11
シルヴィアが唯香と過ごした時間は確かに短い。
精々が十日に満たぬものであり、それもほとんどは昼間の限られた時間だけだ。
交友関係としては短いものであるとと言える。
だが数日とはいえ本心で語り合い、悩みや願望を打ち明け合い、信頼関係を築くに至っている。
今となっては唯香の側がどう思っていたかは知る由もないが、既にシルヴィアにとって唯香は友人と言っていい存在であった。
葬儀は先日慎ましやかに終えられた。
据えられた子爵という立場にしては、それはあまりにも小規模なもの。
もっとも、この世界においての交友関係もなく、その死を一般に伝えられることもないのだから当然といえば当然か。
葬儀の後でされたハウの説明によれば、これから先十五日は慣習として、日本で言うところの喪に服すとのことであった。
喪が明けると、そこで新たに唯香の後任となる者の召喚が行われるのであると。
新たに召還される人物が生じ、こちらでは生贄とされる人が生まれる。
是非はともかくとして、唯香の代わりとなる新しい人物を、快く受け入れられるか。
それはまだ何とも言えず、シルヴィアにはその人物について考えることすら億劫であった。
その友人である唯香が自ら命を絶ってから三日。
シルヴィアはそのショックを抱えたまま、ほとんどの時間を自室で過ごした。
何もやる気が出ず、あまり人と話したくもないと、ただただ自室から外を眺めて過ごす。
心配して部屋を訪ねて来たハウやアウグストにはぞんざいな態度をとってしまい、何度も覗きに来たフィオネにも優しく接してやることが出来ずにいた。
毎食の食事をトリシアが運んでは来るものの、毎度あまり食欲が沸かず半分以上食べ残す始末。
「暖かいな……」
半分だけ開けられたテラスへの扉。
そこからは小さく太鼓の音が入り込み、ベッドへと横になるシルヴィアの耳に届く。
葬儀からは二日が経過し、市街区では春の祭りが始まっている。
本来ならば、唯香と一緒に行くはずであった春祭り。
あの時に失念せず誘っていれば、もう少しだけ思いとどまってくれたのではないか。
そんな考えが頭を巡る。
「ずっと閉じこもってちゃダメだよな……」
気乗りこそしないものの、今の時点で十分周囲を心配させている。
これ以上手間を掛けさせる訳にはいかないであろう。
シルヴィアはゆっくりと立ち上がると、これといった目的もなく部屋から出て行く。
いつもと変わらず、柔らかい照明に照らされた静かな廊下。
普段とまったく同じはずの廊下であったが、いつも以上に静まり返っているような錯覚へと陥る。
そのまま歩を進めていたシルヴィアであったが、やがて一つの部屋の前で立ち止まり、ジッと部屋名の刻まれたプレートを見つめた。
立ち止まったそこは、数日前まで唯香が使っていた部屋。
唯香が激高した翌日に、気まずく顔を合わせたこと。朝食に誘い顔の傷を手当てしたことなどが鮮明に思い出される。
見つめる先に有るプレートへと刻まれた文字を、小さく声に出して読み上げた。
トリシアから教わった文字により、今のシルヴィアはある程度であれば書かれた内容を読み取れるようになってきている。
そこに刻まれているのは、本来ならば唯香がこちらで使う名前であったはずだ。
「そういえば、一度もこっちの名前で呼ばなかったな……」
その身体を受け入れかねていた唯香に、男性としての名で呼ぶのは躊躇われた。
故にシルヴィアを始め、屋敷の者たちは全員が唯香と呼び続けていた。
次に呼ばれる人物が、この名前を引き継ぐのか。
それともこれとは異なる、別の名前を得るのか。
シルヴィアは一瞬だけ、扉を開けようと取っ手に手を添える。
しかしその先を覗いたとしても唯香が居るはずもなく、馬鹿なことをしようとしている自身を鼻で笑う。
結局そのまま扉を開くこともなく、部屋の前から立ち去っていく。
中庭の前にたどり着いたシルヴィアは、僅かに逡巡してから中庭へと踏み出す。
そのまま話に聞いていた一角へと向けて歩を進め、やがて尖塔の真下へとたどり着いた。
この場で唯香が倒れていたと聞いている。
既に地面はキレイに掃除をされた後なのであろう、血で赤く染まった痕跡は見られない。
上を見上げれば、曇り空を背景に高く聳える尖塔。
その最上階と思える場所には、何のために使われるのであろうか、木枠の大きな窓が開かれていた。
「あんなに高い所から……」
30mほどの高さをした尖塔ではあるが、シルヴィアの眼にはそれよりもずっと高く、巨大であるように映っていた。
その余りにも高い塔から飛び降りる時、最後の瞬間に唯香は何を考えていたのであろうか。
一人で逝くことに、寂しさはなかったのだろうか。
尖塔の下で立ち尽くし、一人そんなことばかりを考える。
