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15


 日が落ちてから屋敷へと辿り着いたシルヴィアを待っていたのは、メイドのトリシアであった。

 その顔を見て、ようやく我が家へと帰宅できたと安堵するシルヴィア。

 しかし出迎えたその娘の表情を見て、瞬間に凍りつく。

 憤怒の形相という訳ではない。

 むしろ照明によって照らされたそれは満面の笑みであり、だからこそそれが故に恐ろしかった。


 案の定と言うべきであろうか。

 屋敷の中へと入った……いや、連行されたシルヴィアが座らせられると、それこそ延々とお小言を頂戴する破目となった。

 人を使って連絡こそしたものの、一言の相談も無く屋敷を離れ、あまつさえ怪我をして帰ってきたのだ。

 この程度で済んだのを、感謝しても良いくらいであるのかもしれない。



「まあ……一応反省していただけたようなので、今回は大目に見ます。ですが次はこの程度では済みませんからね」



 説教によって縮こまって座るシルヴィアの前で腕を組み、息つく間もなく言葉を放つトリシア。

 使用人が仕える相手に対してする行動であるとは思えないが、心配するが故の言葉であるとシルヴィアには十分理解できていた。

 ようやく伝えるべき事を言い終えたか、トリシアは組んだ腕を解いて深く息を吐いた。

 申し訳ないという想いを抱えながら顔を上げ、ふと周囲を見回したシルヴィアは問う。



「そういえば、アウグストたちはどうしたんだ? 姿が見えないけど」



 ようやく屋敷へと帰ったシルヴィアであったが、お説教込みで出迎えてくれたのはトリシア一人だ。

 夜遅いとはいえ、眠るには少々早い時間帯。

 自身の勝手で留守にしていただけではあるが、誰も出迎える様子がないのには、一抹の寂しさを覚えていた。



「アウグスト様とバルトロ様はいつも通り、市街区へ遊びに出られています。ハウ様は私も詳しくは存じませんが、ご友人と夕食を摂りに外出されました。フィオネ様は既にお休みに」



