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二人

作者: negachov

 義母。後妻。新しいお母さん。継母。


「……継母かぁ」

 新しいお母さんも哀しい響きがあるけど、シンデレラのイメージか、継母は頭一つ抜けてる感じ。どうしてあのお母さんはシンデレラに優しくしなかったんだろう。いやそれよりも、お父さんはどうしてあんな意地悪な人と再婚したんだろう。

 そんな毒にも薬にもならない事を考えてるうちに、もう三週間。



 哲学者には散歩道、そして私には屋上があった。

小さい頃よく病室から雲を眺めたそのイメージに一番近いのが、屋上からの眺めだった。闘病生活中自由の象徴に憧れたとかそんな格好良い話では無くて、単に不思議な生き物を観察するようなつもりで雲を眺めていただけ。特に雨の降る前の低くてはっきりと見える雲が好きで、窓に張り付いて一日中見ている事もあった。


 びゅう、と強い風が吹いた。乱れた髪を耳に掛けまた雲を見上げる。こういう早く動く雲も大好きだ。親はそんな私を見て哀しそうにしていたけれど、当時の私にはそれが理解できなかった。子供は大人が考える程複雑では無い。建前もない。小さい世界の中で必ずやりたい事を見つけて、それを実践するだけだ。ある意味で世捨て人に近い。


 今の私はどうだろう。恋人の住むこの十階建てマンションの屋上で相変わらず雲を眺めているけど、少し人の目を気にするようになった。そもそも三十にもなって純真な気持ちで雲を眺めると言ったら変人扱いされかねない。この場に似つかわしい煙草でも咥えようと胸のポケットに手を伸ばし

「あ……っと。そうか。」

 いつものやつとは違う銘柄を持って来ていたのを思い出した。慣れない手つきで銀紙を破り取りあえず一本取り出して、口に咥えてピコピコさせてみる。貧乏ゆすりみたいだなと思いつつ続けているうちに、思考のさざ波に呑みこまれてしまった。



――結婚して欲しい

 長谷川さんのその一言がずっと頭の中で繰り返される。三週間前にそう申し出を受け、私はとっさに「ちょっとだけ考える時間を下さい」と返事を一月待つよう頼んだ。そして今尚答えを決められずにいる。二月と言っておけば良かっただろうか。いや、どうせ同じ事だ。

 プロポーズを受けた時、高い所へ登った時のように体がふわっと軽くなって、同時にぎゅうっと縮こまるような感じがした。絶頂とは違う言い様の無い感動が背中を這い上がった。しかしそれを堪能する間もなく、「どうしてこんな事に」という俗っぽい、うすぼんやりした感覚に包まれたのだった。


「結婚して欲しい、かぁ」

 一つ下の彼には離婚歴があり、裕子という名前の六歳の連れ子がいた。私の「優」とは違う方の「裕」だ。物静かでちょっと気難しそうな子。いつも怒った様な顔をしていて、見ていると少し胸が苦しくなる。前の奥さんが気難しい人だったんじゃないかしら。それが影響しているのかもしれない。

 その子がいなければ、私はその場で宜しくお願いしますと言ったかもしれない。長谷川さんへの返事は決まっていないけど、もし結婚する事になったとしてあの子と仲良く出来るだろうか。シンデレラの継母もこうだったのかしら。


 私はまだあの子の声を聞いた事が無い。初めて会った時に、バサバサになっていた髪を梳いて括ってあげたけれど、あの子は何も言わなかった。ありがとうとも言わなかった。ぎゅっと力を込めて固まったまま動かず、括り終えるとすぐに長谷川さんの後ろに隠れてしまってそれっきり。

