01
新章。
短めの予定で。
早朝。
その日はいつも以上に冷たい空気が、林立する木々の間を吹き抜けていた。
季節は冬の真っ只中。
寒さが厳しいのは当然ではあるが、その日はいつもよりずっと気温が低く、王都メイルハウトが在る丘陵地を吹き抜ける風もまた強い。
常緑の木々が敷地を覆い、草むらは冬も尚濃く繁る。そして滾々と湧き出る泉。
その隣に建つ小さな掘っ建て小屋からは、ガタガタと小さな物音がし、しばらくして中から一人の老人が姿を現す。
出てきた老人は習慣であるかのように軽く周囲を見回すと、グッと伸びをしてから真っ白に染まった息を吐いた。
同時に寒さへと身を震わせ、手にした外套を羽織ると、かじかんだ指を口に咥えて甲高い指笛を鳴らす。
すると開け放たれたままな小屋の扉から、老人に長年連れ添っていると思わしき老犬が姿を現す。
その姿を確認した老人は、小屋の壁に立てかけてあった鍬を手にし、老犬を引き連れて泉の側へと歩を進めていく。
分厚いはずである外套の小さな隙間を見つけ、冷気が潜り込む。
身体を震わせた老人が周囲を見渡せば、鳥や野ウサギなどの小動物たちが、僅かな体温を守ろうとするかの如く、草むらの中から出てこようともせずじっとしていた。
しかし寒風吹く中でも、周囲に建物が無く陽射しを受け易いこの場所は、多少なりと余所よりも暖かいのだろう。
木々の間に隠れてはいるが、普段よりも多くの小動物たちがその姿を視界の端に映している。
だが動物たちの欲求を受け入れ、ここに居続けさせる訳にもいくまい。
可哀想ではあるが、ここは都で使われる水の多くを賄う水源なのだ。毛や糞尿で汚されてはたまらない。
容赦なく吹き付ける寒風の中。
老人は分厚い毛皮の帽子を目深にかぶり、動物を追い払うべく威嚇用の鍬を握る手に力を込めた。
▽
3258年 冬
「で、あの人は今日も朝帰りか?」
朝食の席。食卓を囲むのは、この屋敷に暮らす五人居る住人の中で四人だけ。
その内の一人であるフィオネは、呆れた様子で息吐き、問うシルヴィアの声を聞いていた。
皿に置かれた柔らかなパンを手に取り、かぶりつきながら。
「今更だろ。どうせまた酒場の娘にでも入れ込んで、夜通し口説いてたんじゃねえのか」
シルヴィアの問いに答えたアウグストの言葉からは、呆れの色は見えない。
呆れを通り越して、件の人物がそういう個性であると認識し、とうに諦めているようでもあった。
とはいえこういった会話をするのも、既に毎朝の習慣と化している。
「あんたがそれを言うか……。ともあれだ、小さい子も居るんだから、出来ればそういった行動は控えてもらいたいんだよな」
そう言ってシルヴィアは、隣に座るダークエルフの少女、フィオネへと心配するような視線を向ける。
フィオネは発された言葉の意図が理解できてはいなかったが、シルヴィアが向けた顔へと笑顔を返す。
それに和まされたのであろうか。シルヴィアは薄く笑むと、フィオネの口の周りへとついたソースを優しく拭き取る。
「お前はフィオネのお袋さんか。段々女が板についてきたんじゃねえのか?」
「冗談だろう。せめて兄貴か親父くらいにしておいてくれよ」
アウグストの叩く軽口に、返すシルヴィアの言葉もまた軽い。
朝の準備運動をしているとでも言いかねない会話のやり取り。
仲が良さそうに毎朝繰り返されるそれは、フィオネにとってもまた好ましいものであった。
会話の内容を理解できていない時も多々ありはするが、身近な人々が仲良くする光景に安堵するのは当然とも言える。
そんなやり取りを聞きながら、シルヴィアの視線が自身から外れている隙に。
フィオネはスープに入れられた、一部の好まぬ野菜をより分けて隅に寄せていた。
「あ、また野菜残して……。ちゃんと食べないとダメだろ」
しかしそれも途中で見つけられてしまう。
先ほどまでは穏やかであったシルヴィアの目が、若干鋭いものを宿すのに気付き、フィオネは緊張する。
基本的には優しく接してくれるシルヴィアではあるが、フィオネの今後を想ってであろうか、食べ物の好き嫌いに関しては、あまり容赦してはくれない。
この点に関しては、普段から厳しいメイドのトリシアと同程度といったところか。
これもまた毎朝の恒例となっている。
フィオネにとって食事の時間は、穏やかでありながらも、如何に嫌いな食材から逃げ切るかの駆け引きの場でもあった。
もっとも毎度のようにそれには敗れ、嫌々ながら野菜を食べる破目にはなっているのだが。
朝食を終えたフィオネは、いつも通りトリシアについて勉強を教わっていた。
以前こそフィオネと同じく隣で勉強していたシルヴィアであるが、今現在その姿はない。
元々シルヴィアに必要とされていたのは、この世界で使われている文字を覚えることのみ。
算術その他に関しては、元の世界で学び終えていたので、習得を必要とはしていなかった。
故に数日前、トリシアから読み書きに関して日常生活には問題なしとのお墨付きを貰い、晴れて午前の勉強からは解放されている。
あとは独自に本でも読みながら、解らない所だけを聞いて覚えていけば良いだろうという話となった。
よって今のフィオネは、トリシアと二人きりで勉強する日々に逆戻りだ。
ただどちらにせよ、今日のシルヴィアは冬物の古着をくれると言うベルナデッタに呼び出され、市街区へと出かけているため不在ではあるのだが。
「フィオネ様、ここの計算が間違っています」
相変わらず、トリシアの教育は厳しい。