 連絡も無く急に帰ったのだ。それも致し方ないのだと諦める。

 一言「しょうがないか」とだけ呟くと、その様子を見たトリシアは、このまましばらく待つようシルヴィアへと告げて部屋の奥へと引っ込む。

 そこからしばらくすると、桶に湯を張って持ってきた。



「とりあえず脚を出してください。包帯を取り替えますので」



 小言を言っていた時とは異なる優しい口調に、大人しく長いスカートの裾を捲り、脚を差し出す。

 目の前で膝を突いたトリシアは、優しい手付きで滲んだ血に汚れた包帯を外し、湯に浸した布で傷口の周囲を拭く。



「詳しい事情はお聞きしませんが、あまり危ない目に遭うような状況は避けて頂きませんと……」


「悪かったよ。反省してるから」



 自身が仕える相手であるためか、それとも近しい存在に対して抱く親愛の情故か。

 どちらであるかは定かでないものの、トリシアがシルヴィアに対し、相当の心配を抱いていたというのは、確かであるように感じられた。

 そんな心配の末に、怪我をして帰ってきたのだ。

 その立場を想像すると、悪い事をしてしまったという想いが沸き上がる。



「当面は大人しくしているよ。心配をかけたりしない」


「当面と言わず、ずっと大人しくあってもらいたいですね」



 トリシアが返す言葉に、どこか冗談めいた空気を纏っているようにシルヴィアには感じられた。

 その雰囲気に安堵し、少しだけ気が休まる。



「……お食事の準備は出来ていますが……お休みになられますか?」



 屋敷に戻り、安堵したためだろうか。

 気が緩んだシルヴィアは急な睡魔に襲われ、いつの間にか長い欠伸をしていた。

 普段であれば怒られかねない、大きな口を開けてのそれをトリシアは窘めるでもなく問う。



「そうだな。ゴメン、折角だけど眠くてしょうがない」


「わかりました。では軽食を作っておきますので、気が向かれるようでしたら食べて下さいね」


「ああ、恩に着るよ」



 感謝の言葉を告げ、痛む脚に若干顔を歪めながらも立ち上がる。

 横から手を貸そうとするトリシアに、大丈夫とだけ告げると、一人自室へと戻る廊下を歩く。



 屋敷へと連れ帰ってくれたジーナに貰った、硬木の杖を突きながら。

 ゆっくりと長い廊下を歩き辿り着いた自身の部屋は、出る時と変わらぬ様子。

 埃の落ちている風もない清潔な部屋は、主が留守とする間も、トリシアによって日々掃除をされていたのだと知れる。



「起きたらもう一度礼を言っておかないとな……」



 倒れ込むようにベッドへと横になり、自身に言い聞かせるべく呟く。

 最近眠っていたクラリッサの家に有るそれよりも、横になったベッドは数段柔らかく広い。

 それは緊張によりすり減った精神が溺れるには十分。

 瞼を閉じて意識を手放すのに、さほどの時間は必要なく、着替えすら忘れ泥のように眠りについていった。





 夢を見ていたか記憶にない。それは長い時間であるようにも、一瞬の間であるようにも思えた。

 目を覚ましたシルヴィアは瞼を腫らし、バルコニーへと歩み寄る。

 外気の冷たさを伝える玻璃の向こうに広がる世界は暗く、遠くに街の灯りが点在している様子が見て取れた。


 時計が存在しないため、眠ってからどれだけの時間が経過したのかを知る術はない。

 しかし身体のダルさや喉の渇き方、いつの間にか着替えさせられている自身の姿に、相当な時間が経過しているであろう事は予想が付いた。



「……まさか丸一日寝てたのか?」



 誰にともなく、乾いて張り付く喉を震わせ呟く。

 しまったとは思いはするものの、致し方ないのだろうかともシルヴィアは考えた。

 ほぼ二日近くの間、恐怖し、走り、怪我や緊張とストレスに苛まれ続けていたのだ。

 疲労の海に沈み、時間を浪費したとしても致し方がないであろうと。



「……水」



 眠る時には確か存在しなかったはずの、サイドチェストに置かれたカラフェを掴む。

 貴族の娘にはあるまじき、コップに移さず直に飲み干すという行為。

 それは多少どころか、相当に行儀が悪いと言っても良い。

 だが一杯に満たされたそれを飲み干しても、まだ足りぬように思え、それを置くとふらりとした足取りで部屋から出た。


 冬の寒さに冷え切った廊下を歩くにつれ、身体からは体温が奪われていく。

 一部例外としては、脚に負った傷が熱をもっているくらいであろうか。

 とはいえそれも前日ほどの痛みはなく、今も少し足を引きずりこそするものの、歩けなくはない。



 トリシアに会えたら、緩み汚れた包帯を換えてもらおうと考え廊下を進む。

 ゆっくりと時間をかけて歩き、誰か居ないであろうかと辿り着いた食堂の扉を開けた。

 すると中には、いつの間に戻っていたのだろうか。

 椅子に座りお茶をすする執事のブランドンの姿が、広い食堂を薄く照らす、幾つかの洋燈によって浮かび上がっていた。


 昨日の状況がどうなっているかなども含めて問うべく、シルヴィアは声を掛けようとする。

 しかしテーブルを挟んだ反対側、ブランドンの向かいに、人が座っているのに気がつく。

 この屋敷に暮らす人間ではない。トリシアとは別人な、人種の女性。

 ここ数日見慣れた、しかし本来この場に居るはずのない人物。



「クラリッサさん……?」



 ブランドンに向かい合って座り、同じく茶を淹れられたカップを持つ人物の名を呟く。

 見間違えようはずもない。その姿はつい先日まで共に暮らし、姉妹としての関係性を演じ続けた相手であった。


 名を呟いたシルヴィアの声が届いたのだろう。クラリッサは気付き、立ち上がると深々と礼をする。

 その様子は、姉が妹に対してする接し方とは異なるものだ。

 すでにシルヴィアを妹と誤認してはいない。現実を直視したという点に関しては、喜ばしいことなのだろう。

 しかしその他人に対してするそれは、シルヴィアに一抹の寂しさを抱かせた。



「どうして貴女がここに……?」



 問うたシルヴィアの疑問も尤もではある。

 普通であれば、クラリッサがこの場に居るというのは在り得ない。

 ある意味でシルヴィアの関係者と言えなくはないが、それでもこの娘はあくまでも一般の市民でしかない。

 貴族の住まう上街区、それも軍が監視する者たちが住まう屋敷へと、おいそれと立ち入れるはずがなかった。

 そんなシルヴィアの疑問に答えたのは、当の本人ではなくブランドンだ。



「どうしてもシルヴィア様にお会いしたいとの事でしたので。本来ならばお断りするのですが、総監の意向もありまして」



 近寄り、耳元で囁くように伝える。

 その言葉を受けたシルヴィアの脳裏に、愉快そうな笑みを浮かべるデルフィーナの姿がよぎった。

 僅かな時間顔を会わせただけであったが、あの人物であれば、こういった許可を下ろしても不思議ではないようにも思える。



「では、私はやり残した仕事がございますので、失礼させて頂きます」



 安全であると判断したのか、それとも気を利かせたのか。

 ブランドンは深く一礼すると、そのまま扉の向こうへ去っていく。

 閉められた扉の音が低く響き渡り、広い食堂にシルヴィアとクラリッサの二人のみが残された。

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