 でも彼が言うには

「初対面で裕子が逃げ出さなかったから驚いたよ。あの髪型がよっぽど気に入ったらしくて毎日括って、括ってって言われて参るよ」

と、実はかなりの高評価だったらしい。本当かどうかは分からない。長谷川さんのお世辞かもしれないし。


 そしてそんな子供の話があった後に例の告白。

 もう少しだけ待ってくれれば良かったのに。そうすれば子供が優先なんだ、と格好悪い嫉妬をせずにすんだ。勿論子持ちの人間は子供優先で考えるべきなんだろう。一般的にはそうだろう。でも娘のために求婚された、という考えが私にはどうしても上手く消化できない。


 ……あぁ、違う違う。本当は時間なんかあっても駄目だ。きっと私はあの子を好きにはなれない。でも、それでも彼とはどうしても一緒に居たい。

 だけど辛い時期を乗り越えた荒っぽい自分が出てきて、また置いて行かれるぞ、と脅してくる。虫嫌いの人間が虫に触れないように、私も他人に心を許せない。そう思っているとふいに、これからずっとそうして生きて行くの? という声が聞こえる。その堂々巡りにさらにあの子が絡んでくる。

 せめて問題が一つだったら。もしあの子がいなかったら、という所で毎回ウンザリして考えるのを止める。そういう考え自体じゃなくて、そういう事を自分は考えないと思っていた事に腹が立つ。


「はぁ。いつからこんな人間になったんだろう」

 全身でため息を付いた。そのまま視線が下がる。下の通りに黄色い帽子をかぶった小学生が見えた。火曜日だから下校時間が少し早いんだっけ、と彼と付き合い始めてから身についた知識が頭に浮かんだ。五、六人くらいが纏まって信号待ちをしている。あの中にあの子もいるかも。その後ろで手を繋いで跳ねてる二人……は違うだろうな。大人しい子だもの。


 私はあんな風にぴょんぴょん跳ねるタイプだったなぁ。中学生になってもそんな感じのままだった。高校で流石に多少控える様になって、それで大学で……大学時代にあった男に「かっこいいね」と、今まで言われた事の無い褒められ方をされてあっさり落とされた。すぐに付き合う様になって、やがて同棲し始めて、彼の真似をして煙草を吸って、数年が過ぎ、社会人になり、信頼し合える仲だと話をした次の日、突然その人は消えた。

 何が起こったのか理解出来ず、泣いたり怒ったり自分を責めたりしているうちに一年が過ぎた。手負いの獣が身を潜めて傷を癒そうとするように、私も仕事をする以外は家に閉じこもっていた。手当ての方法も分からず、ただ傷があるらしき場所に包帯をぐるぐる巻いてうんうん呻って、気が付けば八年も経っている。馬鹿らしい、と思いながら携帯の番号は変えず、煙草も止めなかった。らしい、じゃなくてただの馬鹿だ。


 根拠は無いけれど、私はずっと日なたを歩み続けるんだと思っていた。お日様の下で笑って、皆で海に行ったりして、友達の中で一番最初に結婚して。でもそうはならなかった。

 置き去りにされた後も色んな分岐点があった。友達も心配してコンパだなんだと誘ってくれたけど、私はそれを拒んだ。気軽に出会って気軽に付き合うのは良くないと思う事にしたから。そういう方向で傷を癒そうとした。本当に本気で人と付き合うんだ、それ以外は要らないんだ、あの人はそれ以外だったんだと思い込もうとした。

 でもそれ以上に人と会わないと駄目だったんだ。そう気付くのに何年もかかってしまった。


「あぁ~あ。何だか変なことになっちゃったなぁ」

 大きな独り言を言いながら、手摺に両手をかけて思い切りのけ反ると、後ろに人の気配を感じた。しまった。変な所を見られた、と振り返ると小さな小学生がランドセルのベルトをぎゅっと握って、固まったように立っていた。いつもの様に不機嫌そうな顔で目を伏せている。ズキズキとまた胸が苦しくなってくる。

