15
「くそぅ! なぜ私がこんな目に……っ!」
その男、情報局副長カミッロは、自宅である屋敷の一室で悪態をつきながら、大きな鞄へと荷物を放り込んでいた。
荷物と言ってもそのほとんどは貯め込んだ金貨であり、碌に身体も鍛えていない太った小男であるカミッロには、到底持ち上げられない重さとなっている。
しかしそれにも気付かず一心不乱に詰め込もうとする様からは、とてつもない焦りが見えていた。
「あいつらわしの命令を無視して勝手なことをしおって! 許さんぞ……」
カミッロが情報局の構成員とは別に動かしている手駒から、教団が騎士団の攻撃を受けているという一報を、受けすぐさま屋敷へととって帰り逃げ出す準備をしていた。
おそらく騎士団へと情報を流したのは、自身の部下たちであろうと考える。
部下たちの権限だけでは、騎士団を動かすことはできない。
ならばもっと上の局長や、軍上層部にまで事情は筒抜けなのだろう事は容易に想像がついた。
今すぐに逃げ出して身を隠さなければならない。
そうしなければ我が身が危ないと焦っていると、不意にカミッロの背後から声が聞こえた。
「副長、いったい何をそんなに慌てているのかね?」
かけられた声にビクリと反応し、ゆっくりと背後を振り返る。
するとそこには、穏やかな表情をした一人の人物と、自身の部下である年配の少佐が立っていた。
赤茶色の髪を短くカットした、二十代後半に見える女性。
その女性は腕を組んだままツカツカとカミッロの前へと歩むと、穏やかであった表情を崩して、静かに、そして冷たいく見下ろす。
「こ……これは殿下」
そう言うカミッロの腰は確実に引けていた。
カミッロが殿下と呼んだ女性は、冷たい視線のままで小さくため息つく。
「何度も言っているはずだぞ副長。今の我は王族である以前に、貴様の上官なのだ」
「……し、失礼をいたしました。局長……」
殿下と呼ばれた、王族と思わしき女性。
この人物こそが、情報局のトップに立つ教官という役職に就く者であった。
しかしそれはカミッロと違い、その立場だけで得たものではない。
もちろんそれが全くないとは言わないまでも、相応に能力を認められた結果として指名されたものだ。
「我等がここに来た意味……、当然わかるであろうな?」
もう逃げられないと、カミッロはそう悟るしかなかった。
相手はたったの二人だが、共に軍人として相応の技量を持つプロだ。
近くに護衛は居らず、なんの訓練も受けようとはしなかった己が跳ね除けて逃走を計れる相手ではない。
そもそもそのような事をしようものなら、すぐさまこの場で首を落とされるかもしれない。
この場は大人しく拘束され、身内の貴族たちによる嘆願に期待するしか、カミッロに道は残されていなかった。
「……はい」
「よろしい。では軍律に従い貴様を拘束する。連れて行け」
その声に反応し、部屋の外で待機していたのであろう、数人の構成員たちが現れる。
現れた者たちは、そのままカミッロを本部へと連行するべく、両手を拘束し連れ出した。
場に残された局長と少佐は顔を見合わせ、薄い苦笑いを浮かべる。
「ヤツめ、多少は抵抗してくるかと思ったが……肩すかしだな少佐」
「はい。これでしたらもう少しあちらに人数を割くべきであったかもしれません。私の落ち度です」
「気にするな、我もお前の割り振りに異議を申さなかったのだ、責任はある」
そうして少佐の背を優しく叩くと、局長は「これからも頼んだぞ」と言い、自身も本部へと戻るべく外に待たせている馬車へと戻っていった。
「……まだワシを退役させてくれるつもりはない……か」
▽
先程までと変わらぬ狭い塔の一室で、シルヴィアは目を覚ました。
変わらぬとは言ったものの、部屋の中には陽射しが入り込んで明るく、自身の周りには数人の女性が居る。
意識を失っている間に、夜が明けていたのであろう。
その内の一人である女性は、服をめくり上げ露出した脇腹へと掌を当て、何かを呟く。
掌と触れた脇腹の間からは淡い光が発せられており、おそらくは治療のために行われているのであろう。
やはりここは異世界なのだなと、シルヴィアはどこか呑気にそれを眺めていた。
