02
とぼとぼと、見覚えのない路地裏を俯き加減となり延々歩く。
時折顔を上げて周囲を見回すが、道を覆うかのように立ち並ぶ家々によって視界は遮られ、ベルナデッタには自身の居場所すら把握できなかった。
耳には人々の喧騒も聞こえず、ここが大きな通りから随分と外れているという現実ばかりを認識させられる。
陽の射し込まぬ道ではあるが、見上げれば空は徐々に茜色と変わっていく。
そろそろ日が沈む頃合いか。
「なんでさっきから人っ子一人として歩いてないのよ! 帰宅時間じゃないの!?」
ベルナデッタの不満が言葉として現れたとおり、道に迷って以降は誰一人として人とすれ違わない。
大きな通りに出るために道を尋ねようにも、人が居なければそれも叶わぬ。
というよりも、この地域には人が住んでいる気配とったものがあまり感じられなかった。
誰も居ない廃墟を彷徨っている錯覚にさえ陥りかける。
否な空気を感じ始めていたベルナデッタへと追い打ちをかけるように、喧騒の代わりにゴロゴロという音が空から響き始める。
どうやらこれから一雨くるのだろう。
「冗談じゃない、早く人通りのある場所に出ないと……」
そう言って、僅かに回復した体力を頼りとし、再び路地を小走りで駆ける。
しかし残念ながら、雨はベルナデッタの都合を聞き入れてはくれないようだ。
次第に小粒の雨が身体に触れ始め、あれよあれよという間に、石畳を激しく打つ豪雨へと変わってしまう。
そのままでいるよりはマシかと思い、ベルナデッタは羽織った上着を傘代わりとして走る。
せめてどこか、雨宿りできる場所でもないかと周囲を見渡す。
しかし都合よく人ひとりを休ませられるだけの場所を見つけられず、雨避けの上着も雨を吸い、徐々にその役目を果たさなくなっていく。
焦るベルナデッタであったが、不意に視線を向けた先。
通りに面したビル状の大きな建物、その入口部分に、雨を避けれそうなスペースを見つける。
その建物は所々から明りが漏れており、そこが無人ではないという事実に僅かな安堵を漏らす。
「ちょっとだけ……お借りします」
住人に聞こえるでもないが、小さく断りを入れてそこに身を滑り込ませる。
身を打つ雨の感触から逃れられ、僅かではあるがベルナデッタは人心地着けたような感覚を得られた。
見上げれば、雨は弱まるどころか更にその勢いを強め、打ち付ける音は激しさを増す。
晩秋の冷たい雨に濡れきった上着を乱暴に絞るベルナデッタは、逃げ出してきた屋敷を想う。
「ちょっと……早まったかな」
それは財布を無くし、道に迷い、雨に打たれる現状への後悔。
そして身に着ける衣服や自身の立場についての常識を、知らないまま暢気に過ごしていた己への苛立ち。
そういったものが折り重なり、軽率な行動に移した自身を責め立てる。
ベルナデッタは決して、屋敷での生活に不満があった訳ではない。
自身がこの世界に呼び込まれた理由もしっかりと説明されたし、それに対するせめてもの保障として、生活の安定も約束してもらえていた。
それでも入念な下準備の末に逃げ出したのは、ただ退屈であったが故に。
起きて食事を摂り、少しの勉強の後また食事、午後からは花を愛でて間食と午睡。
夜には豪勢な食事と広い浴場での入浴、そして就寝。
この安穏とした生活を一年近く送り続ける内に、刺激を欲してしまっていたのだ。
「ったく……退屈だなんて贅沢だっての。あっちの世界での生活を思い出せばいいものを」
向こうの世界でのベルナデッタは、こちらに移る直前まで、決して人並み通りの人生であったとは言い難い。
多くの人を裏切り、欲に溺れ、その人生に後悔を感じていた。
そんな中、異界へ行くという手段ではあるが、人生をリセットする機会を与えられたのだ。
例えそれが、ここでの人生を終えた後、元の世界へ還るという泡沫の人生であるとしても。
