04
「ほれ、折角淹れた茶だ。勿体ないから飲まぬか」
老人は眼前に座る客人へと、水源から汲んだ水で淹れた茶を振る舞う。
普段の老人は精々が白湯程度しか飲まず、手間をかけて茶を淹れるというのは稀だ。
わざわざ茶を淹れたのも、老人にとってもてなす相手が居るからこそ。
ただ客人とは言うものの、その相手は意外なことにも、ここ何日と続けて姿を現しているフィオネだ。
もう来ぬであろうと考えていた……いや、老人にはフィオネまた姿を現すという発想すら無かった。
二度目に来た時は、昼を過ぎた頃に姿を現した童女へと、驚きと共に呆れを抱くことになる。
だが三日四日とすれば、それも次第に日常の光景と化しつつあった。
「今日もまた、随分と汚したもんじゃな」
茶を受け取り、入れられたコップに息を吹きかけて冷ましながら飲むフィオネへと目を向ける。
ここへと入り込んでくるのに、さぞ汚れた場所を這ってきたのだろう。
その白いシャツとスカートは今まで同様、土と草の汁によってこれでもかと汚されていた。
「勿体ないことをするものだ。……子供は気にもせんじゃろうが」
その汚れに汚れた服を眺め、密かに嘆息する。
庶民にとって、毎日綺麗な真新しい服へと袖を通すというのは贅沢な行為だ。
それだけでも大変であるというのに、着ているのは非常に高価な純白の布を使った服。
直接問うてはいないが、いかにも貴族であると主張せんばかりの格好だ。
眼前の童女が貴族に連なる者であるのは間違いないと、老人は言葉に出さずとも確信を持っていた。
そもそも一般庶民は、この地域へと出入りすることすら殆どないのだが。
やれやれとばかりに、老人はその肩を竦める。
事情の程は定かでないが、老人にとっては少々面倒な役回りを担う破目となってしまった。
もっとも普段の老人は、側に座る犬を除けば昼間に一人きりであるため、丁度良い話し相手となっている事実も否定はできない。
「さて、また来る頃合いだろうて」
暖炉の前に置いた椅子からゆっくりと立ち上がり、老人の手は壁に立てかけてある鍬へと伸びる。
この日も何度か追い払った鳥の群れではあるが、もうそろそろ舞い戻ってくるであろう。
軽く伸びをして向かおうとするのだが、それを見たフィオネが渋い表情を浮かべるのに気が付く。
あれ以降もフィオネは、連日のように水源地へと姿を現し遊んでいる。ゆえに動物を追い払う事情は、少なからず理解しているはずであった。
しかし感情的には納得がいっていないのであろうか。
老人が鳥を追い払う度に、どこか悲しそうな、あるいは寂しそうな感情を覗かせる。
「どうする? わしはまた奴らを追っ払ってくるが、今日もついて来るか?」
「…………いく」
好まぬ行為をしにいくとはいえ、それでも一人小屋で待つのは嫌なのであろう。
これまでもフィオネは老人の後ろを突いて歩き、その仕事する様を見続けていた。
老人は小さくため息つくと、自身の大きな帽子と上着をフィオネへと貸し与える。
冬のただ中に、幼子を薄着で歩き回らせる訳にもいかないのだから。
小屋から出た老人は、普段通りに鳥や小動物を追い払い、枯草の掃除をし、壊れた道具の修繕を行う。
その後ろを老犬と共に突いて歩くフィオネは、それらの作業を延々興味深そうに眺めていた。
刃物を扱う時には流石に遠ざけもするが、落ち葉を集めるといった作業では、手伝ってみたいと言うフィオネに箒を貸し与えたりもする。
「あまり派手に掃いたら砂が舞うじゃろう。もっと丁寧に、同じ方向に掃かんと」
乱雑な掃き方をするフィオネへと、出来る限り穏やかな調子で注意する。
その度にフィオネは首を縦に振りこそするものの、しばらくすると丁寧な動作が面倒になるのか、再び掃き方は荒くなっていく。
しかし老人はそんなフィオネに対して、何故か怒る気にはなれずにいた。
それは見ず知らずの童女へと向けるそれではなく、自身の孫へと向ける感情に近い。
老人は自らそう自覚していた。
「こう……?」
