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 一瞬。ほんの一瞬だけだったのだろう。追手の女から気を逸らせるのに成功したのは。

 足下で起きた小さな爆発。それにより女の思考は停止し、ジーナの動きに反応するのが僅かに遅れた。

 見逃さず、逆手に握ったククリの一撃を見舞うと、これまで易々とあしらわれてきたそれはいとも簡単に女の肌を裂く。

 ただしそれは浅く、到底致命傷足り得ない程度でしかない傷であった。


 周囲には先程の爆発によって発生した薄い煙で覆われ、視界は霞む。とはいえ、人を完全に隠すほどの濃さではなく、ジーナの姿を容易に捉えられた。

 自身が負った傷など意にも返さぬ様子で、再び牙を剥きジーナへと迫るその姿は、激情そのもの。

 爆発によってか、あるいは負った傷によってか。誘発された純粋な殺意を向けられ、ジーナはそれまで感じた事の無い恐怖に背筋を凍らせる。

 しかし傷によって一切の冷静さを失っていること。そして薄いとはいえ煙によって視界が悪くなっていること。それらは追手の女にとって、致命的な状況へと追いやられるに十分な要素となっていた。


 ジーナは短刀を突きつけ迫る女とは逆の方向。自身の背後で呻るように風を切る音を感じ、小さくほくそ笑んだ。

 慢心や油断ではなく、確信として。わたしの勝利だと。




「…………あぁ?」



 先程まで狂気を振り回しジーナへと突進していた女は、訳もわからぬといった声を上げ、その動きを止めていた。

 止めたというよりも、止められたと言い表すべきであろうか。その勢いは女にとっての前方、ジーナの背後から現れた銀光によって完全に相殺されている。

 銀光の正体、月明かりを受けて鈍く輝く刃。それは女の胸へと深く、深く突き刺さっていた。


 明確な致命傷。例え服の下へと何がしかの対策を講じていたとしても、到底重傷化は免れ得ぬであろう。深々と胸を……心臓に近い位置を貫いている。



「なっ……テ……めぇ」



 追手の女はジーナの肩ごしから現れた剣の元を辿り、それを繰り出した存在へと視線を伝わせる。

 その先に在るのは、顔に深い髭を蓄えた、大柄な人物。眼光鋭く、その貫く刃を持つ手には一部の迷いさえも見受けられぬ様子。

 ゆっくりに思えるような滑らかな動作でその人物は剣を引き抜くと、入れ替わるようにジーナはククリを一閃させ、喉元を切り裂く。

 悲鳴さえもなく、月明かりに照らされた裏路地を朱い飛沫が染め上げ、強烈な鉄の臭いがジーナの鼻を突いた。


 本来ならば活かして捕らえ、可能であれば手段問わずその背後関係や目的を吐かせるというのが常道なのであろう。

 しかしここまでの追手の女が吐いた言葉や、その狂気的とも言える戦い方から、ジーナには真っ当な立ち位置に居る存在ではないであろうと容易に予想がついていた。故に何がしかの情報を引き出すのは難しいであろうと。

 ただどちらにせよジーナ自身は、活かしたまま捕らえるだけの実力は持ち合わせておらず、加勢した偉丈夫が繰り出した攻撃も致命傷となっている。その時点で捕らえるという選択肢は存在しなかった。




 膝を突き、虚ろな瞳のままドサリと地面に倒れ込む女の手に握られた短刀を、念のために蹴り飛ばす。

 未だに大量の血液を垂れ流し続ける女の、既に骸と化しつつある姿を見届け、ジーナは背後を振り返り簡潔な礼を述べた。



「すみません、感謝します」


「なに、妻の友人が助けを求めてきたのでな。どうやらご同類のようでもあるし、加勢せぬわけにもいくまい」


「格好が格好ですので、間違われはしないかと戦々恐々しておりました」



 その雰囲気などは別として、服装そのものを見れば怪しいと感じるのは圧倒的にジーナの側だ。

 姿だけを見れば、片やごく普通の街娘。片や全身にローブを纏った顔さえも見せぬ謎の人物。どちらが不審者であるかと問われれば、後者だと指さされても仕方がない。

 だがそれでも間違えられずに居られたのは、ジーナが直前にしていた会話の内容のおかげに他ならなかった。

 女がバラすと言った相手が誰であるのかを明示させる事によって、加勢した男に対し敵は自分ではないという意思表示を行う。その後で後ろ手に回した手で、物陰から状況を見極めようとしていた男へと手でサインを行っていた。



 内心で静かに安堵しながら、辺りの様子を窺う。

 面と向かう男以外には、周囲に人影はない。人通りのほとんどない裏路地とはいえ、先ほどのように大きな音を発せば誰がしか起きてきてもおかしくはない。

 しかしそれでも誰一人顔を見せないのは、トラブルを察知して関わり合いになるのを避けようとしている為であろうか。



「色々と判断材料を提供してくれていたのでね。それに纏う空気が違う。双方堅気には見えなかったが、君からは我等騎士団と似た、規律のある気配を感じた。殺人鬼と比較すればまだ真っ当だ」