それを想えば、退屈という理由で屋敷を飛び出した自身の、なんと浅はかなことか。
低い気温と雨によって奪われた体温の低下からか、それとも暗い雨の中で独りであるが故か。
次第に陰鬱とした気分に陥ったベルナデッタは、しゃがみ込んでいる内に目頭が熱くなり始めるのを感じた。
溜まりゆく涙が零れ落ちそうになったその時、雨を避けて場所を借りた建物の入り口が、蝶番の軋む音と共に開かれる。
「…………君は?」
現れたのは一人の大柄な人物。
美丈夫とは言い切れないが、ガッシリとした鍛え上げられているであろう体躯に、短い髪。
少しだけ伸ばした髭があまり似合っていない、中年に差し掛かっているであろう男だ。
ベルナデッタが不意の事態に唖然とした後、目に浮かんだ雨とも涙ともつかぬモノを拭い、慌てて答える。
「す、すみません。急に雨に降られてしまいまして、雨宿りを……。ご迷惑だとは思いますが」
「いや、迷惑だなんて。……すまないな、本当なら中に入って休んでもらうんだが、生憎ここは騎士団の男連中専用の宿舎でな。女性を連れ込むわけにはいかんのだ」
「いえそんな! 雨を凌げる場所を貸して頂けるだけで十分ですので」
随分と律儀というか、お堅い男だとベルナデッタは感じる。
ここが男所帯の騎士団の中でも、更にそれが色濃い男子寮であるというのは理解した。
ただそれでも雨に濡れた女を迎え入れられないと言い切る辺り、本当に規則に厳しいのか、それともベルナデッタの存在を迷惑に思っているのか。
「雨が止んだらすぐに退散しますので。しばらくこの場所をお借りしてよろしいでしょうか?」
「ああ……構わない。そのくらいなら誰も文句は言うまい」
それだけ告げると、男は一瞥もくれず中へと引っ込んでいく。
その素っ気ない態度に、ベルナデッタは些か拍子抜けする。
ここまでの経験で言うならば、明確に貴族であると声を大にしたも同然の恰好をした娘を、こんな軒下に放置するというのは考えにくい。
どうもおかしいと思ったベルナデッタが自身の服を見れば、それも納得。
その白いはずの服は跳ね上がった泥水に汚れ、見るも無残な色へと変わり果てていた。
これでは自分が貴族だと言ったところで、誰も信じてはくれないであろうと考え、少しの笑いがこみ上げる。
「ま、貴族って看板を外したあたしじゃ、こんな扱いも当然か」
自虐からこみ上げる笑いに、ベルナデッタは自身で寒々としたものを感じる。
考えてみれば、雇うのを断った人たちもその身が貴族であると察する時点までは、普通の娘を相手するのと同じ対応であった。
貴族だからこそ受け入れてはもらえない。貴族でないからこそ手を差し伸べてもらえない。
ベルナデッタ自身にとって、果たしてどちらがよりマシであると言えるか。
「ああ、良かった。まだ居たな」
思考の海へと沈み始めたベルナデッタの背後から、先ほど現れた男が再び姿を現し、声を掛ける。
素っ気ない態度に勘違いをしていたが、どうやら彼はベルナデッタを放っておくつもりなど無いようであった。
「これを使うといい」
「え? あの……いいんですか?」
「私にはこれくらいしかできないが、少なくとも何も無いよりはマシであろう」
男はこれといった感情をその顔に表すこともなく、その腕に抱えた大量の荷物をベルナデッタへと渡してくる。
身体や服を拭くためと思われるタオル、乾いた暖かそうな上着、毛布、それに椅子。
それらを押し付けると、男は再び言葉も無く建物へと入っていく。
受け取ったままどうしようか悩んだベルナデッタであったが、折角の好意を無下にするのも憚られ、有り難く使わせてもらう事にした。
本当ならば脱ぎ捨ててしまいたい濡れた服ではあるが、人通りがないとはいえ公衆の場でそれをする訳にもいかない。
タオルで可能な限り水気を吸い、その上から上着を羽織る。
置かれた椅子へと腰かけ、やはりまだ寒さを感じたため毛布も被り。