 ……いけない。きっと今私嫌そうな顔をしている。


「駄目よ、こんなとこに来ちゃ。お父さんに危ないって言われてるでしょ?」

 作り笑いに注意が行って、少し叱る様な言い方になってしまった。あぁ、嫌われてしまう。

 目の前の女の子は体をぎゅっと固めたまま動かない。……けど泣いたり逃げたりもしない。


 子供相手の気まずい沈黙。大人なんだから私が話かけないと。でも一体何を話していいのかしら。学校の話? お父さんの話? 今まで話どころか声すら聞いた事がないのに。

 そうだ。髪を梳いてあげるのはどうだろう。私の数少ない武器。でも今ブラシがない。じゃあ髪を綺麗に括ってあげるのは? 前に括ってあげたのが気に入ってくれたらしいから……。でもそれが彼のお世辞だったら……。


 オロオロしながら考えていると、目の前の小学生は一歩こっちへ近づいて顔を上げた。私を見詰める眼には涙が浮かび、今にもこぼれ落ちそう。思わず息をのむ。様子がおかしい。

 前よりもっともっと不機嫌そうで悲しそうで、でも何かがひっ迫している。

どうしてここへ上って来たの? 何か言ってよ。話をしてくれないと何も分からないじゃない。私も何も言えないじゃない。そんな目をしてたらこっちまで悲しくなるじゃない。


 グジャグジャに濡れた長いまつ毛。浮かんだ涙。目頭の筋。どこか見覚えがある。胸が締め付けられる。瞳の端には灰色の空が白い星のように映っている。浮かんだ涙にも。

 瞳の真ん中には影が映っている。その影は……?

 

「……あ!」

と言った瞬間、私は苦痛から解放されていた。

衝動的に手を取り、赤い大きなランドセルを剥ぎ取り、放り捨てる。

「おいで裕子、おいで」

 言葉とは裏腹、無理やり引っ張って滅茶苦茶に抱き締めた。両腕の中の小さな子は体を強張らせたまま、自分を保とうとしているよう。でもそれも数秒の事だった。裕子は口に入れたラムネ菓子の様に溶けて、私の腕と馴染んでしまった。


 この子も大好きな人に置いて行かれた。どうしてこんな事も考えてあげられなかったんだろう。

 この子は勇敢だ。私はそうしようと思うまでに何年もかかったのに。

「偉いねぇ、裕子ちゃん」

 思わず口を付いたその言葉に、腕の中の体にまた少し力が入る。そして小さなキーンという音が聞こえ始めた。

 大昔に聞いた音だった。我慢しても出てしまう音。

 隠しても分かるのに。



 結局何も言葉を交わさないまま私達は打ち解けた。

 頭を撫でてあやしていると、裕子が鼻をすすりながら顔を上げた。何か言うのかとじっと待っていると

「タバコ」

「え?」

「お父さんが駄目だって」

 さっきの私と同じような口調で窘められた。咥えているのをすっかり忘れていた。あんまり長い事口の中にあったせいで、端が唾でヘロヘロになってしまっている。そこだけ齧り取って、ちょっと得意げに巻き紙をぺりぺりと細く細く剥がしていく。そうして現れたすべすべの茶色い棒を、興味深そうに見守っていた裕子の口へくいっと押し込んだ。

「これなーんだ」

「……チョコレート!」


 快哉の声に、堪らず裕子を抱き上げた。もう私の子だ。こんな可愛い子をどうして悪者にしていたんだろう。


 頬擦りに邪魔な帽子を取ろうとしたら、またびゅうっと強い風が吹いた。裕子の帽子を押さえようとした拍子に、チョコを巻いていた紙が飛ばされて行く。

白い細長い包み紙が高く高く舞い上がる。何故か少し惜しい気がしたけど、もう手は届かない。


 二人で抱き合ったまま見送った。

 白い紙は可哀そうなほど上へ下へと迷いながら飛んで行く。


『継母』『チョコレート』『屋上』の三題話です。

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