01
雄喜が目を覚まし、まず最初にその目へと飛び込んできた物。
それは一見簡素に見えるも、木材の表面へと細やかな彫刻を施された天蓋であった。
この時点で自身が横になっている場所が、普段毎日寝起きしている自室とは異なるのだと知れる。
それも当然か。
現代の日本に住む人間にとって、天蓋などという物には到底縁がない。
精々が欧州を取り扱った旅番組で、資料として映っているのを見る程度であろうか。
「……ここは?」
雄喜は呟きつつ、肘で身体を支え上体を起こす。
この部屋で目を覚ます前、そこで感じた時とは違い、今は一応身体もいうことを利くようだ。
あれだけあった頭痛も、今はもう治まっている。
広さにして約三十畳ほどといったところか。その広い部屋にただ一人。
それとなく首を振った先には、天蓋と同じく細部に装飾の施された扉と、壁一面を埋め尽くさんばかりの大きな書棚。
そして一組のシンプルな丸テーブル。
その上には柔らかくもしっかりとした明かりを放つ、洋燈のような物が目に映る。
反対側へと目を向ければ、ベランダかテラスにでも続く扉であろうか。
若干透明度の低いガラスの扉越しに、柔らかな日差しが部屋へと注ぎ込んでいた。
断じて、雄喜が居たはずの居酒屋ではないだろう。
浩介は、そして他の客たちはいったいどこへ行ってしまったというのか。
一人で眠るには些か広すぎるであろうベッドから雄喜が降り立つと、足にふわりと柔らかな絨毯の感触が伝わる。
「痛っ……たたた」
何がしかの怪我でも負ったというのであろうか、全身が軋むように痛む。
壁へと手を付けて身体を支えながら、その痛む身体をおしてゆっくりとガラス扉へ向け歩を進める。
その中で雄喜は、痛みとは異なる身体の違和感を感じていた。
自身の腕が、脚が。意思に沿って動きこそするものの、少しの部分でズレている感覚。
痛む身体に鞭を打ち、苦労してガラス扉の前に立つ。
するとガラス越しの眼前に、外の景色が広がる。
降り注ぐ暖かい陽射しに、所々黒い雲の浮かぶ空。
遠くであるため詳しくは判らないが、目に映るのは日本とは思えぬ木材と石造りの町並み。
その更に奥には、地平線まで続く緑の丘陵地帯。
山が多く平野部の少ない土地である、雄喜自身の住む街ではない。
それどころか日本ですらないと思えるその光景に、雄喜は言葉を発することができなかった。
眼下に広がるその光景に、思考を冷静に巡らせる余裕はない。
そんな中でも雄喜の頭には、いくつかの可能性が浮かんでは消える。
「(俺は誘拐されたのか?)」
「(いや、たんに旅行先かどこかで寝ぼけているだけ? だがそんな記憶なんてない)」
「(それとも単純に俺は今夢を見ているのか?)」
普通に考えるならば、今の状況は夢の中であると捉えるのが正しいのかもしれない。
だがこの身体に走る痛みが、足や手に伝わる壁や絨毯の質感が。
無情にも今の光景が現実であると突き付けてくるかのようであった。
堂々巡りする思考の中、ただその場に立ち尽くす。
そんな雄喜の困惑とは関係なく、ガラス扉を超えた先にある外の世界は、刻々とその時を進めていく。
風が吹き、樹木が揺れ、雲が流れ。
雨をもたらしそうなその分厚く暗い雲が太陽を多い隠し、周囲は徐々に薄暗くなっていく。
先ほどの暖かな陽射しが嘘であるかのように、外は暗く影を写さなくなっていた。
その結果、眼前のガラス扉は外の暗さに応じて、明るい日差しの中では映さなかったあるモノを映しだすことになる。
立ち尽くす雄喜の目に飛び込んだモノ、それは一人の少女だった。
日本人とは思えぬ、スッとした高い鼻と大きな瞳、そして肩まで届く髪を湛えている。
その少女がガラスを介して、雄喜自身をジッと見つめていた。
その姿を捉えるや否や、雄喜は痛みも忘れ勢いよく後ろへ振り返る。
だが振り返ったその先に少女は居らず、目に映るのは先程まで横たわっていた天蓋付のベッドと一面の書棚。
そして光を発し続けるランプのみ。
幻覚でも見たのかと思い再びガラス扉へと視線を向けると、やはりそこには先程の少女の姿が変わらずに存在する。
……いや、先程とは異なり、困惑した表情を浮かべて映し出されていた。
雄喜自身の姿は――映っていない。
「(落ち付くんだ雄喜……これは夢だろう? 幻覚だろう? ありえない事だってわかってるはずだ)」
持ち合わせた常識が必死になって否定を続ける。
ありえるはずがない、こんな事は認めてはならない、と。
動揺に震える腕をガラスへと伸ばす。
すると眼前の少女はそれに応じ、雄喜が伸ばした腕とは反対の腕を伸ばしてくる。
それはまさに鏡が自身を映し出すのと同じ光景であり、否が応にも雄喜へとその現実を突き付けてきた。
ここまでくれば最後の一線を支え否定を続けていた常識も、遂に抗うのは難しくなっていく。
あまりにも非現実的ではあるものの、いい加減認めざるをえず、もう一度振り返って確認をする気も失せてしまっていた。
雄喜は自身の身に起きている現状、先程から続く違和感の正体。
それらをまだ微かに抵抗を続ける常識が邪魔をしながらも、徐々に認識しつつある。
その最後の一線で支え続けていた常識も、自身の発した一言によって完全に排除されることとなった。
「この子は……俺なのか……」