そこまでしてようやく、若干気の休まるだけの暖かさを感じ始める。
「お礼……後でしておかないと」
とはいえ今の自身に、いったいどんな礼が出来るというのか。
一瞬男に対して女が出来る礼として、最も元手の不要なものが脳裏を過る。
しかしベルナデッタは、何を馬鹿なことをと思いそれの考えを振り払う。
そんな事をしては、治安維持を司る騎士団の一員であるという、彼の立場諸々に影響しかねない。
それに第一、この身体は借り物だ。
本来の持ち主の意識は既に霧散しているとはいえ、その身を粗末に扱うというのも気が引けた。
やはり大人しく屋敷へと帰り、頭を下げるしかないのであろうかと考える。
そうすれば、男がしてくれたこの不器用な親切にも多少なりと報えよう。
本音では、まだ戻りたくはない。
しかしこのまま我儘を続けるというのも、多くの人に対して迷惑をかけ続けるだけに思えてならなかった。
そんな中、三度ベルナデッタの背後にある扉が開かれる。
現れたのはやはり同じ男であり、今度はその手に片手で持てる程度な木の椀が乗っていた。
「これで多少は温まるだろう。宿舎で出た食事の残りで悪いが」
男の太い腕が伸び、ベルナデッタの細腕へと椀を渡す。
冷たい秋の空気の中で湯気を立てるそれを受け取り、中へと目を向ける。
それはきっと急いで温めようとしたのであろう。決して熱いとは言い難いが、じんわりとした熱を持った一杯のスープであった。
次いで渡される木のスプーンで掬ってみれば、中には小さな燻製肉や豆、根菜など。
決して具材が多いとは言えないが、食べるだけで温まりそうなものが浮いていた。
「冷めないうちに食うといい」
「い……いただきます……」
男の勧めに従い、大人しく口をつける。
熱くはない、若干ぬるいそれを一口含むと、じんわりとした熱が身体へと染み渡る気がした。
その後はただひたすらに食べ続ける。
朝に屋敷を飛び出して以降、財布をスられる直前に飲んだ果実水だけで、他には何も口にしてはいない。
ベルナデッタ自身でも気付いてはいなかったが、その身は空腹に悶えていたのだ。
少しだけ薄い塩味のスープを懸命にかき込み、お替りが要るかと尋ねる男の言葉へと素直に頷く。
運ばれてきた先程よりも少しだけ冷たくなったスープを、再び言葉も発せず飲み干していく。
二杯目のスープを食べきり一心地ついたベルナデッタは、ふと思い直し、とりあえず礼を言うべきであろうと男へ礼を言おうとした。
しかしその喉から漏れるのは、感謝の言葉ではなく嗚咽。
気付けばベルナデッタは、一度は引っ込んだはずである涙を、再び溢れさせようとしていた。
「お、おい! どうしたんだ、どこか痛むのか!?」
「ちが……っ。そうじゃ……なぃ」
「じゃあスープが悪かったのか!? 団の男共で作った適当な代物だからな……さてはマズかったか?」
泣き始めたベルナデッタへと、狼狽する男。
決して与えられたスープが悪かったのではない。
むしろその逆。とても美味しいとは言えぬ物ではあったが、そのぬるいスープがベルナデッタの冷えた心には酷く沁みていた。
とはいえそれを察することなど男には出来ようはずもなく、ただひたすらに動揺し慌てるのみ。
オロオロと狼狽えるその大きな男の様子に、嗚咽を漏らすばかりであったベルナデッタの内へと、小さな悪戯心が芽生える。
つい先ほど、までこれといった表情も無く、実直な騎士然とした様子であったその男。
これ以上困らせてみたら、どんな顔を見せてくれるのだろうと。
「頼むから泣かないでくれ、こんな所を他の連中に見られたら何て言われるか……」
とはいえ彼は恩人だ。ベルナデッタが泣いている所を他の騎士たちに見られでもすれば、それこそ困った事態になるのであろう。
ベルナデッタは落ち着きつつある心へと湧いた好奇心を満たすべく、変わらず涙を湛える自身の身体を、未だ振り続ける雨の下へと晒した。
