに感じた妙な気配が気になり見回すも、やはり人の姿はない。
今度は行きがけに感じた僅かな気配さえも、察することは叶わなかった。
部屋へと戻ると着替えを用意してもらい、顔を洗う。
木桶に溜められた冷たい水に手を差し入れると、それまでどこかうっすらとしていた意識が徐々にはっきりとしていく。
そこでトリシアは思い出したかのように、フィオネにとってとても重要な話を口にした。
「そういえば、昨夜シルヴィア様がお帰りになられましたよ」
「ほんとう!?」
「ええ、勿論。ただ……またお怪我をされましたし、非常にお疲れの様子ですから、今はまだお休みになられているかと」
怪我をしたという言葉に、フィオネの心臓は小さく跳ねる。
以前にもシルヴィアは大怪我を追って帰ってきており、周囲を随分と心配させていた。
その記憶は当然のように鮮明に残っている。
眠っているとはいうものの、どうしても心配になり会いたいと伝えた。
そのフィオネの言葉に、トリシアも少々悩む素振りを見せる。
「だめ……?」
「そうですね……。では朝食前にほんの少しだけ。起こさないように気を付けて行きましょうね」
渋るトリシアであったが、結局はフィオネは押し切ってしまう。
声を掛けずに顔を見るだけという条件付きで、シルヴィアの寝室へと連れて行ってもらうことになった。
フィオネとシルヴィアの部屋は、食堂ほどには離れてはおらず、精々が二部屋三部屋隣といったところ。
近い場所に設定したのはトリシアの采配であったが、これはある程度近い方が、多少なりと安心できるであろうという配慮からであった。
その近い距離を歩きながら、普段から優しく接するシルヴィアを想う。
まだトリシアから話を聞いただけではあるが、これで怪我をして戻るのは二度目だ。
これから先、またこういった事が起きないとは限らず、そのうち帰らぬ時が来てしまうのではないかという不安に支配される。
前回と今回、共にフィオネに対して詳しい事情の説明はなされていない。
しかし姉のようなその人物が、少々巻き込まれ易い性質であるというのは感覚的に理解していた。
「フィオネ様、静かに見るだけですからね」
扉の前に立つと、トリシアから再度念を押される。
その言葉にしっかりと頷き、シルヴィアの部屋に繋がる扉をゆっくりと開けた。
そこには暖められた部屋のベッドで、毛布さえかけずに大の字になって眠るシルヴィアの姿。
少しだけ近づいてみると、片脚の膝下には幾重にも播かれた包帯が、痛々しそうにその存在を主張している。
よく見れば脹脛の部分が仄かに黒みがかっており、それが乾燥した血液によるものであることは、フィオネにもすぐさま理解できた。
心配と不安、動揺。
それらが入り混じった感情により、眠るシルヴィアへと駆け寄りそうになるが、それを察したトリシアによって制止される。
小声で「見てください」と告げられ、指さされた先にあるシルヴィアの表情を見れば、怪我を負っているとは思えぬ程の暢気な寝顔。
それにより、フィオネは若干ながら安堵を得られた。
「ほら、大丈夫そうでしょう?」
「うん……」
「さあ、これ以上ここに居て起こしてもいけません。私たちは退散しましょう」
人差し指を口元に当て、囁くように言うトリシアの言葉に渋々ながら従う。
何度か後ろを振り返り、天蓋付のベッドで眠り続けるシルヴィアを見ると、変わらず穏やかに眠る姿。
その姿を確認したフィオネは、トリシアに連れられて食堂へと足取り重く向かった。
▽
鍬を手にして振り回し、現れた鳥を追い払う。
その時にチラリと背後に視線を向ければ、老犬と並んで歩くフィオネ。
この日いつもよりも少々遅く姿を現したフィオネであったが、その様子は普段と大きく異なっていた。
来てからもずっと俯き加減となっているその姿を、老人は怪訝に感じる。
なにやら心配事でもあるかのようであり、それを少々心配に思うところはあった。
沈んだ様子を見かね、小休止を兼ねて地面に腰を下ろす。
そこで何があったのかを問うも、フィオネは首を横へと振り、何でもないと言うばかり。