「そうそう、上手だ。丁寧に、だが素早くやらんといかんぞ。なかなかに筋が良いじゃないか、このままここでわしの手伝いをするか?」
若干のお世辞も込めて老人が褒めると、フィオネは機嫌を良くして更に掃き続ける。
喜び故か動きが多くなり、再び掃き方が雑になってはいくが。
その様子を苦笑しながら眺める老人は、随分と長く顔を見せていない我が子と、孫の存在に想いを馳せる。
水源地の管理に割かれる予算が減って以降、人手の足りなさを補う為に連日小屋で寝泊まりする日々だ。
老人は同じ王都に家がありながら、もう何十日と帰ってはいないし、長く家族の顔も見ていない。
少しだけ、寂しいという気持ちがない訳ではなかった。
「なあフィオネ嬢ちゃん。親御さんはわしの所へ来ることについて、何も言いやせんのか?」
そういった感情を有し始めているからこそ、ある程度家族の気持ちが気にはなる。
もしも孫が自身の知らぬ場所へと出入りし、得体の知れぬ老人と接触していたとしたら。
箒を手にしながら、老人のした質問に対しキョトンとした様子を見せるフィオネ。
言わんとしている言葉の意味が理解できていないのか、それとも質問の意図を勘違いでもしているのか。
「お父さんとお母さんは、毎日ここで遊んでることに怒ったりせんのかの?」
言葉を変え、老人は再びフィオネへと尋ねる。
服を毎度盛大に汚している点から、家人が気付いていないというのは考え難い。
洗濯するのが使用人であるとしても、毎日ここまで汚していれば流石に報告が行くものであろう。
だとすれば、住む家を抜け出して遊んでいるのに気付かれていないのではない。
何がしかの理由によって黙認されているのだと、そう考えるのが自然ではあった。
しかし老人の問いかけに、フィオネは首を横に振り簡潔な答えを返す。
「いないよ」
「いない? ……まさかお父さんとお母さんがか?」
うん、と。
フィオネは老人に対し、然程気にした様子も無く頷く。
しまった。そう感じ、老人は後悔する。
ここまで自由にさせている点からして、母親の目が届いていないと想像するべきであったと。
理由としては、子供の行動に関心が向かない親であるか、あるいは親そのものが居ないか。
どちらにせよ、そういった気を使って然るべきであったと、老人は密かに自身を恥じた。
実際のところ、貴族の母親が子供の面倒を自ら見るということは稀だ。
しかしそういった社会とは無縁である老人には、フィオネが母親が居ない寂しさから、こういった行動に出ているのだと思わずにはいられなかった。
「でもね、おねえちゃんならいるよ。シルヴィーとトリシア!」
「そ……そうか。そのお姉さんたちとは一緒に遊ばないのか?」
「シルヴィーは今お家にいないから……。トリシアはお仕事がいそがしいから、あんまりじゃましちゃダメだよっておじちゃんが」
フィオネの言うおじちゃんというのが誰か、老人には理解できなかったが、おそらくは屋敷で働く使用人の一人であろうと判断する。
とはいえあまり貴族の家の内情について、根掘り葉掘り聞くというのも気が引けはした。
しかしフィオネにとっては楽しい話題であるためか、問わずとも自ら進んで話を進めていく。
「シルヴィーおねえちゃんはフィオネといっしょにお勉強してたんだよ。でもトリシアおねえちゃんがもういいよって」
フィオネの話す内容は、どうにも説明の足りぬ部分が多く、老人にはあまり理解が及ばない。
とはいうものの、そういったものは比較的幼い子供に共通するものだ。
老人自身の子もかつてはそうであり、今は孫もそれに近い状態であったため、久しく会わぬ家族を思い出させた。
しかしその話を聞くにつれ、フィオネがおねえちゃんと言い表わした二人についても、実際の姉という訳ではないのだと知れる。
内一人はおそらく、仕えるメイドであろう。
もう一人はよくわからないが、フィオネ同様にそれなりの地位に在る、貴族位を持つ人物であろうと思えてきた。
