05
渋る唯香を連れ出し食堂まで来たシルヴィアであったが、食堂の空気は重い。
緊張や陰鬱な気配を感じ取ったのか、幼いフィオネは一目見るなり委縮してしまい、決して近寄っては来ない。
アウグストら男性陣二人は、唯香を見ると少しだけ意外そうな顔をし、あまり干渉してはこなかった。
ただ一瞬意味ありげな視線をシルヴィアへと送る。
それは機体を込められたものであり、唯香への対処を任せると言わんばかりのものにも思える。
少しは加勢してくれても良いだろうと思ったシルヴィアであったが、それを望むのも酷であろうかと考える。
自身が逆の立場であれば、きっと同じような態度を取ってしまうであろう。
そう考えると、あまり人に対して強くは言えないものがあった。
朝食のテーブルに着くと、会話がほとんどないこと以外、食事はつつがなく進んでいった。
しかし丁寧に焼かれたパンや、綺麗に茹でられた玉子。
色鮮やかなサラダも美味しいはずであるのに、いまいち食欲は湧いてこない。
言うまでもなく、その理由はこの暗い空気のせいであろう。
皿の半分程度を食べた所で、フィオネは言葉もなく食堂から走って逃げだしていく。
子供には耐えがたい雰囲気であったようで、これでもかなり我慢した方なのであろう。
しかし最後までは耐えられなかったようであった。
そのフィオネに続くように、唯香も一言「ごちそうさま」とだけ言うと、席を立ち部屋へと戻っていく。
閉められる扉の音を聞くと、食卓に残った三人は一斉に息を吐いた。
「おいシルヴィア。なんとかしてくれよ、あんなんじゃ飯の味もわかりゃしねえ」
「なんとかして欲しいなら、二人とも少しはフォロー入れて下さいよ……」
「とはいえ僕もどう声を掛けたものやら……」
身体はともかく精神は男性であるシルヴィアも含め、男三人揃って気弱な発言をする。
食事中の張りつめた空気に緊張し、息苦しい思いをしていたのは同様であったようだ。
「初対面は案の定揉めたって聞いたが、今は多少マシになってるみたいだしな……。正直今はお前に任せる以外の手が浮かばない」
「僕らもこちらに来て大きく外見が変わりましたが、性別までとなると……。貴女の方が彼女の気持ちが少しはわかるのでは」
どうやら現状この二人は、本格的に当てにはできそうにない。
シルヴィアは改めて、自分が何とかせねばならないのだと思い知り、密かに溜息つくおもいであった。
もっとも、トリシアはある程度手助けしてくれるであろうが。
「そういえばアウグストさん、最初話した時に俺……じゃなくて、私みたいに性別ごと変わるのは珍しいと言ってませんでしたか?」
背後で執事のブランドンが目を光らせていたため、一人称を言い直して問う。
あの時アウグストは確かに、"珍しいのが続く"と言っていた。
ということはこれまでにも、幾人かは同じような人が居たはずであった。
「そういやそんなことも言ったっけか?」
「確かに言いましたよ。珍しいってことは、これまでも居なかったってことではないんですよね?」
「そうだな……俺が直接知っている限りでは、あいつを含めてお前で三人目だ。お前の先代に当たるジジイは、他に四人くらい見たらしい」
九百年以上を生きたというシルヴィアの先代でさえ、その間に見たのはたったの四人。
こちらに来て百三十年ほどのアウグストで三人目ならば、彼は高い頻度で遭遇してるのであろう。
「大概は元の性別と肉体は同じになるがな。身体と精神が異なって呼ばれる例は、そう多くはない。それがどうしたんだ?」
「いえ、ただその人たちは、どうやってそれを受け入れていったのかなと思ったもので」
「俺が知ってるもう一人は、お前と同じく男から女になったタイプだったな。そいつは人種だったが、アッサリ受け入れて馴染んでたな、もう随分と前の話だが」
「では唯香さんと同じく、精神が女性だった人は知らないんですね」
もしアウグストが同じ例を知っているのであれば、そこから励ますためのヒントを得ようとした。
しかしそれが得られないのであれば、手探りでいくしかないのであろう。
「ただジジイの代では、一人だけ居たみたいだな。男の身体に移った女が」
「その人は……どうしたのか聞いていますか?」
「俺もあまり詳しく突っ込んで聞いた訳じゃないが……ジジイの話では、そいつは自ら命を絶ったようだ」
「そう……ですか」
手首を切った唯香と同様に、その人物も現実を受け入れられなかったのであろう。
死後本当に元の世界に戻れたかを確認する術は無いが、その人は故郷に還るという可能性を選択したのだ。
この話を知ってか知らずか、この屋敷に居る者たちはそれを恐れ、唯香に対して警戒感を抱いていた。
