君に殺処分される豚の気持ちが分かるかい?
命の価値についての考察
その昔。恐らくは時代を遡れば遡るほど多少の例外は有るだろうが人間の暮らしは今に比べて生きにくいものだったのだろうと想う。
私がそう思ったのは、そう言う風潮や一般論や社会や科学の進歩に基づくデータだけでなく有る一冊の小説によるところも大きい。
その小説はレ・ミゼラブルを読みやすくした日本語版の小説である。
私はモルモンの家庭に生まれて、その他の日本人には珍しくある程度はキリスト教文化を理解できた。そのためその作品をすんなり読むことが出来た。
まず私の感想を述べる前に私にその本を紹介してくれて尚且つ、恐らくは数少ない心の友と呼べる人物についてとその人の感想を簡単にだが述べよう。
その人物は今自衛隊の高校に通っていてとても英語が得意な人物だ。そして何より最も尊いと感じたのは私が知る中で悪意や侮りなどの感情から何より遠く。尚且つ行動に知性を感じることである。
私は彼のことを信用しているし同じ学校にいた時は食事や風呂に一緒に行っていた。
そして彼のこの小説に対する感想は「人切れのパンのために生きるである」
面白いことに私がこの小説を読み勧めていくとこの言葉に賛同せざるを得ない。
あらすじを簡単に説明すると以下のようになる
まずはナポレオンが没して暫くした後のフランスで王政が復活してるが社会は未だに不安定な時代。後にフランス革命が起こることから見てもこの時代がどれほど混乱してたかは想像するに安いだろう。
主人公のジャン・バルジャンは根っからの悪人ではないが貧困に喘ぎ生きるために一切れのパンのために泥棒を働いてしまう。
そこで懲役のために造船場で19年働くこととなる。
そこでの扱いの酷さに更に心を歪めることとなる。
出所した後も犯罪者というレッテルをはられ宿にすら泊まれないほど冷遇された彼は必要に迫られ清廉な雰囲気を纏う司祭の家に一晩泊まることになる。
彼は世界に対するある種そうなってしまうのも頷ける様な憎悪や恨みなどが原因で司祭の家の高い金で売れるであろう銀の食器を盗んでしまう。
翌日彼は憲兵に捉えられ司祭の前に連れてこられるのだが、その時の司祭の言葉によって彼は変わる。
「その食器は私が彼に与えたものだ。それと渡す暇がなかったのだがこの銀の燭台も二本持っていきたまえ」
生まれてきてからの境遇により人間不信と憎悪の塊だったジャン・バルジャンの魂が清廉で正直なものに生まれ変わった瞬間だった。
そこから彼と彼の周りの悲惨人々が物語を織りなし最終的に彼の養女で最愛の娘のコゼットが結婚してジャン・バルジャンが死ぬところで物語が終わる。
この小説に出てくる悲惨な人々に共通するのはやはり何と言っても生きることに健気で必死で尚且つ報われない所だ。
例えばコレットの母親は誤って悪党に自分の娘であるコゼットを預けてしまいこと有るごとに養育費として自分の命とも呼べる金を吸い取られてしまう。
有るときは娘が病気にかかったと嘘の請求が届いてその金を工面するために自分の歯を全てを抜いて歯医者に売って治療費を工面したりした。
勿論自分の娘が虐待に近い状態であることなど彼女は知らないまま病気で最後まで娘に合うことなく死んだ。
人は、自分自身は、なにをもって命の価値を決めれば良いのだろう。
じぶんにとって利益があるかないかという風に決めていいのだろうか。
と言ってもほとんどの人はその価値基準で動いてるような気がする。恐らく自分もそうだろう。
まず利益も人にとって欲しいものは違う。フォアグラの作る過程を説明した動画を見たが雄と雌を仕分けてる職人が雌の鴨の雛を実際に捨てるようにして中央の穴に押し込めてるのがとても印象的だった。
まるでいらないものをそのまま捨てるかのような手つきで投げていた。
確かに職人にとって雌の鴨など丁寧に扱ってもなんの利益にもならないし尚且つこれからどうあがいても殺処分される鴨など誰の利益にもならないだろう。しかし命がこんな簡単にまるでモノのように扱われてるのを見ると少なからず違和感を感じるのは道徳の教育の成果だろうか。
もしかするとこうして文を書いてる自分の考え方はある意味で作られたものなのかもしれないがやはり自分はおかしいと思ってしまう。
人間は本質的に命の価値もその他の道具と同じように利益があるかないかで決めるのだ。
特に道徳的な教育が行き届く前の子供にその傾向は強い。
現在の道徳的な情操教育では過激なことを隠す傾向が有る。例えばスーパーマーケットで肉の買い方や流通の仕方は教えても、屠殺場の実態は教えない。