しばしそうしていたシルヴィアであったが、次第に身体の不調を感じたため、隅に置かれたベンチへと腰かけた。
ベンチの片側半分へと座り、シルヴィアは花壇を呆と眺める。
もう半分はここで話をする時、唯香が座っていた場所だ。
不意に感じた体調の不良は、寝不足から来るものであろう。
部屋で横になる時間が長かったとはいえ、その実堂々巡りする思考によって、睡眠そのものは然程取れてはいない。
呆としながら向ける視線の先にある花壇の花々も、今では綺麗に咲き誇っていた。
シルヴィアが部屋へと閉じこもっていた間に、季節は既に春の盛りとなりつつある。
花壇がその様子を一変させているのも、致し方ないことであろう。
唯香が好きだと言っていた、スミレによく似た紫の花もしっかりと蕾を開かせ、思いのほか小さな花弁を陽光に晒す。
中庭までは祭りの音も届かず、柔らかな陽射しの中、そこだけ静かに時間が流れているかのようであった。
「ここにいらっしゃいましたか」
唐突に横からかけられた声に反応し振り向くと、そこには普段と変わらぬ格好で立つトリシアの姿。
「お部屋にいらっしゃらないので、随分と探してしまいました」
よくよく見れば、少しだけ肩が上下している動き。
ここまで走って来たのであろうか、若干乱れた息を整えようとしているようだ。
この数日、シルヴィアはあまり食事も摂らず、周囲に心配をかけ続けていた。
唯香と同じ行動を取るのではと、トリシアが想像してしまうのも致し方ないことなのであろう。
「すみません、心配をかけさせてしまって」
「いいえ、何事もなければそれで」
シルヴィアの謝罪に薄く安堵の表情を浮かべると、トリシアは近くの花壇へと歩み寄り、しゃがみ込んで花へと手をやる。
そのまま互いに一言も喋らないままでいると、次第にポツリポツリと、雨が地面を濡らし始めた。
「シルヴィア様、雨が降って参りましたので、いったん屋根の下へ戻りましょう」
「そう……ですね」
トリシアに促され、徐々に雨足を強める中、逃げるように早足で屋根の下へと逃げ込む。
するとそこまでの弱い雨は、シルヴィアらが雨宿りするのを確認したかのように、強く地面を叩き始めた。
尖塔の下へと視線を向けると、激しく降りゆく雨が石畳に跳ねる。
今の時点で既に跡形もなくなってはいるが、シルヴィアにはこの雨が、唯香の血を洗い流すために降らされたように思えてならない。
「涙雨ですね」
「……え?」
「シルヴィア様や……私たちの心を映すかのようです」
「……こっちにもあるんですね、その言葉」
当然のように、トリシアもまた唯香の選んだ選択を悲しんでいたのだろう。
唯香に関わる者たちの悲しみを再認識させるかのように、強く雨は降り続く。
沈黙した空間に耐え兼ねたわけではないが、シルヴィアは訥々と話し始める。
ただ単に、今は内に溜まりつつある想いを聞いて欲しい。
「結局、祭りには誘えませんでした。もっと早く言えていれば、違った結果もあったのかもしれません」
「……それはどうでしょうか。唯香様も相応の決心を持ってされたはずですし」
「彼女……自分はやり直せるだろうかって聞いてきたんです。俺がやり直せるって答えたら、明るい顔で言ったんです、やり直してみせるって。俺はそれを、唯香がこの世界で頑張って生きる決意をしたんだと勘違いしてた」
「……」
「でも実際には違って、やり直す先ってのは元の世界を指していた。俺が彼女の背中を押してしまったんじゃないか、そう思えてならない……」
それはシルヴィアが、この数日ずっと考え続けていたことであった。
最後の一歩を踏み出す決断をさせたのは、自身の言葉だったのではないか。
己が余計なことを言わなければ、唯香はもっと違う選択肢を選んでいたのではないか。
もっと他の励まし方があったのではないかと。
そんな後悔に塗れたシルヴィアの告白へと、トリシアはしばし目を伏せながら聞く。
思いの丈を言い終えるまで、決して肯定も否定もせぬトリシア。
だが言い終えて沈黙したシルヴィアに対し、個人的な意見であると前置きしたうえで語り始めた。
「シルヴィア様、差し出がましい事を申しますが、違う捉え方はできないでしょうか?」
「……違うというと?」
「ユイカ様の選択は、私どもにとってはとても悲しいことです。ですがシルヴィア様たち召喚された皆様は、普通の方々とは異なり、死の先に別の未来が待っています。唯香様は前向きにそれを選ばれたのではないでしょうか」
「前向きに……?」
「私も確かな経験があって言う訳ではありませんが、ユイカ様はあちらの世界に戻ってやり直すために、自ら立ち向かうことを選ばれたのではと考えます」
トリシアの真摯な瞳を見つめながら、シルヴィアはゆっくりと壁に背中を預ける。
