02
翌日の早朝、シルヴィアは花壇のある中庭へと来ていた。
外はまだ薄暗く、陽は僅かしか顔をだしてはいない。
そのためか早朝の気温は随分と肌寒く、まだ冬の名残が残されているように思えてならなかった。
二日前に見た花壇の花々は、まだそれほどまでには蕾の形を変えてはいない。
この花壇が一面満開の花々で埋まるのは、まだもう少しだけ先であるようだ。
その中庭の一角、アウグストと会った小屋とは反対側の壁際に設置された一脚のベンチ。
シルヴィアは大きく伸びをし、木材で作られたそれに腰かけ、背もたれに身体を預ける。
「ふあぁぁ……」
昨夜は一睡もできず、今頃になって強い眠気に襲われ、大きな欠伸をする。
眠れなかった理由は言うまでもなく、ユイカの件であった。
何度も眠ろうと横になるも、感情の赴くまま発せられた言葉の数々が頭をよぎり、結局眠れぬまま朝を迎える破目に。
どう彼女に接していけばいいのか、それとも距離を置き続けるべきなのか。
夜通し考えども答えは出ない。
次第に陽は昇り始め、睡眠不足の身体へと朝日を浴びる。
庭中の花壇に埋められた花の蕾に囲まれ、当たる陽の暖かさが心地よい。
徐々に日光で身体が温まるにつれ、うつらうつらとし始めたシルヴィアであったが、視界の隅に何者かが中庭へと足を踏み入れるのが映る。
誰であろうと思い視線をやると、艶やかな長い金髪を三つ編みにしている人物の姿。トリシアだ。
手には木桶と木杓子。
いったい何をするつもりであろうかと考えていると、トリシアはそのまま中庭の隅に湧く水場へと向かう。
まさかこの広い花壇に、あれで水を撒くつもりなのであろうか。
あれでは大変な労力であろうにと思い、シルヴィアは身体を支配しかけていた眠気を振り払い、トリシアに向けて歩み寄った。
「トリシアさん、おはようございます」
かけた挨拶にピクリと反応し、トリシアは振り返る。
まさか先客が居るとは思っていなかったのであろう、その様子は少々意外そうでもあった。
「あら……おはようございますシルヴィア様。お早いですね?」
そういえばいつの間にやら、名前の呼び方がユウキ様から変えられている。
こちらでの呼び名に合わせて、修正したのであろう。
「ええ、ちょっと風に当たりたくて」
「……眠れませんでしたか?」
充血した目を見てそう判断したようであるが、眠れなかった理由はお見通しなのであろう。
その原因が昨夜の、ユイカとの一見にあると。
トリシアはポケットからハンカチを取り出すと、湧き出る水に浸し、固く絞ってシルヴィアへと渡す。
これで顔を拭くようにという事なのだろう。
シルヴィアはその好意をありがたく頂戴することにした。
「この花壇を……一人で世話しているんですか?」
「はい、基本的にはそうなります。時折ハウ様やフィオネ様が手伝ってくださることもありますが」
とても広い庭だが、これだけの広さを普段は一人で管理しているようであった。
向こうの世界でやるように、スプリンクラーやホースの類があるわけではない。
水をやるだけでも一苦労であろう。
「こんな広い庭……大変ではないです?」
シルヴィアが問うとニコリと笑顔を浮かべ、首を横に振った
そんなことはないですよと言い、トリシアは庭の花壇を見回しゆっくりと語る。
「好きでやっていることですから。それに見てくれる人は少ないですが、ここで少しでも気が安らいでいただけるなら、決して苦ではありませんよ」
「確かにここは気持ちが落ち付くような気がする」
「それは世話のし甲斐があります。もう少しすれば花も咲き始めてくれるので、楽しみにしていてください」
浮かべる笑顔と同じく穏やかな言葉。
シルヴィアはその空気が、どこか心地よく思えていた。
「シルヴィア様はどういったお花がお好きですか?」
「好きな花と言われても……。あまりそういったことを気にする機会がなかったので」
「やはり元が男性ですと、あまりお花に興味をお持ちにならないのでしょうか」
「男でも好きな人は居ると思いますよ。でも俺はあまり考えたことはありませんね」
シルヴィアの好みを聞いてどうするつもりなのか。