「何でもないということはないじゃろう? いいから話してみるといい」
半ば孫のようにも思え始めた存在であり、普段と異なる様子を見せれば心配するのも当然と言えば当然なのであろう。
同じように座らせ、老人が出来うる限り穏やかな口調で尋ねた。
不器用な説明ながらも、ぽつりぽつりと話し始めたフィオネの言葉を聞くにつれ、老人は遂にこの時が来たのだと悟る。
つい先日老人を尋ねて来たメイドとの会話で出てきた、普段フィオネの相手をしてくれている娘が戻ってきたのだという。
しかも帰ってきた時には怪我をしていたいう有様で、それを心配してフィオネは気もそぞろであったのだと知れた。
「そうか……それは心配じゃの」
うんと頷くフィオネを慰めながら優しく優しく言葉を掛ける。
その頭を撫でながら、貴族の娘が出先で怪我をして帰るなど、普通あったりするものであろうかと考えもする。
とはいえあまり興味本位で問うというのも、あまり褒められた行動ではない。
気になりはするが、おそらく問うたところで、フィオネ自身にはあまり詳しい事情が説明されているとは思えなかった。
「……寂しくなるな」
老人は、半ば無意識の内に小さく呟く。
その呟かれた言葉に、老人自身も若干の驚きを隠せない。
いつの間に赤の他人である童女へと、こんなにも入れ込んでしまっていたというのか。
毎日の短い時間ではあるが、フィオネと過ごすこのひと時が、老人にとっては大切なものとなっている事実は否定しようがなかった。
だが例えそうであっても、受け入れるしかないのであろう。
その娘が戻ってきた時点で、フィオネとのささやかな関わりは終わりを迎える。
メイドの娘と、確かにそう約束をしたのだから。
「なぁに?」
「いや……何でもないわい」
フィオネ自身は、老人とトリシアが交わした約束を知らない。
もしそれを知れば、嫌がり泣きわめく可能性もある。
それに件の娘が戻るタイミングで別れると聞けば、関係性が悪くなるとまでは言えないまでも、多少なりと思う所が出てしまうのではないかと老人は考えた。
このまま何も知らせず、これを機に別れるというのが無難な選択なのであろう。
「嬢ちゃん」
「なーにおじいちゃん?」
おじいちゃんというフィオネの言葉を受け、老人の中で微かな名残惜しさが湧き起こる。
家族と離れ、自身でも気付かぬまま寂しさを感じ始めていた老人にとって、孫と近い年頃にも見えるフィオネとの時間は、とても穏やかなもの。
短い期間ながらも楽しかった思い出が、老人の脳裏を掠める。
「ここで遊ぶのは、楽しいか……?」
「うん。おじいちゃんとワンちゃんもいるもん」
老犬の頭を撫でながら言うフィオネに、惜しいという感情を抱きつつ、「そうか」とだけ呟き押し黙る。
しかしこれ以上別れを惜しんでいては、更に未練を抱く破目になってしまう。
そう考えた老人は、断腸の思いで切り出す。
「そのお姉ちゃんとやらが心配なんだろう? ならばこんな所にではなく、傍に居てやるといい」
「……うん、わかった! あしたはシルヴィーといっしょに来るね!」
やはり怪我をしているという娘の様子が気にかかるのか、フィオネは老人の言葉へと素直に頷く。
立ち上がり、林の方へと向けて駆けるフィオネが一度だけ振り返り、老人と老犬に向けて手を振る。
老人はただそれに対して手を振り返し、言葉も無く見送った。
「明日か……」
フィオネが林の奥へと姿を消してしばし。
老人は立ち尽くした状態で呟く。
連れてくると言うフィオネの言葉を受け、僅かに決意がグラつく。
しかしここで一日延ばしにしたところで、より未練は募るばかりであろうことは言うまでもない。
笑顔で言ったフィオネには申し訳ない、と想いながらも、老人は手にした鍬を握り締めて決心する。
老人がした決意を察したのであろうか、傍らに立つ老犬は悲しそうに小さく鳴く。
その頭を撫でると、老人は小屋へ向けて踵を返し、小さく呟いた。
「一度くらい……顔を見てもよかったかもしれんが」
未だ顔も知らぬ、フィオネのもう一人の"おねえちゃん"への未練を口にする。
きっとその顔を見る日は、この先もないのだろうと思いながら。