治療の成果か、それとも飲まされた痛み止めのおかげかは判らぬが、身体の痛みはある程度収まっている。
多少ではあるが、左腕も力が入る状態にまでは回復しているようだ。
「気が付いたかね」
かけられた声に反応し、首をそちらの方向へ振ってみると、そこには見覚えのある顔があった。
そう、それは確か……。
「えっと……グレゴール……さん?」
「覚えていて頂けたようで光栄です」
自身を助けてくれた老人が言っていた言葉を思い出す。
老人は確か、下に騎士団が来ていると言っていた。
だとすれば、彼が居ても決しておかしくはないのだろう。
「師団長、お知り合いですか?」
「ああ、妻の友人の一人でね。……まさか攫われたのが彼女であったとは知らなかったが」
グレゴールは側に立っていた男の問いに答える。
シルヴィアはその光景に、改めて自身が大事に巻き込まれてしまったのだとの認識を得た。
どれだけの人数が助けに来たのかは知らないが、随分と心配をかけてしまったらしいと。
「事情をお聞きしたいのはやまやまなのですが、一先ずはここから出て街に帰りましょう。立てますか?」
グレゴールから差し伸べられた手を取り、ゆっくりと立ち上がる。
身体に多少の痛みは走るものの、一応は問題なく身体が動くようだ。
そのまま室外へと出て登ってきた螺旋階段を降り、礼拝堂へと繋がる扉の前で立ち止まると。
すると前を歩いていたグレゴールは振り返り、どこか言い辛そうな口調で告げる。
「この扉の向こうで、さきほど戦闘が行われました。貴女にとっては、見るに堪えないものであるかもしれませんが……」
戦闘が行われていたであろう事は、聞こえていた音から判ってはいた。
だがこの向こうでどれだけの事が行われたのか、シルヴィアには知る由もなく、多少負傷した人たちが居るであろう程度に考えていた。
一呼吸置き、グレゴールはその扉をゆっくりと開く。
するとその隙間から、シルヴィアにとっては初めて嗅ぐ、強い異臭が流れ込む。
「これ……は……」
開かれた扉の先に広がる光景と、満ちる異臭に息を呑む。
この場所にシルヴィアが攫われて来た時とは違い、礼拝堂上部にある窓は開けられ光が入り込んでいる。
それは赤黒く染め上げられた礼拝堂を隅々まで照らし、そこで行われたであろう事態をまざまざと見せつけた。
無数に転がる骸には布がかけられ直接見えることはなかったが、それが戦闘によって倒れた者たちであることは容易に想像がついた。
足下には、避けて歩くのも不可能なほどに流れた、生命の色。
しばし立ち尽くし呆然としていたシルヴィアであったが、思い出したかのようにその場で膝をつき嘔吐した。
既に胃は空となっていたため、僅かに吐き出された胃液により喉が焼かれる。
側に立っていた女性騎士が気遣い背を撫でてくれるが、それにすら気づかぬほどに、シルヴィアは大きなショックを受けていた。
「……行きましょう」
女性騎士の肩に腕を回し立ち上がらされると、グレゴールの言葉に従い支えられながら外へ向けて歩を進める。
足下からベチャリと鳴る音から逃げるように耳を塞ぐ。
途中チラリと見えた布の下からは、まだ大人であるようには思えない、華奢な青白い手が覗いていた。
外に出るや否や、シルヴィアは大きく息を吐き出し、次いで新鮮な空気を肺に取り込む。
それまで礼拝堂に充満していた鉄の臭いから解放され、救いを求めるかのような行為であった。
外に居る信者たちは、怪我こそしているものの皆生きているようで、縄や鋼線で縛られ複数の馬車に乗せられようとしているところであった。
「あの人たちは……どうなるんだ?」
「使われていただけとはいえ、彼らもまた犯罪に加担していたのです。然るべき場で裁きにかけられる事となるでしょう」
馬車に乗せられた者たちの多くは俯き、外へ出てきたシルヴィアの存在を気にも留める様子はない。
それを横目で見ながら、別に用意された幌付きの馬車へと乗せられ、街へと向けて走り出す。
馬車は森に敷かれた道を揺れながら走り、後ろに見える廃教会はその大きさを徐々に小さくしていった。