横で見ており、途中で間違えているであろうことに気付いているにも関わらず、最後まで口を出さない。
解き終えてから指摘し、再び最初からやらせるのだ。完璧にできるまで。
「もーヤダー!」
「大きな声を出してもダメですよ。最初からです」
多少の癇癪を起しはしたが、トリシアにはわがままが通用しないのを、フィオネは重々理解していた。
ひとしきり騒いで中断した後、渋々とではあるが大人しく従い机に向かう。
用を足す時などでもない限り、終わらなければ解放してはもらえないのだ。
とはいえ集中が切れたのか、不機嫌そうな顔をして机に向かうフィオネを見て、身が入っていないと感じたのだろう。
トリシアはやる気を引き出すために、少々燃料を注ぐ。
「この問題がお昼までに解けたら、ブランドン様にフィオネ様の大好きなプリンを作ってもらうよう頼んでみます。ですから頑張りましょうね」
その言葉にピクリと反応しトリシアへと振り返ると、今までの不機嫌が嘘のように表情が開く。
健康などを考慮してか、トリシアは普段あまり甘い物を与えてはくれない。
だが時々思い出したように食卓に乗せてくれる、フィオネの大好物であるプリン。
堅物な執事が作ってくれるそれは、フィオネにとってこの世界で最も目が無い品であった。
「ほんと!?」
「本当です。ただし今日の分が全て、お昼までにできたらです」
しばしその言葉に頬を緩めるフィオネであったが、ハッとし机の上に広がる問題へと向き合う。
トリシアは確かに、昼までに解けたらと言った。
つまりそれに間に合わなければ、愛しのプリンは目の前に転がり込んでは来ない。
それを理解したフィオネは、懸命に眼前の強敵に立ち向かい始めた。
▽
昼食後に出されたプリンは、フィオネにとってはまさに極上と言える味であった。
卵黄のまったりとしてたコクが際立ち、滑らかで強い甘みを感じるが、決して後口に残り過ぎない。
ブランドン手製のプリンは、フィオネをいたく満足させる。
普段のフィオネは、その鋭い視線を苦手としているため、ブランドンを避けているフシさえある。
しかしこの時ばかりは、美味しいプリンを作ってくれる誰よりも優しいおじさんであると思えた。
甘みが強いのはフィオネの分だけで、他の大人たちが食べるものは、甘さを抑えてカラメルの苦みを表に出したものだ。
やはり子供用に用意するといった手間をかける辺り、本質的には優しい人物なのであろう。
「ごちそーさまー」
上機嫌でプリンを完食し、出された香茶を飲み干す。
椅子から飛び降りると、行儀の悪さを窘める声を背に、そのまま食堂から飛び出して中庭へと出た。
勉強は午前だけで、毎日昼食後は自由な時間となる。
とはいえ外へ出たフィオネは、することも無く暇を持て余していた。
普段であれば、ままごとなりボール遊びをするフィオネに、シルヴィアが付き合ってくれる場合が多い。
ただそのシルヴィアも、朝にベルナデッタの家に向かってからまだ帰ってきてはいない。
昼食時も居なかったので、どうやらあちらで馳走になっているようであった。
基本的にトリシアも、午後からは自らの仕事が溜まっているため、相手をしてもらうのは難しい。
本来であれば、現在フィオネの教育に使われている午前中にしても、彼女が屋敷内での仕事に従事するための時間なのだ。
これ以上わがままを言ってはならないと、フィオネは直感的に感じ取っていた。
しばらく一人で中庭を駆け回り、土が剥き出しとなっている花壇を掘り返して遊んだ後。
冬の弱い陽射しの中、ぶらぶらと目的もなく屋敷の正門まで行き、これといった目的も無く外を眺める。
もともと少ない人通りであり、時折前を通るのも、他の屋敷へと荷を運ぶ馬車くらいなものだ。
「ひまー……」
反射的に、思考に浮かんだ言葉が口を衝く。
現状のフィオネは、その貴族としての立場や特殊性から、基本的には外部の子供たちとの接触の機会が得られずにいた。
まだ幼いが故に、シルヴィアのようにこの世界に来てすぐに、そうなった理由や状況の説明を受けてはいない。
それでも子供であるが故に、口止めしたとしても、何の拍子に元の世界に関する話が飛び出すとも限らない。
可哀想であるという想いはあるものの、国の上部からの指示である以上、ブランドンやトリシアも従わざるをえなかった。
ただどちらにせよ、元々この上街区に住む子供の絶対数は少ない。
この地域に居を構える家の子供たちは、ある程度の年齢になれば、他都市にある富裕層や貴族向けの寄宿学校へと入れられる場合が多いからだ。
自然、フィオネは同世代の友人を作る機会は得られず、屋敷内では比較的年の近いシルヴィアやトリシアに甘え、遊び相手を務めてもらう以外にはない。
ピュイィィィィィィ……
退屈から少し眠気を感じ始めたフィオネは、不意に聞こえた甲高い音に反応し、空を見上げる。
すると然程高くはない場所を、鳥の群れが真っ直ぐ、上街区の外れへと飛んでいくのが見えた。
その鳥の群れは外れまで飛んでいくと、しばらく上空を旋回してから降りていく。
フィオネはそれを眺めていたが、少しするとその鳥たちは、一斉に降りた場所から再び飛び立ち旋回を始める。
興味深く鳥の群れを眺めていたフィオネであったが、その鳥たちは何度か旋回した後、何処かへと去って行った。
鳥の行動に関心を示したフィオネであったが、去った鳥のあとを追うのも叶わない。
しばし去って行った方角を眺めた後、部屋へと戻ってから。
大人たちがフィオネのために、市街区から買って帰った絵本を読んで時間を潰すしかなかった。