当然、貸し与えられた上着や毛布は椅子に置いて。
「どうしたんだ、一体!?」
「これなら……」
急に雨の中へと飛び出したベルナデッタへと、男は当然の問いを投げかける。
それに対して、若干の恥ずかしさを纏ってベルナデッタは、悪戯めいた言葉を返した。
「これなら泣いてるのもわからないでしょう?」
その言葉に唖然とする男の表情を見て、ベルナデッタは微かな満足感を得る。
ただ、その行動自体は結局、男に対して迷惑を掛けてしまうものとなったのではあるが。
――――――――
「とまぁ、これがあたしとうちの旦那との出会いって訳よ」
応接間のソファーへともたれかかり、ベルナデッタはどこか懐かしそうな目で宙を見上げる。
向かい合う席には、疲労からか若干ゲンナリとした様子を見せるシルヴィアの姿。
「その後は結局屋敷に戻ったんだけどね。でも度々街に出てきては、あの人にアタックを仕掛けたものよ。観念して受けてくれるまで何年もかかっちゃったけどさ」
「それは何というか……ご愁傷さまで」
呼びつけたシルヴィアに、大量の冬服を着せ替えた後。
お茶をしながらした話は、ベルナデッタ自身が夫であるグレゴールと出会った経緯についてであった。
ようは惚気話だ。
「懇切丁寧に時間をかけて、最初から最後まで説明してくれてどうもありがとう……」
「あらそんなに大した労じゃないのよ。あたしが好きで話してるんだし」
「……嫌味が効いてねぇ……」
やはり半ば無理やりに聞かせられる惚気は、その気力を大幅に削いでしまうのか。
着せ替え人形よろしく着替えさせていた時とは別の意味で、シルヴィアの疲労は限界寸前であるようにも見える。
とはいえ本人の望むと望まざるとに関わらず、古着とはいえ無償で服を提供しようというのだ。
この程度の話に付き合ってくれても、罰は当たらないだろうとベルナデッタは考えていた。
もっとも、外見はともかく中身が男性であるシルヴィアには、聞くだけで苦行に近い内容の話であろうけれど。
「で、食べてみる……? そのスープ。時間が許すならだけど」
「そうだな、折角だし――」
この調子で行けば、シルヴィアは夕食もベルナデッタの家で摂る破目になるのだろう。
そのタイミングで話に出たスープだ。ベルナデッタには、それを食卓に出すというのも一興と思えてならない。
そう考えて提案してみた案ではあるのだが、最初少し乗り気に見えたシルヴィアは言葉を途中で止め、首を横に振る。
「いや、やっぱり止めておくよ」
「まぁそうね。レシピを教えてもらって時々作ってはいるんだけど、元は騎士団の男連中が片手間に作った代物だから。決して美味しいとは言い難いのよね……」
「いや、そうじゃないって。……想い出の味なんだろ? 余所者が踏み込むのは遠慮しておくよ」
肩を竦めて言うシルヴィアの言葉に、ベルナデッタはしばし口を噤む。
それが気遣いから出たものか、それとも単に微妙と言える味を忌避してのものか。
だが言われた言葉は、ベルナデッタが内心奥底で抱えていたモノへと触れるものでもあった。
実際それを作るとなった場合には、少しだけ味を変えて出そうとすら考えていたのだ。
勿論美味しくなるよう微調整してのものではあるが。
若干の悪戯っぽいシルヴィアの表情に、どこかおかしなものを感じながら、向けられたその言葉へと小さく感謝する。
「そんなこと言って、後でやっぱり食べたいって言っても知らないわよ?」
「じゃあそのうち気が向いたら作りに来てくれよ。その時にはしっかりご馳走になるから」
とはいえここまで軽口を叩かれると、是が非でも本物を食べさせたくなってくる。
シルヴィアの言葉へと、ベルナデッタは乗ってみる事にし、もたれたソファーから身を起こして堂々と言い放つ。
「いいわよ。でも行くタイミングこっちで決めさせてもらうから。あのスープは……寒い雨の日が一番美味しいのよ」
展開そのものはテンプレぽい気も。