好きな花でもあれば、それを植えてくれるつもりであったのだろうか。
それとも単なる世間話の一つなのか、トリシアは続いてシルヴィアへと質問をぶつける。
「では、あちらの世界で十六くらいの女の子が好みそうなものはありませんか?」
「十六歳くらい……ですか?」
十六歳といえば高校生か……と考えたところで、トリシアが何を言わんとしているのか察しがついた。
おそらくトリシアは、ユイカの好みそうなものを探ろうとしていたのだ。
シルヴィアの好きな花を聞いたのも、異界の人間が好むものを知ろうとしたが故だった。
「すみません、俺はそのくらいの年頃の女の子と、接する機会があまりなかったもので。花そのものは嫌いな子は、あまり居ないと思いますが」
「そうですか……。でしたらやはり今の私にできそうなのは、この花壇の世話くらいでしょうね」
ユイカに何もしてやれない自身の無力さを、トリシアは歯痒く感じているのかもしれない。
シルヴィアからすれば、宥めて部屋へと連れ添ってあげられるだけでも、十分ではないかと思いはしたが。
それに比べて自身はどうなのであろう、と考える。
ただオタオタと動揺し、トリシアが来るまで声をかけることすらできなかった。
そこに悪意がなかったとしても、結果としてユイカを傷つけただけ。
シルヴィアが思考を沈め始めた様子に気付いたのであろう。
トリシアはフォローするため、優しい言葉をかける。
「ユイカ様の件は、シルヴィア様に責任はありませんよ」
「ええ、わかっています……ハウさんにも同じことを言われました」
「あまり気に病まれないことです。今は顔を合わせるのも難しいでしょうが、そのうちきっと……」
トリシアもまた、彼女には時間が必要と感じているのであろう。
今はまだ受け入れるだけの余裕がなく、もう少し心の整理をしなければならないと。
「昨夜お部屋へお連れした時に、ユイカ様はおっしゃっていましたよ。本当はシルヴィア様が悪くないのはわかっていると。八つ当たりであったことは、ご自身が一番理解されているようです」
「そうですか……」
最後に視線が合った時、ユイカの瞳が怒りを湛えているように見えてしまったが為に、その話は意外なものであった。
場合によっては、恨まれている可能性すらあるのではと思っていたのだ。
トリシアは少しだけ真剣な表情を作り、シルヴィアの目をジッと見る。
「溜め込んだ感情のやり場がないのです。シルヴィア様にはご苦労をおかけするとは思いますが、温かい目で見てあげては頂けませんでしょうか?」
「わかりました、彼女の気持ちも少しはわかりますし」
「よろしくお願いします。流石シルヴィア様はユイカ様よりも年上の男性だけのことはあります」
真剣な顔は緩み、少しだけおどけた空気を醸し出し告げる。
その言葉に、シルヴィアは一瞬だけ唖然とした後に苦笑した。
お互いの外見が真逆のものとなっていたため、実感が沸き辛いものはある。
だが精神においてユイカは高校生の少女、対してシルヴィアは十も歳が離れた大人の男なのだ。
「そういえばそうでした。なら大人らしく、あまり動揺してもいけませんね」
「はい、ですがある程度なら気楽にされていても良いと思いますよ? アウグスト様のように気楽すぎても困りますが」
互いに軽く笑いあう。
アウグストには悪いが、今はその性格を笑いのタネにさせてもらおうと思った。
僅かではあるが、心に溜まった重いものが霧散していく気がし、それを促してくれたトリシアへと心の中で感謝する。
「では、笑顔が戻ったところでこれをどうぞ」
と言いトリシアが手渡すのは、水の張られた木桶と木杓子。
「ん?」
「少し元気が出たら身体を動かし、身体を動かしたら食事を摂る。そして食事を摂ったらよく眠る。そうすれば明日もまた元気でいられます」
それらしい事を言ってはいるが、要は暇をしているシルヴィアに、水遣りを手伝えと言っているのであろう。
だが励ましてくれた礼もあり、、少しは手伝うのもいいのだろうとシルヴィアは考えた。
それに元々は、大変な作業を行おうとしているトリシアを手伝おうとして声をかけたのだ。
シルヴィアは苦笑しながらも、木桶を受け取るのであった。