おそらくは、トリシアの言う通りなのだろう。
唯香は自らの意志で元の世界へと還り、学校や両親、親友へと向き合う道を選んだ。
それは手段こそ褒められたものとは言えないが、ある意味で希望を抱いたものであると言えなくもない。
ただそれをするのは、こちらでもっと生を享受してからではダメだったのだろうかと、シルヴィアは思う。
「私といたしましては、どうしてこの場所を選ばれたのかをお聞きして、文句でも言いたいところではありますけれど」
苦虫をかみつぶしたような表情をするトリシア。
いつも大切にしている花壇の脇を死に場所に選ばれたのだ。
例えそれを責める気はなくとも、理由の一つも問い質したいと考えるのは当然なのだろう。
ただ故人にそれを聞く術は無いが、シルヴィアはその理由について、おおよその見当がついていた。
「ここを選んだのはたぶん……好きだからですよ」
「好きだから……ですか?」
「ええ。彼女は言ってましたよ、この世界もこの身体も好きじゃない、けれどこの中庭は嫌いではないって。なんとなくですけど……ここを最後の場所に選んだ彼女の気持ちが、今の俺にはちょっとだけわかります」
今も尚雨に打たれる花々は、とても綺麗だ。
もし仮にシルヴィア自身が最後の場所を選ぶとすれば、自身の知る中で最も綺麗なこの場所となるのであろう。
それほどまでに、この場所は命に満ち満ちていた。
言うまでもなく、それは日頃から熱心に管理する、トリシアの努力の賜物だ。
「それは……光栄と言っていいのでしょうね。不謹慎でしょうけれども」
「いいんじゃないですか、別に不謹慎でも。……それに俺がもしこの世界で生きるのに飽きたら、最後にここを選びます」
と若干性質の悪い冗談を言うと、トリシアはその言葉にため息をつく。
決して当人に聞かせて喜ぶ話ではないであろう。
だが今の空気であれば、こういった言葉もそこまで悪いものではない。
「せめてそれ、は私が歳を取って死んだ後にしてください。……その頃までに誰かここを世話してくれる人を見つけなければなりませんね」
そう言うとトリシアはほほ笑み、彼女が最も懸念している事柄であろう、シルヴィアの意思について尋ねてきた。
「シルヴィア様は……この先もここで生きていけますか?」
「……大丈夫です。俺はまだ当分、向こうの世界へ残してきた事に向き合う気概が持てそうにありません。それに俺の後で無理やり呼ばれる人や、犠牲にされる人から恨まれたくはないですから」
「それでしたら今のところは安心です」
一応の納得を示すトリシアの横顔を見て、シルヴィアは密かな決意を固める。
この世界で、自分は唯香の分も生きていこう。
少なくとも自ら命を散らす選択だけはしない、周りの人たちを悲しませないためにも。
そう、言葉には出さず誓った。
▽
ここのところずっと降り続いていた雨もすっかり上がり、うって変わって空には一面の青空が広がる。
大量に水を吸った土のせいであろうか、まだ初春であるというのに、その空気からは暑さすら感じさせた。
春の祭りはその開催期間中、ずっと天気に悩まされ続け、多くの市民たちは消化不良となっているとアウグストはボヤいていた。
だが仕方がないであろう、天気ばかり決して日を選んではくれないのだから。
「ようやく晴れたからな。たまには火を浴びないと」
シルヴィアは室内に納めていた小さな植木鉢をテラスへと出し、日光とたっぷりの水を与える。
植物もいい加減、温かい陽射しが恋しいころであろう。
それから着替えをして、手鏡を使い手櫛で髪を整える。
今から朝食となりそれを終えた後、フィオネと共に外へと出かける約束をしている。
雨のせいでずっと屋敷の中から出られなかったためか、随分とストレスが溜まっているようで、トリシアの計らいによって今日の授業はお休み。
そういえばと、フィオネと一緒に出かけるのが初めてであると気付く。
アウグストとは出かけたが、最も慕ってくれている少女とは、未だ共に外を歩いてはいない。
そしてまたシルヴィア自身も、最初に連れられて以降屋敷の敷地外には出ていなかった。
「シルヴィア様、朝食のご用意ができました」
「わかりました、今行きます」
ノックされる音と共に聞こえる、トリシアの声。
テラスへの硝子扉を開け放ったまま、シルヴィアは食堂へ向けて部屋から出て行く。
住人が部屋から出て行き、静けさと柔らかな風のみが部屋へと漂う。
揺れるカーテンの向こうに在るテラスには、暖かな陽射しがさんさんと降り注ぐ。
テラスの隅へと置かれた小さな植木鉢。
そこには決意と共に還っていった少女が好きだと言っていた、スミレによく似た花が植えられ、春の陽光の下、爛々と咲き誇っていた。