故にトリシアは積極的に世話を焼き、アウグストやハウは下手に刺激するのを恐れていたのであろう。
事実、唯香は一度それを目論んで失敗している。
最も近しい状況の存在として、自身はどう唯香に向き合っていけばいいのか。
最終的には、唯香自身が解決する問題ではあるだが、完全に放っておく訳にもいくまい。
悩めども、シルヴィアはそれに対する答えが見いだせずにいた。
▽
春の暖かい日差しを浴び、シルヴィアは次第に瞼が重くなるのを感じていた。
唯香との件ですっかりと失念していたが、昨夜は一切眠っていない。
そこから花壇の世話をして身体を動かし、胃の痛むような朝食を経た段階で、シルヴィアの身体は限界に近づいている。
柔らかな暖かさが心地よく、どんどん重くなる瞼と頭を、""紙と羽ペンの置かれた""机へと預けていく。
「ダメですよ、起きて下さい!」
放たれた鋭い声に、眠り始めた脳がわずかに覚醒する。
瞼を開くと、シルヴィアの眼にはトリシアとフィオネの顔が映った。
片や眉間にしわを寄せ、片や面白そうに寝惚け眼なシルヴィアの表情だけを真似ようとしている。
「さあ起きて下さい。私の授業で居眠りは許されませんよ」
「シルヴィアおかおまっくろー!」
フィオネの声に、シルヴィアは手で自身の顔を拭う。
すると手にはベッタリと、インクの黒い色が移っていた。
どうやら紙に書いた文字が渇く前に、突っ伏してしまっていたようだ。
シルヴィアは食後、こちらの世界で使われる文字を勉強したいと申し出ていた。
そこで手を上げたのがトリシアであり、午前中に行われているというフィオネの勉強へと、便乗させてもらうことになったのだ。
流石に五歳かそこらの子供と一緒になって、数字を勉強する必要はない。
ただ文字に関して言えば、早急に習得する必要性を感じていた。
自身の名を書く機会も多少なりと存在するであろうし、字が読めねば本すら手に取れない。
これから先、数百年の時をこの世界で生きるのだ。
まだ時間がたっぷりあるとはいえ、早めに習得するに越したことはないであろう。
「すみません。もう起きました」
「結構です。では続きからいきますよ。この単語に関しては、先ほどお教えしたシルヴィア様の名前の綴りと似ております。ただこの部分だけは間違い易く……」
この世界の識字率は決して高くはなく、一般の市民であれば、自身と家族の名が辛うじて書ける程度がほとんど。
教育を受けるのが義務ではなく、それ以上を必要とされる場合もほとんど存在しない。
商いをする者や、役人を志す者であれば多少は必要になってくるであろう。
だが普通に暮らす人々にとっては、そこまで優先度の高い教養であるとは言えなかった。
しかし召喚された者達は、ほとんど形だけであるとはいえ一応は貴族とされた存在だ。
教養として文字が書けねば、あまりにも示しがつかない。
と、食後にブランドンに言われたのが、シルヴィアが勉強を申し出た理由の一つであった。
机を並べて勉強するフィオネを横目で見れば、どこかで聞いたような歌を口ずさみながら、簡単な足し算と引き算を解いている。
まだ幼いということもあり、まだあまり高度な内容を求められることはない。
せいぜいがあちらの世界における、小学校低学年くらいで十分といったところであろうか。
それでも十分に、他貴族の子弟と比べても、高い水準であるとの話ではあった。
「ご自身の名前と数を表す単語さえ書ければ、とりあえず困ることはないでしょう。それ以上はこれから徐々に覚えていきましょう」
教えられた単語を紙へと書き写しつつ、再び説明に耳を傾ける。
どうもこのメイドは柔和な物腰と外見に騙されがちだが、想像以上に厳しい人のようであった。
綴りを間違えても、その部分だけをやり直す真似を許してはくれない。
一から書き直させられ、少しでも雑な書き方をするとすぐさま窘められる。
朝の水やりでもそうであったが、なかなかに押しの強さを持ち合わせているようだ。
まだ眠気の残る頭のまま、説明をするトリシアの顔をボーっと眺めていると、それに気づいたのだろう。
その表情を引き締め、喝を入れられる。
「聞いてらっしゃいますか!?」
「は、はい!」
「終わるまで休憩はありませんよ。さあ、ご自分の名前をここに書いて下さい。あと三百回」
なかなかのスパルタだ。
これは居眠りしそうになる度に、回数が増えていくかもしれないと考え震えあがる。
昼までに終わらせないと、食事さえも抜きにされかねない気配が漂い始める。
シルヴィアは必死に頭を奮起し、提示された課題に取り組むしかなかった。