「なんというか……複雑な事情があるんじゃな」
どうにも理解の及ばぬフィオネの住む家の状況に、老人は半ば理解を放棄し始める。
貴族にも色々と事情があるのだろうし、あまり首を突っ込んで知らなくていい話を聞くのも恐ろしい。
その場はとりあえず、フィオネの言葉に納得することにした。
話しが一段落したところで、少しだけ疲れを感じた老人は腰に手を遣り、ふと空を見上げる。
「ん……? なんじゃ、もうこんな時間か」
気が付けば、空は徐々に茜色と化しつつある。
老人が認識していた以上に時間が経過していたようで、じきに外は暗くなる。
これ以上フィオネをここに留まらせるのもよろしくないと考え、帰宅を促すこととした。
「ほれ、あんまり帰りが遅くなると、そのお姉ちゃんとやらが心配するぞ」
老人自身も若干の名残惜しさを感じつつ、早く帰るよう告げた。
その言葉へと素直に頷いたフィオネは、そのまま箒を置いて林の方向へと駆けるが、途中で止まり振り返っておずおずと問う。
「ねえおじいちゃん……またきていい?」
「そうじゃな。……来れるようであったらな」
少しの逡巡と共に答えるが、フィオネはその反応に表情を開かせ、手を振ると機嫌よく林の奥へと去って行った。
見送る老人は、本当にこのままで良いのだろうかと考える。
ここに無関係の少女が出入りすること自体、決して良いと言えない行為だ。
しかし一言窘めるべき立場の老人ではあるが、どうにもそれをする気にはなれない。
おそらくこの先フィオネが来なくなる日が来るとすれば、それは家の人間がそれを咎めた時であろう。
その時までは、自身が口を出さずとも良いと。
若干言い訳めいた考えではあったが、老人にとっては少女と過ごす時間が、微かな楽しみと化しつつあるのもまた事実。
出来る事ならば、もうしばらく続いてもいい。そう思える程度には。
「おやっさーん。交代に来ましたよー」
少々感傷的な気分に浸っていた老人であったが、自身の背後……敷地の正門側から聞こえた声によって、現実へと引き戻される。
振り返ると、歳の頃三十前後と言った風体の小男が歩いて近づいてきていた。
「なんじゃ、もう来おったのか。今日は随分と早いじゃないか」
「いや最近おやっさんが話してる、小さいダークエルフの子ってのが気になったもんスから。どこですかその子は?」
「もう陽が暮れるからな、とっくに家に帰らせたわい」
そう告げると、挨拶代わりに老犬を撫でまわしていた小男は、酷く残念そうな素振りを見せる。
この男は老人が管理する水源地の、もう一人のスタッフだ。
老人と男、この二人で昼夜を交代しながら管理しているのだが、男は老人とは異なり昼間の内はちゃんと自宅へと戻っている。
まだ幼い子を抱えているため、老人の厳命によって帰らされているのだ。
それによって、老人が家へと帰る時間を取れぬ要因ともなってはいるのだが。
「まさかわしの話を信じておらんのじゃないだろうな」
「そんなまさか。おやっさんがその手の冗談を言わない人だってのは、よくわかってますって」
どうだかと言わんばかりに老人は鼻を鳴らし、腕を組む。
その年齢以上に軽い調子の喋り方をする男ではあるが、老人はこの小男をそれなりには信用していた。
管理を任せている夜間はしっかりと見回っているし、仕事も存外丁寧にこなす。
あとは自身の後任さえ見つかれば、すぐにでもここを任せて引退できるのだがと考えたりもする。
「ですけどおやっさん。その子が入って来てる場所はもう見つけてるんスよね? 修繕しないんスか?」
「あ……ああ。まあそこは追々な……」
男から向けられた質問に、老人は僅かに狼狽の色を現す。
確かに男の言う通り、フィオネが入り込んできているであろう、塀の破損部分の目星はついている。
男の言い分ももっともであり、そこに反論の余地はない。
しかし老人は、その穴を塞いでしまうという行為に、どこか寂しさという抵抗感を感じずにはいられなかったのだ。