フォアグラが世界三大珍味であることは教えても「フォアグラ工場」の実態は教えない。
子供に対して喧嘩した後の仲直りの仕方は教えても喧嘩の勝ち方は教えない。
老人や赤ん坊に対しての命の価値は教えても殺処分される家畜の価値は教えない。
別に子供に対して全てを教える必要はないと自分も思うが、私は綺麗事が通じるのは綺麗な世界にいる時だけだと全ての子供に真っ先に教えなくてはならないと思う。
これは極端な例えだが、アフリカに生まれればアフリカに生きていくための知恵が有るように汚い世界で生きていくには汚い世界で生きていくための知恵が有る。
そして悲しいことに、人間は常に綺麗な世界で生きていけるとは限らないのだ。
本来それは社会が子供から遠ざけるものでもないしひたむきに隠すことでもないと思う。
本来、汚い世界で生きていれば子供はそれを自然に身につける。
しかしこの世界の異常に保護された未成年には公的にそれを学ぶ機会は訪れない。
そして何より心配なのが綺麗な世界から突然汚い世界に行く子供にその汚い世界に適応することができるかということである。
そして何より悲惨なのが世界を選ぶときに何らかの理由でその世界に行く覚悟が出来なかった場合である。
例えば意図的な情報操作による予測不能や本人に決定権がなく意図せずにその世界に行ってしまった場合などである。
恐らくは多くの職業は綺麗なことだけでは達成できない仕事を抱えてる。
そしてそれを解決するためには汚い世界の知識が否応なく必要となるだろう。
つまりは社会的には綺麗なだけの人材よりも汚い仕事のできる人間に多く需要が有るということだろう。
それならば何故この社会は子供を汚い知識から遠ざけるのか。
知ると知らないでは大きく違う。勿論綺麗な仕事のほうが比較的に給料がいいことも私は知っている。しかし自分が行く世界を選ぶのも職業選択の自由である。汚い職業を除外していい理由はない。
ではなぜこの国の教育現場では社会に出れば否応でも身につけるようなある種の汚さを教えることがないのか。
私は有る一つの仮説を立てた。教師が子供に真実を教えないのではなく、教えることが出来ないのだ。
多くの教師は高校から大学に入りそこで教員免許を取り教師になる。そしてもれなく教育現場に配属されるのだ。
つまり真の意味で教師が学校の外に出ることはない。外の世界を知らぬものにどうして外の世界のことを教えることが出来るのか。いや出来ない。
そこで問題になるのが現代の道徳的な情操教育の現場で外の世界の特に汚い世界に関する情報を隠そうとする動きである。
政府は教えようとしない。教師は教えることが出来ない。そしてもし家庭に問題があり家庭の中でそれを知ることが出来ないのであれば一体誰が子供に真実を教えるのか。
私はこの現代に生きる子供が最も必要な能力は如何にして隠されてる情報を取得することが出来るかだと思う。
それを自分で気づくか。もしくは親切な誰かに教えてもらうか。それともそれを気づく必要に迫られるか。
子どもたちはどうあがいても情報を求めなくてはならない。なぜなら社会も教師もあるいは親さえも決して誰も親切に真実を教えてくれないからだ。
そして皮肉なことに高度に情報化された社会の中では、子供だけでなく大人さえもが必死に情報を集めなくてはならない。何故なら、それが豊かになる唯一にして最も確実な方法だからだ。
私が思うに他の道具とは違う命の価値とは、すなわち情報の価値だと思う。そう思うのはただ単に私が他の命のないものよりも命のあるものから何かを学ぶことが多いためなのかもしれない。
分かりにくいですがコゼットの母親は悪党にとって雌の鴨の雛と言う暗喩のようなものです。人間が命の価値を見るときにたとえ人間であろうと道具としての見方をされるということを伝えたかっただけです。
後ここまで読んでくれて有難うございます。固有名詞も多く読みにくかったと思います。ここまでで分からないことは調べながら読むのでもスキップされるのでも自分が書いたものが読まれるというのは何より嬉しいものです。
ついでながら感想や評価をくれるとさらに嬉しいので忙しくないのであればそれらを書いてくれるとありがたいです。
ついでながら文の形や日本語がおかしな点も有ると思いますが、そういう場合は優しく指摘するか暖かく見ていてください。
その場合は優しく指摘してくれる方が自分にとっては嬉しいです。
最後にもう一度、ここまで読んでくれて有難うございます。