「褒めて頂いていると捉えてよいのでしょうか」


「それは無論。こうして話していれば、流石は軍属の者であると思えるな」


「そこまでお分かりで」


「この点はもう少し上手く隠した方がいいだろうがな。シルヴィア嬢にも気付かれておったぞ」



 失態だ。そうジーナには思えた。おそらくこのローブの下に有る正体が、彼女に戦いの手ほどきをした人物である事すらも悟られているのであろうと。

 考えてみれば、このタイミングで加勢をしたり、逃げるよう促して声を発したりと判断する材料はいくつも在る。自身にたどり着いてもおかしくはないと考えた。





「で、こやつは何者なのだ」


「そこまでは。それはこれから我々が調べていきますので」


「仕留めたのは失敗であったかな?」


「いえ、どちらにせよ口を割るような輩ではなかったでしょう。感謝しております」



 実際に目の前の偉丈夫、グレゴールが駆けつけなければ危なかったのは確かか。ここまで抵抗したのだ、逃げようと思ってもそう簡単には逃がしてはくれなかったであろう。

 グレゴールが来ていることにジーナが気が付いたのも、半ば偶然に近い。僅かに視界の端に映った影と、追手の女は頭に血が昇っていたため気付かなかったであろう、僅かな気配。

 女が冷静さを失っていた事、シルヴィアがグレゴールに助けを求めていた事、そのグレゴールが殺傷力のある武器を手に駆けつけてくれたこと。

 これらのどれか一つでも欠けていれば、今血を流して絶命しているのは自身であった可能性が高い。そうジーナは推測する。



「期待せずに聞くのだが、何か判明したら私にも教えてもらえるのかね?」


「その件に関しては申し訳ないが、ご遠慮願いたい」



 掛けられた問いに答えたのはジーナではなかった。

 裏路地に建つ建物の影から、一人、また一人と姿を現す、ジーナと同じくローブに身を包んだ数人の影。

 いつの間に来ていたのかは知らないが、その姿を目にし、表には出さないまでもジーナは安堵する。自身の仲間である、軍の情報局に所属する者たちであるのは明らかであった為に。

 おそらく先程横から割って入ってきたのは、ジーナの上官に当たる大尉。声色は変えてあるが、こういった場合に駆けつけて来るのはそうであろうと考えた。



「部下を助けて頂いたようで」


「気にすることはありますまい。所属は違えど同じ国を護るという立場の者同士だ、必要とあらば協力するのはやぶさかではない」


「感謝する。……情報ですが、この件でもし力をお借りしたい時にはお教えしましょう」


「前回シルヴィア嬢が略取された時のようにですかな」



 グレゴールの発したその言葉に、大尉は少しの間を置いて返す。



「……その通りです」


「了解した。騎士としては上からの指示があれば従う。それに彼女は妻の友人でもある、私個人としても協力は惜しまない」


「今一度の感謝を。ではグレゴール殿、この場の後始末は我々に任せて頂いて結構ですので」


「あい解った。ではご縁があればまた」



 名乗っても居ない自身の名を発されたのを気に留める様子もなく、グレゴールは抜身の剣を鞘に納め、自らの家へと帰っていく。

 その背を見送るジーナの背へと、労をねぎらう声。



「ご苦労だった。少々手抜かりは有ったようだが」


「申し訳ありません。彼女の護衛で失敗したのは二度目です、処分は覚悟しております」


「それについては追って沙汰があるだろう。だがこの程度ならば許容範囲内だ、そこまで重くはなるまい。とりあえず生命が無事であればそれで良い」



 その言葉に、ジーナはどこか事務的な印象を感じずにはいられなかった。

 目の前の男は、シルヴィアを始めとしてあの屋敷に住む者たちの監視と護衛を兼ね、執事として潜り込んでいる。接していれば、そのうち情も湧いてくるのではないかと思えてならなかったが、大尉の言葉からはそれを感じられない。

 仕事として割り切っていると言えばその通り。しかし、今の今まで命のやり取りを行っていたジーナには、そういった所での人間味というものに対する欲求が生まれていた。

 ある意味で、この割り切り方も人間臭さと言えなくもないが。




「……随分と苦戦したようだな」


「わたしの実力が至らないせいで。届けて頂いた道具が無ければ、そこで転がっていたのはわたしの側でした」



 チラリと、裏路地で横たわっている、最後まで名前もわからぬままであった死骸へと目を向ける。尤も、既にそれは大きな麻袋へと詰められ、何処かへと運ばれようとしている所ではある。

 大尉と共に現れた同僚たちは、言葉を交わすジーナを余所に周囲に散った血液を拭き、水で流し、戦闘の痕跡を可能な限り残さぬよう動いていた。

 ジーナが異変に気付く少し前に届いた補給物資。それがなければどうなっていたことか。



「そのようだ。最後に使ったアレだが、お前が実戦で使った最初の人間となる。後日報告書に纏めて提出するように」



 頷き、了承する。いったいどの時点から見ていたのかは定かではないが、ジーナが最後に放った、光と音の発する術を使った時点では見ていたようではある。

 確かにジーナがそれを使ったのは、訓練で使用した時を除けば初めてであった。

 その正体や仕組みは情報局の構成員にすら知らされていない。普段は厳重に梱包されたそれを外気に晒し、衝撃を与える、あるいは火に当てれば炸裂するという道具。

 それそのものには大した威力はないが、今回のように目暗ましや動揺を誘うといった用途で支給される装備の一部であった。


 痕跡隠滅のための作業をしていた者たちがその手を止め、終え頷いて完了を伝えると、撤収を開始する。

 その段になって、ようやく全員が初めてその身に纏っていたローブを脱ぐ。夜闇の中とはいえ、そのような格好をしていてはあまりにも目立つために。

 集まった要員たちは、各々道具や死骸を抱えた状態で散らばり撤収していく。

 その様子を眺めるジーナは、自身が倒れていた場合には同じように処理されたのであろうかと考え、身が凍るような想いを抱いた。

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